→ 『いたるところに存在する、偏在する』 現在、『ユビキタス』と呼ばれているのは、正確には『ユビキタス・コンピューティング』の事を指す。『ユビキタス・コンピューティング』という概念が最初に唱えられたのは1988年に『ユビキタスの父』と呼ばれている米ゼロックス社パロアルト研究所のマーク・ワイザー(Mark Weiser)が提唱したのがはじまりである。彼が1993年に書いた論文の中で『ユビキタス・コンピューティング』を『computing access will be everywhere』と定義している。彼は「人が移動していく先々で、その場所にあるコンピュータを自分のものとして使える環境の実現」を目指していた。すなわち、「どこにいてもネットワークに接続されたコンピュータを自分のものとして使う事のできる環境」を意味している。 ◇◇◇21世紀『ユビキタス社会』の到来◇◇◇↓ 『いつでもどこでも使える、(コンピュータ)環境=ユビキタス・コンピューティングの世界』
@―ネットワークへの接続 |
時代 |
コンピュータとの関係 | コンピュータの位置付け | |
第一の波 |
メインフレームの時代 |
コンピュータ(>)人 | コンピュータ=道具 |
第二の波 |
パソコンの時代 |
コンピュータ(=)人 | コンピュータ=道具 |
第三の波 |
ユビキタス社会 |
コンピュータ(<)人 | コンピュータ=環境 |
1980年代初頭、世界に先駆けて「社会全体にコンピュータが入り込む」というビジョンのもと、当時、東京大学の坂村助教授によって始められた『TRONプロジェクト』が世界中の研究者たちに影響を与えた事から、日本がユビキタスの起源であるとされている。『TRONプロジェクト(The Real-Time Operating System Nucleus)』とは、真に人間にとって使いやすいコンピュータのアーキテクチャを構築する事を目的としたプロジェクトである。
これまでのITの主役 | ユビキタス社会の主役 |
・ネットワーク技術 ・ハードウェア ・ソフトウェア(OS、アプリケーション) |
・携帯電話 ・自動車 ・家電・AV機器 ・ゲーム機 ・コンテンツ |
↓ | ↓ |
【(アメリカ)主導権=(※アメリカ)型ITモデル】 | 【(日本)主導権=(※日本)型ITモデル】 |
これまで、コンピュータ技術やネットワーク技術などに代表される一連のITの波は、全てアメリカ発というものであった。パソコンはWindowsマシンも、マッキントッシュもアメリカの企業が開発したものである。OSについても同じ事が言える。さらには標準アプリケーションのようなものに至っても、Office製品もブラウザも、全てアメリカ製である。
このような状況下の中、日本は高いライセンス料を支払ってハードウェアを開発したり、ソフトウェアを日本語化して販売するなど、常にアメリカの追従であった。しかし、ユビキタス・コンピューティングの時代には、今度は日本が世界をリードする可能性がある。なぜなら、ユビキタス・ネットワークにつながるのは、パソコンやワークステーションといった狭義でのコンピュータだけではないからである。AV機器、家電、自動車、携帯電話、ゲーム機といった様々なものがユビキタス・ネットワークにつながっていく。家電製品や自動車の分野では、ソニーやホンダを始め国際的にも高い競争力を誇る日本企業は多く、又、携帯電話の分野でもやはり世界のトップレベルにある。ゲーム機市場においては世界の市場の大部分を、ソニーや任天堂といった日本企業が握っている。アニメーションやゲームといったコンテンツでも日本は世界で高い競争力を有している。そして製品の小型技術や微細加工技術などは、まだ日本は世界のトップレベルにある。要するに、来るべき世界中の注目を集めているユビキタス・コンピューティングの情報社会では、まさに日本の得意とする土俵である事が実証されてきているのである。「IT革命」や「e-Japan構想」に見られるように、現在、日本は国をあげてIT化に取り組もうとしている。その目指すところが、高速通信ネットワークを張り巡らすようなアメリカ型ITモデルではない事は、火を見るよりも明らかである。日本の歩むべきIT化のモデルが『ユビキタス・コンピューティング』である事は明白ではないか。
文明開化―「人知が開け、世の中が進歩すること(広辞苑より)」、を「今までになかったことができるようになること」と異訳したとするならば、ITにより確かに文明が開化したと言っても過言ではないだろう。しかし、ここ数年はそれがあまりに過大評価され、直ちに全ての経済・社会が一変するといった話が取り上げられ過ぎてきた。だが、世界中の一人一人がネットワークで結ばれて情報交換できるようになり、モバイル端末を各自が持っているという状況・姿はやはり新しい文明であり、デリック・ドゥ・ケルコフの言葉を借りれば、「新たな知性のステージに向かっている」。つまり、人々の知識がネットワークを介して共有されたり交換される。さらにそれらの知識がデータベース化され、必要なものが瞬時に探し出せる。これは新たに人類の知恵の集積をつくっていくきっかけとなっていくだろう。これはデリック・ドゥ・ケルコフの予言した「結合知」への兆しであるとみていいだろう。
そして、これらの経緯が来るべき「ユビキタス・コンピューティング社会」の到来を準備するものである事も大方、間違いないだろう。先にも述べた通り、家電や各種電話、腕時計やポータブルMDプレーヤーなどがネットワークで結ばれ、駅の自動発券機やコーラの自販機までもがネットワークにつながれ、車や電車の中からでもインターネットにアクセスできるような社会が「ユビキタス社会」であるとされる。すでに車に関して言えば、GPSの搭載と携帯電話などを利用した双方向のカー・ナビゲーション・システムなどでインターネットへアクセスしていく原型はできている。又、インターネット家電としては、冷蔵庫内の残り物で作れる料理のレシピを探し出してくれるものや、留守中に洗濯を指示できる洗濯機などが登場している。パソコンのような電源を確保したり、難しいプロトコルの設定に苦労したり、アクセス回線の遅さにイライラする必要はなくなっていく。
それでは「ユビキタス」が私たちにもたらすものとは何か。多種多様な恩恵が考えられるがその一つとして、ユビキタス社会には新しいコミュニティが育つ可能性がある。常時、いつでもどこでもネットワークに参加できるようになれば、人々は電話代や時間やアクセスの速度を気にする事なく情報の交換をする事ができる。「便利さ」こそが人々に最も支持される21世紀の社会において、ユビキタス社会を必要としている大きな要因の一つは「コミュニケーション」への欲求なのかもしれない。ここで重要なのは「誰にでも便利」という条件付である。そのためにも、高所得層ほどITの恩恵を受けるような社会ではなく、貧富の差や国境を越え、ネットワークが提供されなければならない。
又、真の意味でユビキタス社会への移行が急務であると言える分野は、福祉・介護といった、いわゆる「情報弱者」とされる高年齢層や障害者を中心とする人々のために、ユビキタス社会への準備をしていく必要がある。余談ではあるが、世間一般で言われる「情報弱者」という言葉には少しばかり疑問を感じる。地域の研究を通して、「情報弱者」とはつまり、「現代の若者の事を指す言葉である」、というのが私の見解である。地域の事に関して言えば、ご老人の方がはるかに地域の事や、世間一般の事を知っている。情報量で言えば若者をはるかに凌いでいるのである。重要なのは、20世紀の終わり頃から、コンピュータが使える人と使えない人の格差が広がり、社会の階層が形成されてしまう事が問題となってきたが、この「デジタル・デバイト」と呼ばれる問題を解決する事が期待されているのもユビキタス社会なのである。「誰もが簡単に使える」コンピュータが「いたるところに存在する」ユビキタス社会の実現は、人々がデジタル・デバイトから解放される事も意味しているのである。実際、地域においてもデジタル・デバイトの問題によりITの恩恵から遠ざかる人々を何人も見てきた。そういった意味でも、今回、この「ユビキタス・コンピューティング」を研究の柱として展開し、さらに今後はこのようなユビキタス社会の到来を地域の人々に伝え、真の意味で地域、国民の一人一人がそのITという、意識的にその恩恵を受けるのではなく、紙媒体に代表される新聞や雑誌のように、何も意識する事なく、生活の一部として、つまりITが環境として浸透していく事を推進していきたい。
21世紀は「文化の世紀」になるだろう。文化の特徴は「違い」にある。その「違い」を理解し、楽しむことがこれからの世紀であり、それは「多様性の時代の到来」を意味している。アメリカ追従の思想は20世紀に置いていくことにして、日本独自の文化を世界に発信していくことに、日本の未来があるような気がしてならない。IT分野に関しては、その独自性を「ユビキタス・コンピューティング」に垣間見る事ができるだろう。しかし、私が本来、このテーマを通して得られた事、伝えたいことは世界の中で「日本人たるものがどうあるべきか」、もう一度、私たちの広義での文化に目を向け、日本人たるアイデンティティを取り戻す必要があるのではないだろうか。