●○ 研究テーマ:日本という国と芸術の神話
〜イラストレーションは芸術か?〜
私達日本人は、芸術を通してどのような神話をみているのか。ここでいう神話とはバルトのいうような神話であるが、幅広いメディアの中に存在し(そういう意味で社会とのかかわりの場が多いと思われる)、日本におけるアートの主流といってもいいのでは、と提案されているイラスト(幾分かラディカルな意見だとも思うが)を通して、日本人の抱える神話と芸術の抱える神話に迫ってみたい。
●○ 研究動機:何をもって芸術にせまるか。
どのような姿勢で芸術に接していくのかということを考えた結果、まず芸術とは何か?という問いから離れられなかった。今現在、少なくとも日本においては、前衛芸術はもはや存在しない、なんでもありのボーダーレスの芸術時代といわれているようだ。それは本当なのか?コンテクスト的挑戦であるのか?新たな幻想の創造を目指しているのか?もはや芸術というカテゴリー自体必要ない、と言い出すグラフィックグループもある。
しかし、今でもイラストなどは芸術だと考えられてはいない。商業美術のひとつであって芸術というくくりで考えられることはあまりない。本当のボーダレスならハイアートもサブカルチャーもないはずだが。
多くの人は芸術について考えるとき、「なんだっていいじゃない。この感じ(=センス)は言葉で説明できない。たまには(芸術についてくらい)考えすぎない方がよい」などといって肝心なところがはぐらかされている。人は言葉で思考しているはずなのに言葉に出来ないと思うのはなぜか。そのはぐらかされているところが何なのかをみてみたい。2014年までに今のアート幻想はなくなり、すべてはミクスチャーで個性なんてものはどうでもよくなるという人がいる。ではその人たちのいうアートって一体何なのか?みんながアート、芸術をモヤモヤしたものと感がえていて、だれもつっこめない。そこに風穴をあけてみたい。
初期衝動:Studio Voice 2000九月号での村上隆と中ザワヒデキの対談での問題提起
芸術は社会の中に存在し、つまり政治的な文脈と経済的な文脈とは切り離して考えられないが、その一方で芸術というもう一つの社会構造をもっている。
→日本において、その芸術という社会構造はなんなのか?
日本における現代美術業界という共同幻想。マーケットとハイカルチャー、ハイアートという幻想。現在は幻想は無化しており、その意味でもコンテクスト化が必要である。
→なぜコンテクスト化が必要か?
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現在の若手のイラストにはおもしろいものが多い、それらの作品を「アート的」にとらえるようにすれば(つまりコンテクストを付与するだけで)、ハイアートとして、つまりサブカルチャーではなく、サブサブカルチャーでもなく世界に受け入れられるのではないか。
日本においてはハイテクスト化する必要はなく、ハイコンテクスト化は西洋美術の文脈にそって行われるもので日本の社会の中では必要ない。
→世界にのみコンテクスト化する必要があり、日本にはないという。つまり日本におけるアートとは世界からの逆輸入というコンテクストが必要だということか?それはなにか矛盾を抱えている気がする。日本におけるアート的となるコンテクストとはなにか?
いまだその方向(純日本製で世界に通用するであろうイラスト)で行く上がり(目標、ゴール)がみえない。
→なんとなく納得できるが、そこを探求してみたい。
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●○ 研究のアプローチの方法:
- イラストってなんだ?という問い。
- そのための見方、迫り方の決定
−バルトの神話作用という観点で日本と、芸術に迫る。
(ロラン・バルトの『神話作用』1956)
- そこから世界をみる。(まだ未定です)
1.イラストについて
普遍的であることよりも即効的な効果を目され、すばやく消費される「消費される絵画」といわれる。
「イラストは世につれ、世はイラストにつれ」といってもいいようなもので、変幻自在にスタイルを変え、流行を産み、時代を生き、絵画を見る楽しみを圧倒的に満たしているメディア。特に大衆社会と密接に絡みつく。またその活動の場、幅は広い。
「性質―ポジティブ、享楽追求。つまりイラスト−大衆社会を歓迎し、享楽す。ポジティブな側面を持つ」と考えられ、「ポップアート−大衆文化を茶化し警告。ネガティブな側面を持つ」と考えられていた。がしかし、1970年後半のバッドアートと呼ばれたニューペインティングが絵画の復権を求め始めて以降(絵を書くことの楽しさを含むと思われる)、絵画とイラストはある部分において歩み寄りをはじめ(イラストは自信のポジティブな側面を疑うようになり個人的な表現に興味を持ち出す)、そしてこのことはまさに日本において、その中間領域が存在し、どっちつかずで縦横無尽に生きようとしている。
今やイラストが拡張し、環境(メディウム、アートシーン等)を超越している、またはしつつある。
☆イラストメディア(代表的なもの)
- プリントメディア・ 書籍−装丁、挿画、絵本、漫画
・ 雑誌−表紙、挿画、イラストマップ、広告etc.
・ 新聞−挿画、広告、etc.
・ 広告
・ ポスター
・ カレンダー
- 電子メディア・ テレビ−アニメ、CM、タイトル、CG、etc.
・ コンピュータ−アイコン、GUI、コンピュータゲーム、CG、etc.
- 街頭メディア・ ウォールアート
・ ネオンサイン、ビルボード
・ ショーウィンドウ
・ インテリア(空間機能)
- 商品メディア・ キャラクターグッズ
・ 食料品
・ 衣料品―ファッション
☆イラストに必要なこと、現在のイラスト概念とその問題(イラストレーター達が考えていること)
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個人的な感覚の部分(つまりは個性の問題)と、公共性の部分の両方を併せ持つ。
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キャラクターの必然性。ブランドイメージ。
発注されて書くということ(企業だけでなく、ADやデザイナーなどもいままでのイラストイメージをみて発注する場合が多い)。
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即効性とインパクトの大きさによる、無差別な影響。
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他の表現媒体との融合。文字との一体/小説との一体/音楽との一体。
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アナログ、デジタル。
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グラフィックアートにおけるすべてが模倣のミクスチャーでできている、という発想。個性の不在。または個性、手管の再利用、リミックス。
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消費されるということ。etc.
2.神話作用について
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神話とはことばであり、話かけであり、伝達の体系である。そのため概念または観念などではなく、意味作用の一種である。
→神話を読んでいる際、観念が何であるかはが問題にならない。それはそこに存在するものとして自然に受け入れられる。
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そしてすべてが神話でありうる
=社会的用途を与えられている。どんなメディウムも関係なく、原作より模写の方が、肖像より漫画の方が意味付けしやすいという点で違いがあるだけである。
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神話の言葉は、馴化された意味伝達のためにすでに用意された材料によって形作られる。意味付けする意識を前提としている。
神話における概念はいかなる定着性もない。出来上がりもし、変質もし、分解するし、完全にきえさりもする。
☆神話作用の図式
(例)(例)
例より
神話の意味作用は一種の絶え間ないどんでん返しによって構成されている。
神話は、その文字通りの形、(わたしはライオンという名だ)によっても、その意図(私は文法の例文だ)によっても規定される言葉であるのを知っている。=通告と確認
↓
故に神話が求めているのは、その命令の呼びかけが求めているのは「わたし」なのだ。
・みたものを動機付けて、個人的な歴史のしるしとしてその場所においた様々な意図の総体を認識させようとする。=そこにある事実は意図を凍結し停止させる。
そこでは有縁化が起こっている。つまり類推するのだ。←歴史が供給する。
→全体的映像というものは神話を排除するか、または少なくともその全体性をとらえる他はないようにする。(低俗な絵の場合。全体的に〈充実〉と〈有限〉の神話の上にできあがっている。〈欠如〉の神話化する一方で〈過度の充満〉を神話化する)
☆神話の読み取られ方、読み取り方
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空虚な意味するもの(形式)に焦点をあわせる。(概念から出発し、それに形式をさがしてやる)
みているもの→神話の例示、象徴⇒神話生産者の視点
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中身のある意味するもの(意味)に焦点をあわせる。(神話の意味作用を分解し神話をまやかしとしてうけとる)
みているもの→神話の不在証明(アリバイ)⇒神話学者の視点
意味と形式から抽出できない全体として、神話の意味するものに焦点をあわせる(両義てきな意味作用を受け入れる)
みているもの→存在そのもの、自然、理由⇒神話の読者真実であり、非現実的である歴史
⇒神話の図式を一般的歴史に結びつけ、特定の社会の利益にそれがどのように答えているかを説明し意味論から観念形態論に写ろうとするならば当然第三の焦点に身をおかねばならない。
☆バルトはフランスにおける神話作用に影響を与える観念をブルジョア・イデオロギーと考えているように書いている。
では日本における芸術の神話に影響を与えるものは何であろうか?ということを考えたい。
☆ポップアートにおける神話作用
☆みんながアーティストになる日「URBANART・メモリアル」
参 考 資 料
ロランバルト『神話作用』1956 篠沢秀雄訳 現代思潮社
京都造形芸術大学『イラストレーションの展開とタイポグラフィの領域』 角川書店
SUTUDIO VOICE 2000年9月号「honey painting」、2001年6月号「poetic horizons」
榎本了壱監修『アーバナート・メモリアル』
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