● シュルレアリスムの歴史的背景 ●
シュルレアリスムはフランス、パリで生まれた。
1917年に詩人ギョーム・アポリネールが、自作の戯曲の装置を担当した パブロ・ピカソの舞台美術を指して「シュルレアリスム」言ったことに
由来する。1919年に、アンドレ・ブルトンらによって始められた雑誌 『文学』とそれ以降の様々な雑誌のために集まった人々によって展開し、
1924年の彼らによって発表される「シュルレアリスム宣言」への土台が 作られていった。
『文学』に取り上げられた詩人や文学者にはアポリネールの他にも古くは
詩人のランボー、マラルメなどがいた。『文学』は当初パリ・ダダの影響を 受けたが、その否定的・拒絶的態度とは一線を画していた。
提唱者のブルトンとその友人たちはこれまでの言葉やイメージの刷新、 否定でなく創造を目指したのだった。彼らを運動へと駆り立てたものは、
「非順応主義」の姿勢と、当時の第一次世界大戦の最中でも変わることのない ブルジョワジーの無気力さへの嫌悪であった。
彼らは理性に基づくものをすべて疑った。そしてヨーロッパに 根強く残っていたキリスト教教会の精神主義やデカルト主義に激しく対立した。
彼らは反対に無意識や夢の領域に注目し、「魂の言語」 を表現する方法の探究を試みたのだった (深層の「自我」をあらゆる論理的装置を剥ぎ取って明らかにすること)。
シュルレアリスム的手法では詩的な要素を第一としていた。
たとえば彼らは「自動書記」という手法を用いた。 1920年にブルトンとフィリップ・スーポーによってかかれた『磁場』は
この先駆けであった。しかし、雑誌『文学』はその後ダダ色が 強くなっていったため、ブルトンはそこから離れ、新たな『文学』を
単独編集した。第一号にはニューヨークから渡ってきたマン・レイが表紙を 描き、二号ではフランシス・ピカビアを迎え入れ、そして五号目には
マルセル・デュシャンが紹介され、エルンストも誘いを受け、 後半パリに移り住み、雑誌に加わった。このように最初のシュルレアリスム運動
の核が形作られていった。シュルレアリスムは組織化されたグループとして 活動してゆくことで世界や社会を変革しようとする運動を開始する。
雑誌はエッセイストや小説作家よりも「見者」である詩人が優位に立ち、 この新しい雑誌は反文学の機関紙の体をみせた。 そして、1924年にシュルレアリスム『宣言』が出されると、
シュルレアリスムは精神分析的な考察を加えた「夢の全能性への信頼に基づく」 芸術活動の総称となった。その後29年まではグループの機関紙として
『シュルレアリスム革命』が作られることとなる。
その後ブルトンらをはじめとするシュルレアリストたちは革命運動を中心に
集団で結束し、フランス共産党に入党するなどの政治的活動をする。 シュルレアリスムの活動は革命運動にはじまりその後も革命にこだわった。
「『世界を変革する』とマルクス、『人生を変える』とランボー。 この2つのスローガンがわれわれにとっては一つになる」とブルトンは
1935年に述べた。しかしもともと理性的なマルクシスムと理性を排除する シュルレアリスムとは実は双方相容れぬ立場であった。
また、労働者の立場で考えるマルクシスムとブルジョア出身者の多い シュルレアリスム側という、この二つが対立する立場にあったという問題も
あった。だが彼らは共産主義とソ連に心を寄せていた。 シュルレアシルム自体が革命を求めるイデオロギー的に、 体系的に進んでいった運動のため、その活動は政治的なものとはきっても
切り離せない関係にあった。そのことはグループ間での細かい対立を生じさせ、 30年以降徐々に運動から離脱してゆくものがあらわれ運動が解体されて
徐々に縮小化していくこととなる。1929年には多くの仲間が離脱したが、 それはブルトンとの政治的立場の違いなどの理由があった。
たとえば30年にはバタイユたちがブルトンを誹謗する雑誌に署名を寄せた ということもあった。
そこで1929年にブルトンは『第二宣言』を発表する。
「たとえ誰一人残らずともシュルレアリスムは生き続けるであろう」と、 解体する部分を切り捨て新しい理論を築こうとする姿勢をしめした。
しかしこれはそれまでのシュルレアリスムの方針を変えることを意味するわけ ではなく、あいまいにしていたものを整理し明確に示すためのものであった。
『第二宣言』では「私はシュルレアリスムの深い真の隠蔽を要求する」 として愛の理念と「神秘主義思想」を取り入れた。これは愛の持つ「受容」と、
宇宙の持つ「受容」を意味した。「生と死、現実と想像、過去と未来、 伝達可能なものと伝達不可能なもの、高いものと低いものとが、
そこから見るともはや矛盾したものに感じられなくなる精神の一点がかならずや 存在するはずである。そこで、この一点を突き止める以外の動機を
シュルレアリスム活動に求めても無駄である」(ブルトン)。 夢(もう一つの現実)と現実の関係を変更させ、「拒絶するもの」でなく
「受容するもの」として、詩的想像力にたよる立場を明確にした。 このことは詩という形式だけではなく、詩的なイメージをもった絵画や
オブジェなどの芸術的手法を用いて表現するということも行われていた。 そのイメージのおかげでパリの位置都市での活動にとどまらずに、
芸術的な運動としては世界に広がっていっていく。30年代初期にA.E.A.R. (革命的作家芸術教会)が設立され、ブルトンは文学部門のメンバーになるが、
そして半ばには「国際シュルレアリスム展」が開かれるの様になった。 ブルトンらはF.I.A.R.I.(独立革命芸術国際)を設立。
シュルレアリスムの運動は、グループで活動していたため、 ヨーロッパ各地の様々なアーティストを発掘し、コラボレートしつつ展開
された。これらの芸術的運動としてのシュルレアリスムの終焉は、 画家アーシル・ゴーキーへの伝えたことで一旦の終わりとする説もある。
その頃、ドイツではファシズムが脅威となっており、ソ連ではスターリンが
反対派の排除を行っていた。シュルレアリストたちは世界改革を望んでいたが、 この頃の革命の思想は国家主義の枠内で処理されていた。
彼らはこの国家主義傾向を批判した。「ファシズムから文化を擁護する」 というヨーロッパ知識人の傾向を、シュルレアリスト達は問題はもっと深い
人間の深層にある、としたのだった。このことは体制擁護のソ連への間接的な 批判も意味し、のちにスターリン主義を真っ向から批判するようになる。
そして共産党から離れた。この後もシュルレアリストたちは自分達の イデオロギーにしたがって現実を見つめようとしていたため、
一つの政治的立場にずっと固執するというようなことはなかった。
そしてこの後は徐々に活動は小規模になることを免れなかった。
そしてブルトンは1966年に息を引き取った。
○シュルレアリストのキーワード○
「非順応主義(合理主義や形式ばった習慣などへの不信)」
「無責任性(理性の制御や道徳の命令から逃れるべきだという言う主張)」 |
「夢と現実という、一見いかにも両立しがたい二つの状態が、
一種の絶対的現実、いってみれば超現実中へいずれは解消される」(『宣言』) −超現実的なものの発見と探求。
フロイト:夢の分析方法を人間の認識方法として体系化した人物として 讃えられた。
「思考の書き取り
la dictee de la pansee」 |
理性によって行使されるどんな統制も働かない、美学上、道徳上の一切の
懸念からも解放された、思考の書き取り。
「『世界を変革する』とマルクス
『人生を変える』とランボー
この2つのスローガンがわれわれにとっては一つになる(ブルトン)」 |
(サルトルの批判)→
この二つのどちらかが先に起きないといけない。 世界が変革しなくては精神の変革はありえない。 この言い方では精神の変革が先に起こり得ることを意味し、
革命は必要なくなってしまう。
国際都市パリ。ヨーロッパの多方面から人々が集まってきていた。
様々なバックグラウンドを持つシュルレアリストたちは、 町へ出て個々に個性的な活動をしたり、散歩をしたりすることを大変好んでいた。
そのころのパリは彼らを鼓舞するエネルギーがあった。
『第二宣言』以降、「神秘主義」を称揚し、迷信や呪術を復権させ、
錬金術的な新たな現実の創造を目指した。そのため、未開人たちの芸術や、 民族的なものをプリミティブな芸術として純粋なものとして賞賛した。
●シュルレアリスムの絵画・オブジェ●
詩的なものを重視するシュルレアリスムはフランスのパリにおける狭い範囲の
運動のひとつに過ぎなかったが、その観念が芸術家達によって全世界に 普及することになる。詩のレトリックなどは実際には特定の人にしか訴えない
が、「芸術の神話」に支えられる絵画や彫刻といった形式によって世界に 普及した。最初にシュルレアリスムという言葉を用いた詩人アポリネールは、
ピカソやマティス批評をしており、大変多くのシュルレアリスムの画家に 影響を与えたディ・キリコも取り上げた。デュシャンやエルンストも彼から
多大な影響を受けている。
絵画におけるシュルレアリスムの目指したところは「不可思議は美しい」
ということであった。それは現実を変質せしめようとする不可思議を指し、 それを表現することは「驚き」を見るものに与える。また、その表現は、
シュルレアリスムのすべてに共通の「絶対に近代的でなければならない (ランボー)」という「新しさ」を兼ね備えていなければならなかった。
そのような「驚異」は隠蔽されているのであり、そこに「痙攣的な美」が 生じるとした。つまり、シュルレアリストたちは合理的理性によって
「不可思議なもの」「驚異なるもの」「異様なもの」とされてきたものが、 そのままでいることをやめ、生の一部として復権することを目指したので
あった。
そこでは不可思議なものへのとりくみである「狂気」「エロティシズム」
「自由」「偶然」への探求、反合理主義的からなる「非現実」の具象画 であった「パラノイア的批判」「具象的非合理」への探求といった要素が
みられた。
主な作家に、マン・レイ、イヴ・タンギー、サルヴァドール・ダリ、
ルネ・マグリット、マックス・エルンスト、ホアン・ミロや他多数が、 またハンス・ベルメール、ジャコメッティなども参加していた。
○シュルレアリスムの手法○
エルンストが創始した手法といわれている。雑誌、新聞のイメージを切り貼り して一枚のイメージをつくること。
「コラージュのメカニスムとは何か。私はそこに二つの異質なものの偶然の 出会いの成果・開発を見ようと試みたのだ」
デュシャンによるレディメイドの反芸術的要素のものからその伝統は始まるが、 シュルレアリスム運動期になると怪奇、幻想、象徴の効果を狙うものが
主流となる。「オブジェとは詩的イマージュにほかならない光を具備した物体 によって、夢と欲望を具象化するもの」(ブルトン)
初期のシュルレアリスム運動で、シュルレアリスムを代表する技法のひとつ。
文学者であるブルトンらは「自動書記」といわれる方法を用いた。
これは精神分析のように「被験者」に様々な質問を浴びせ、 その時にでてきた言葉の記録をとるというものであった (1920年、ブルトン、フィリップ・フーポー『磁場』)。
その結果である言葉はおぼろで、それが「真の詩」の一つの形をとるとされた。
絵画でもそれは「偶然」の追求という形であらわれた。
偶然
たとえばエルンストのコラージュ
デカルコマニー:
シュルレアリストの一人ドミンゲスによって
始められる。つるつるした紙に絵の具をたらし、 それをもう一枚の紙ではさんで、引き剥がして模様を作る技法。
グラッタージュ:
引っかき傷をもちいる技法。
フロッタージュ:
動詞frotter(こする、摩擦する)に由来し、
エルンストが開発した技法。洗いざらしの木目を浮かせた板張りの床に 紙を当て、鉛筆で上からなぞりイマージュを浮き出させる技法。
フュマージュ: 紙の上にろうそくの煤煙でイメージをつくり定着させる技法。
などが用いられた。
「一つの形は統一の感覚、または破壊せずにはそれ以上できないという感覚を 持つまで別の形を呼び寄せる。それを実行している間、
内容には何の注意も向けられない。それが内容に必然的に結びついている という確信が、この偶然の自由を保障しているのだ」
シュルレアリスムの遊戯で最も有名なものの一つ。
4,5名の参加者が共同で畳み込んで他人に見えなくした紙片に順番に 書き込みひとつの文句、またはデッサン画を完成させる。互いが何を描いたかを
知ることはなく、考慮することもない。
雑誌上でおこなわれたもので、愛についてや自殺についてなどの
アンケートがとられた。結果は雑誌に掲載された。集団やグループでの活動に 重点を置いたシュルレアリスムらしい実験の一つ。
○シュルレアリスムの絵画○
※同じ分類をされるとは一見して思えない個性的な絵画の例。
マックス・エルンスト
〈現代神話の創造者、影像の錬金術 絶え間ない想像力の遊びと批判の空間〉
ルネ・マグリット
〈稀代の魔術師 現代幻想絵画の巨匠 冷たい空間の中に表現したものは〉
ハンス・ベルメール
〈願望と禁止の祭 戦慄のエロティシズム イメージを欲する目〉
●動機と考察●
今までシュルレアリスムという言葉をよく耳にすることも多く、
前から気になる存在であった。シュルレアリスムを絵画や文学における 単なる一つの主義だと思っていたが、しかし実際は、精神的なかつ政治的な
革命を同時に起こそうとする実にイデオロジカルな戦略的な活動であった。 個性の違うメンバーが活動となると集団と化すが、 それが夢や宇宙といった名のもとにおける「見者」たることを目指すのだから
今考えると大変不思議なグループである。詩的な要素を全面に押し出したが それだけでは一部の地域の運動として終焉を迎えていたかもしれない。
しかし、絵画やオブジェをつかったイマージュの力で世界に運動の幅を広げる ことに成功したシュルレアリスム。そのイメージのスタイルは個々の画家で
違えども「新しさ」と「驚異」でみるものに「痙攣的な美」を感じさせる という。次々と考案された手法は新しく、当時のフロイトの精神分析に
大変影響を受けつつも、個々の画家は自分の実践に夢中であったようだ。 エルンストはフロイトとは違う夢と無意識の解釈をもっていたし、
フロイトもダリ以外のシュルレアリスムを認めなかった。フロイトは夢の分析 するものとしてその裏にあるものをみようとしたが、エルンストは夢はそれだけ
で意味があると信じていた。政治的活動であったシュルレアリスムの残した ものは何であったろうか?モダニズムの絵画の中での彼らの影響は?
ところで私はこれらの画家のイメージに現代における漫画のイメージが
重なった。理論だてて比較をするには材料が乏しいのだが、 皆さんはどう思われるだろうか?現代のこの漫画における、シュルレアリスム
にその材料を求めたかのような「狂気」「エロティシズム」「不条理」は なにを思わせるだろうか?
参考文献
濱田明,田端晋也,川上勉『ダダ・シュルレアリスムを学ぶ人のために』世界思想社、1998
パトリック・ワルベルク『シュルレアリスム』 巌谷國士訳、美術出版社、1969
ルネ・バスロン『ルネ・マグリット(骰子の7の目)−シュルレアリスムと画家叢書1』
巌谷國士訳、河出書房新社, 1973
サラーヌ・アレクサンドリアン 『マックス・エルンスト(骰子の7の目)−シュルレアリスムと画家叢書2』 巌谷國士訳、河出書房新社,
1973
サラーヌ・アレクサンドリアン 『ハンス・ベルメール(骰子の7の目)−シュルレアリスムと画家叢書3』 澁澤龍彦訳、河出書房新社,
1974
マックス・エルンスト『絵画の彼岸』 巌谷國士訳、河出書房新社,1975
ヴェルナー・シュピース『美しき女庭師の帰還』 田部淑子訳、河出書房新社、1977
ハンス・ベルメール『イマージュの解剖学』種村季弘,瀧口修造訳、河出書房新社、1975