前回の個人発表では、古代における社会的役割や地位の象徴としての椅子から
近・現代における実用品としての椅子への、民主化と発展の歴史を見ました。 それによって、椅子に座るということが持つ意味を考察し、椅子を社会的に、
外側から分析してきました。今回は椅子を理論的に、内側から分析していく ことにします。理論的意味での「建築」としての椅子に、4人の異なる分野の
人物の側からせまっていきます。
椅子のデザイナーとして有名なイームズの出発点は建築家であった。
イームズはワシントン大学の建築学科で学ぶ傍らで、設計事務所で働いて 実務に携わっていた。後に大恐慌の影響で誰もが無一文になって、独立開業
するしかなくなった。イームズはハーバード大学の講義で自身の生い立ちに ついて語ったときに、当時のことをこう話している。
「なんというか―じつにすばらしい経験でした。設計事務所はなにからな
にまでやらなければならなかったのです。小さな教会の仕事をしました。 普通の家も、大邸宅もやりました。彫刻する部分があれば自分で彫る。
壁画を描く部分があれば、自分で描く。教会の礼服のデザインもしました。 邸宅の照明や敷物や彫像のデザインもしました。1931、32、33年に
設計事務所をやるというのは、二度と出来ない貴重な体験でした。」*
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あまりに革新的すぎて学校に馴染まないことと、当時の前衛建築家
だったフランク・ロイド・ライトに感化されすぎているということから ワシントン大学を退学になった彼は、当時彼が友人と運営していた設計
事務所の仕事がきっかけでエリエル・サーリネンに抜擢され、クランブルック 大学に入学した。あらゆるデザインの課題を「建築」として捉える
というクランブルックの理念はイームズに強い影響を与えた。 イームズはクランブルック時代のことについてはこう言っている。
「このころからいろいろな問題に建築を応用するようになりました。
われわれのところに来る問題はすべて、建築として取り組んだのです。 この話をしたのは、建築とはなにかということについて、その一部を伝えた
かったからです。」*
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イームズといえばまず椅子を思い浮かべる人が多いが、椅子は彼の残した作品
(物とは限らない)のごくわずかな側面に過ぎない。設計事務所時代にやって いた邸宅や教会の設計にはじまり、家具のデザインと製作、雑誌
「アーツ&アーキテクチャー」の編集、映画の製作、おもちゃの製作、 企業の広告、展覧会のキュレートにいたるまで職業の枠組を超える広範囲の
仕事を成し遂げてきた。この一見統一性が無いように見えるイームズの業績に 一貫しているのが彼の建築理論である。
「僕らはすべてを建築と考えているんだ。椅子も建築だし、映画も建築だ。
新聞の一面に構造があるのと同じように,映画にも構造がある。 椅子はまさに「ミニチュア建築」なんだ。建築家にとって建築物
をコントロールするのは難しい。工事業者やもろもろの圧力がかかってくるし、 何をするにも金がかかる。だが、椅子の場合はほぼ等身大で扱える。
だから、偉大な建築家たちは椅子に関心を持つのさ。 フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ、
ル・コルビジェ、アールト、エーロ・サーリネン―数えきれないほどの 建築家が椅子を手がけている。その理由は、自分自身の手で
作れるからさ。」*
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イームズは常に建築家としての視点からデザインしていたということと、
イームズだけでなく多くの建築家ガ椅子を手掛けていたことから、 椅子が素材や構造上の要素、人間光学的要素、芸術的要素など様々な要素から
なる構造物(建築物)として注目すべき存在だとわかる。
* 以上の引用:太田佳代子『イームズコンセプトブック』より
フランスの偉大な建築家、ル・コルビジェは、イームズと同時代に生きた
人物であり、イームズが多大な影響を受けたバウハウスの創始者である ワルター・グロピウスとともに新たな建築理念の構築を志す同志でもあった。
当時のコルビジェの「革命か、建築か」という言葉にみられるように、 彼は建築の名のもとにあらゆる分野の能力や機能を統合することによって
社会に調和をもたらすという、それまでの概念に捕らわれない、全く新たな 建築理念を掲げていた。
「建築は、現在では、最も合法的な行動を調和よく行い得るようにする
社会の道具であるともいえよう。このわれわれの文明―物質的たると 精神的たるとを問わず―の構成要素の中に見られる本質的なものを、
あるいは文章によって、あるいは図を用いて、余すところなく取り出し、 分析し、説明し、解釈し、一点の曖昧な点も止めず、すべての人の眼に明らか
にし、徹底的に解明して、国家の判断に供しようというのが、われわれの狙い である。」*
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このように、コルビジェの「建築」という概念はこれまでの建築の概念を
超越する、より広範囲にわたる意味を持っていたため、当然のことながらそれ に伴って、建築家(かれはそれを「建築者」と呼ぶ)の役割もより
広範囲にわたっている。
「いわゆる建築家と称する人々と、世に技師と呼ばれる人々とのいずれも 負けず劣らず鼻息の荒い二つのグループに分裂させられてしまった現在の
建築術などというものは、世間一般にとっても、要路の人々にとっても、 ただ単に厄介極まる問題としか思われないに違いない。この果てしない論争に
片をつけてくれるのが建築者である。…………建築者は製作場に もおれば、お寺を建てる足場の上にもいる。彼は詩人のごとく頭脳明敏で
創意に溢れている。そして皆おのおのそのところを得て、秩序よく自己の 地位を占めているのである。」*
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つまり、大工も職人も、設計図を書く人も分断せず、「建築者」という連続性
を持った役割に統一したのである。このような調和・統合の考えは建築の 範囲においてだけではなく広く都市論にも応用され、コルビジェは、
都市計画者について以下のように定義している。
「都市計画者というものも建築家と異なるものではない。都市計画者は 建築によって空間を組織し、いわば大きな容器を立ててその中の位置と役割を
定め、あらゆるものを時間的にも空間的にも連絡網を用いて結びつけるという 仕事をする。いっぽう建築家は、たとえば一個の住宅を手がけている時でも、
あるいはその住宅の中でさらに例えば台所だけを扱っている場合でも、 同じように容れるところを設けて空間を作り、連絡を確保する。すなわち
創造的活動の面からいったら、建築家も都市計画者も、結局は一つのものなの である。」*
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コルビジェの言う「建築」は、今日で言うインフォメーションデザインに
近い概念で、時間性と空間性の両方にまたがるかたちのないものの配置と 連結の作業だととらえられる。
* 以上の引用:ル・コルビジェ『輝く都市』
森稔氏は、赤坂アークヒルズの開発によって森ビルを貸ビル業から都市開発
のパイオニアへと脱皮させた森ビル現社長だ。2003年竣工予定の六本木 ヒルズは森ビルの都市開発の集大成でもあり、森氏の提唱する都市再生論を
具現化する都市モデルである。森氏は六本木ヒルズを 「都市生活を楽しむ時間を創造し、多彩で個性的なライフスタイルを
デザインできる街。ここからオリジナルな都市文化を生み出し、東京の文化 都心にしたい。」* と言っていて、政治や経済の核はあっても日本にまだ無い文化の核として
森アーツセンターを六本木ヒルズにつくり、 東京の文化都市づくりに挑戦しようとしている。
森氏は若い頃に感銘を受けたコルビジェの『輝く都市』がきっかけで、
以来コルビジェの作品を集め始めている。そこから世界の美術愛好家 との交流がうまれ、この人間関係を背景に六本木ヒルズの象徴となる
現代美術館・森アートミュージアムとMOMAとの提携が実現した。 森氏は都市とアートは相互作用で成長して行くものだと考えていて、
都市計画によって芸術家やデザイナー、建築家、学者、実務家など 日頃接点が少ない人々が場を共有することで、自然に交流が
始まる効果を狙っている。
「アートは単に美術や芸術だけでなく、人間の知恵
や感性が生み出すすべての技を指す。学術、技術、科学、デザイン、 ファッション、建築、今では金融技術やITも含まれる。これらの技は専門分化
しているが、21世紀はこれらを融合させて新しいものを 生み出す時代。それをビル建設による都市開発で実現したい。自然が神の
総合芸術なら、都市は人間の総合芸術。 自然と違って都市は不完全だが、日々進化する。あらゆるものが都市を進化
させる要素になる。」*
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都市計画によって生まれる人の交流がアートを生み出し、またアートによって
生み出された人の交流によって都市は発展するのだ。また、そのような人の 流れを生み出す都市計画そのものがアートなのである。
「これからのビジネス拠点は土日やアフターファイブも楽しめる街で なけりゃいけない。高度情報社会は仕事も遊びもボーダレス
オフィスビルしかないような街で働いていたら、ビジネス感度も発想も 鈍ってしまう。」*
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と語る森氏は、アートとビジネスと生活がボーダレス
につながる街として縦型コンパクトシティを提唱する。 そこでは、徒歩圏に機能が凝縮されているため深夜まで楽しめるし渋滞もなく、
通勤時間や通勤ラッシュがない。 都市計画による空間的なデザインが自由時間の延長を可能にし、
生き方の選択肢を増やす結果となる。
「究極の目標は、都市生活を楽しむ時間を創造し、多彩で個性的な ライフスタイルをデザインできる街。」* |
であると言う。それは、ニューヨーカーのように街のなかに住まいもあり、
オフィスもあり、街そのものを自分の家のように住みこなして24時間の暮らし
を自由にデザインできる街である。そのような街づくりによって、楽しむため に働くライフスタイルを実現し、経済力だけでなくトータルな魅力のある
都市―人・モノ・金・情報を惹きつける魅力ある都市;『輝く都市』 ―を生み出すことが森氏のビル事業による都市計画というアートの目指す
とことろなのである。
*以上の引用:『UAリーダーズ』太田三津子「都市生活を変えるか?」より
(考察へ)
野又氏は、「空想建築」という特異な分野を描く画家である。
彼の絵に描かれた建築物は建築学的構造を持ちながらも決して実在し得ず、 見る者を呆然とさせる。しかしそこには幻想の世界にありがちな象徴物や
偶像の装飾もなく、だまし絵的なトリックもなく、観る者を惑わせる作為が 感じられないどころか、観る者が想定さえされていないように見える。
象徴物や偶像はそこから何か(何が象徴されているか)を想起することを観る 者に要求するし、だまし絵はあらかじめ観る者のリアリズムを考慮した上で
そのバランスを崩そうとする試みである。しかし、
「誰のためでもなく、それ自身のために存在する建造物たち。忽然と現れ、 未完のまま、永遠に壊されることなのい…」 |
と作者が語るように、野又の絵はそのような観る者の存在など問題にしていない
かのようだ。
椅子は建築と同様に、基本的に人間の使用を目的として本来作られる
ものである。彼は椅子の絵も描いているが、それらは建築の絵と同様に人間が 想定されていないし、なんの象徴性も持たない「それ自身のために存在する」
椅子である。野又の絵には以下のような解釈がある。
「彼が絵を描くのは、現在欲している衝動を具象化―あるいは建築物という
かたちに抽象化―したものなのだから、これは一種の個人的なカウンセリング ということになる。石や金属といった硬質な素材を用いる建築は、こころ
という不明確なものにかたちを与える過程において、実に有効な手段と いうべきであろう。」
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つまり「建築」とは実際に建築物をつくることや、さらには物理的要素にも
限らず、かたちのないものの具象化なのである。さらに突き進めて言うと、 「建築」とは表現することだと言える。なぜなら、わたしたちが何かを表現
するときに物事ははじめて存在し、しかし表現されるものと表現したいもの とは必ず同一ではありえないからだ。表現するということは「建築すること」
、つまり「つくること」なのである。野又氏にとっては、「建築」という 表現行為の最良の手段が絵画を描くことであり最適の媒体が建築であっただけ
で、芸術家やデザイナー、表現者はみな「建築者」であるが、その手段は椅子 のデザインであったり、都市デザインであったり、映画製作であったり、
実際の建築を問題としない。
「建築」が具象化であると同時に抽象化であるということは、
「建築すること」がもとあるものとは違うものを「つくること」であるから にほかならない。しかし、そうすることでしか表現し得ないのだから
「建築者」たちはそれぞれに芸術家として、デザイナーとして、建築家として、 都市計画者として、あるいは文学者としての視座から対象をとらえて表現
(「建築」)する。自分の位置を定めることによってそれに対する対象が はじめて対置されるのだから、対象をとらえることができるのは自分の視座
を持つ者である。すなわち、表現(「建築」)するということには、 自らの位置―視座(「椅子」)―が重要な意味を持つのである。
*以上の引用:『椅子の研究』第二号、高山宗東「空想建築と椅子」
*視座:物事を見、考える人の立脚点。視点。