「椅子に座る」ということについて考える

発表日:平成13年6月20日
発表者:久保 ひろこ
1. 椅子に座るということ
  1. 椅子は当たり前?

      椅子に座るということはあまりに日常的で、ごく自然な行為だと思われている。しかし、毎日椅子に座るということはヨーロッパ文化のみで育ったもので、それ以外の文化圏のほとんどでは圧倒的に床、マット、あるいはクッション、台に腰掛ける、跪く、あぐらをかくなどしてきた。

  2. 椅子の象徴性

      椅子に座るということにはどのような意味があるのだろうか。どのような必要性があって、今日椅子文化は広まり、定着しているのだろうか。ヨーロッパでも広く一般人は長いあいだ、台や箱といった簡単な造りの日用家具や、切り株のような自然に存在するもの、つまり椅子ではないものに座っていた。それに対し、支配層である特権階級の人は自分専用の椅子を所有していた。王は玉座、貴族の女性は肘かけのない椅子、残りのものはスツール(背もたれも肘かけもない椅子)といったように、椅子には身分階級との関係が定められていた。床座の文化圏でも身分ごとに座を占める場所が定められていた。座る場所が地位や身分を示したということから、椅子に象徴的な意味がもたらされたとわかる。

      椅子の象徴的意味は今日英語の「chairman」や日本語の「椅子」という言葉にも含まれている。王の玉座は例えばエジプト文化ではライオンなどといった多彩な装飾が施されていて、椅子そのものを強く見せることで、その椅子の保有者の権力を表していた。そもそも椅子は実用品という以前に、彫刻としての要素が大きかった。

  3. 椅子が象徴的意味をもったわけ

      椅子はどのような背景から象徴的な意味を持つようになったのだろうか。ひとつには、椅子が腕、脚、足、そして背を備えていて構造上人間に類似していることから、その上に座るということは支配することを表す、と見ることができる。また、王の玉座はエジプトでは常に台座の上に載っているが、それにはエジプト神話との深い関連がある。エジプト神話では、すべてのものは丘からはじまり、最初の丘の出現が世界のはじまりになっている。玉座にとって台座はその太古の丘になぞらえられてその上に置かれ、全ての人間に君臨する王が一番最初の人間としての特権を与えられてその上に座るという意味があるのだ。
      それ以外の文化圏においても玉座は段上に置かれてきたし、玉座に限らず椅子でなくても王や神の座は、民衆よりも高い位置に据えられてきた。古くからどの文化圏においても支配者は被支配者の、物理的にも上に位置する。日本語の古語で「台」とは、食べ物をのせる台や、食事や食べ物そのもの、または高殿や高楼を意味した。つまり日本において、台とは拝むべきものをのせるところだったため、椅子は当初特別な人間をのせる「台」としての意味を持っていたのではないだろうか。腰を掛ける台、または休息所として「腰掛け」なるものは存在していたが、椅子としての形をもつのは、ヨーロッパ文化の輸入によってだった。

  4. 椅子の普及と民主化

      工業化にともない椅子の大量生産が可能となり、職人による手工業生産で一部の人だけが椅子座っていた時代から、貴族のみならず民衆も台ではなく椅子に座る時代となった。椅子の普及は、椅子に座る権利の一般化、すなわち特権の均一化であり、それは民主化を意味した。1851年、 ミヒャエル・トーネットは曲木の技術を完成させ椅子の大量生産への道を切り拓いた。コーヒーはそれまで上層階級だけに愛好されていたが、当時いたるところに公共のカフェハウスが出現しだしていたこととも関連して、トーネットのカフェハウスシュトゥールは身分や権威とは無関係な"開放された"椅子としてステータスシンボルとなった。
     
    また、椅子の普及は政治的民主化のみならず、芸術の民主化でもあった。上流階級だけのものであり、それまでは箱や台などに座っていたことを考慮すると、椅子は実用品というよりも芸術品としての要素が強かった。つまり無くてもすむものであったし、使えなくても椅子自体象徴性を持っていた。しかし、椅子の存在自体が機能でもあった。よって、椅子とは芸術と技術の合わさったもの、つまりデザインされたものである。特定の人のためのものであった芸術は、デザインというやり方で実用性を持つことで民主化されていった。椅子にも同じことがいえる。

  5. オブジェなのか実用品なのか

      バウハウスでは、装飾をできるだけ削ぎ落として、実用性の機能美を追求した。 椅子のデザインにもその傾向は明確に現れている。しかし、椅子の存在自体が、機能であり実用品であると同時に、オブジェでしかないとも言える。椅子を作るという行為は、用途がなくてもそれ自体象徴性をもつ芸術品の創作行為であり、しかし存在させたと同時にどんな形であれ椅子である以上実用的機能を持つのだ。
     
    その矛盾が、座りやすさ重視の機能椅子か、芸術性重視のオブジェ椅子かを分け難くする。今日でも、機能的な椅子や、量産できて安価な椅子の一方で、例え座りにくくてもオブジェ的、芸術的な椅子も生産、支持され続けている。芸術的要素と実用的要素を一固体の中にあわせもつところが椅子のデザインのおもしろさであり、デザイナーはデザインを媒体としてアイデンティティーを伝えている。椅子が芸術作品であるという観点にたち、椅子の構造と外観を通してデザイナーのメッセージを伝えている



chairman
大企業の取締役。

chair
家具の一つで一人の人が座るためのもの。座と背と四本の脚でできている。
     会議での責任者の役割、または責任者。
     教授であることの地位。


椅子腰を掛けるための家具の総称。
   (権威の象徴として使われたことから)地位、ポスト。


腰掛け腰を掛ける台。
      城内や武家屋敷で下級武士の控えるところ。
      茶会で客のために設けられた休息所。(cf.腰掛茶屋)



ミヒャエル・トーネット
カフェハウスシュトゥール
http://www.thonet.de/

 
〈考察〉

  椅子に座る文化圏とそうでない文化圏の違いは建築物にも影響が現れていて、ヨーロッパ建築の通常の窓の高さは、椅子に座った視点を基準にして設定されている。一方アラビアの建築物では、クッションに座るため、窓の高さは床からわずか上にあがったところにある。日本の場合、窓は床の高さにある。このことから、椅子に座った視点を中心とした空間デザインが、実は古来から無意識的に行われてきたと思われる。