鎮霊の舞、墓場の宴
はじめにをご覧になられる前に。
沖縄のイメージは?
・はじめに
近年において、日本の亜熱帯気候の観光リゾート地としてメジャーになった沖縄。そしてそれに付随して、沖縄の文化、芸能、民俗などについてもメジャーになってきている。私は、その文化や芸能から何か共通する彼らのアンデンティティーやエネルギーというものを感じる。そしてそれが彼らの文化、芸能に反映されていることがとても興味深い。また、独特の民俗があり、現代においても、沖縄を訪れる際に毎回新鮮な印象を受けるのは、その名残を発見するとき、またそれ自体に触れるときであると考える。
よって今回は琉球文化の中のひとつ、エイサーと付随する事柄(民俗、風習など)について注目し、そこから派生する事柄を考えてゆこうと思う。
・精霊の舞、墓場の宴
エイサー…元は旧盆の祖先祭祀、念仏歌→念仏踊り→芸能化へ発展
戦前まで民家の庭や家まで入り祖先の霊を慰め、厄払いをした。
旧盆7月13日(ウンケー)から15日(ウークイ)各集落でエイサー
1956年エイサーコンクール開始→審査に対する不満などから問題が発生→1977年に現在の祭り形式に
原点である祖先供養と芸能化の発展の融合→エイサーの認知度が上がり、輪が広がる
墓参り…むしろ墓で宴会。法事(シーミー)などでは親族で集まり、飲酒をする。
祖先の霊に対する信頼、尊敬のあらわれ?
cf)韓国の法事…年配者、親を敬う意識のある国
一つ一つのお墓(亀甲墓)の敷地がとても広い。小高い丘に海に向って建てられていたり本土に見られるような角ばった囲いが無い。見慣れているお墓とは全く異なる外観なのでオブジェのような印象。一般的なお墓のイメージである、おどろおどろしさというものは感じられない。
これらのことを見ると彼らの家族と結束するということ、祖先を敬い、(亡き)祖先とのつながりというものを抵抗無く恐怖感持てているという意識がうかがえる。たとえばお墓に対する認識や盆踊りに匹敵するエイサーの規模の増大化など。本土の他県と比べるとどうなのだろうか?都市圏の核家族などとは比較することは難しいとしても…。
* 本土の人が沖縄の由緒のある家族(一族)に嫁いだケース
* ギリシャ系アメリカ人の女性の一族に婿入りしたアメリカ人男性
(映画『マイビックファットウェディング』)
→異文化に対するショックの克服、挫折
・民俗
全ては挙げられないが特に気になったもので、沖縄独特な印象を受けたもの。また認識の差を感じるもの。
石敢當(いしがんとう)…魔よけ。シーサーと同様。
人々の生活を乱しにやってくる魔物(マジムン)は、なぜか曲がるのが下手で、T字路や三叉路の突き当たり、袋小路の奥などにおかれている石敢當の石板に激突し、砕け散ってしまうため。石敢當の石板の種類は様々。
ユタ(カミンチュ)…民間の巫女・シャーマンのこと。他の地方のシャーマンたちと同様に、ほとんどのユタは女性である。「お告げ」によって突然なるが、修行を積む。
ユタの多くは、離婚や親族との死別などの不幸な体験をきっかけに神懸かりになり、「カンダーリィ(神ダーリィ)」と呼ばれる病を患う。この期間中は精神状態が不安定になり、人によっては意識喪失、大声で歌い騒ぐ、身体が震えるなどの状態が続き、精神病者と紙一重になる。このような時期を経て彼らは自分と関係が深い神霊や先祖霊によって祖先の道を悟る。するとカミダーリが収まり、霊感が得られる。
ユタには2つのタイプがあり、主に神や遠い先祖に向けた儀式を行うものと、死に関連した儀式を専門とするものがある。沖縄では死者が出ると一族揃ってユタのところへ行き、ユタは死者の胸の内を家族に語り聞かせる。専門家の間では、ユタによって「精神的安定」が得られ、それが沖縄人(ウチナー)の長寿の秘けつの一つ(長寿の県第二位)とする見解さえあるようだ。
ユタに見てもらうことを「ユタ買い」という表現をする。沖縄の精神科医は、患者さんにユタを薦めることもあるという。こういう習慣を「医者半分、ユタ半分」という。
シーサーはもうかなりメジャーであろう。シーサをモチーフとしたグッズが観光客向けの土産物屋で売られているし、琉球エアコミューターのイメージにもなっている。ユタについては、近年(マス)メディアによって情報は流されつつある。小説「コンセント」(田口ランディ著)やテレビドラマ「トリック」(堤幸一脚本)の中でも触れられている。お墓についてのところでもふれたように、彼らの祖先やユタという存在に対する親近や信頼、寛容の感情が見て取れるものとして参考となる。例えば、ユタのカンダーリィの状態など、他の地域では精神病者として認識されてしまうのであろう。
・まとめ
旅行で訪れてきていた今まで以上に、今回の発表を通して沖縄についての率直に感じたことは、やっぱり文化が独特、日本文化というよりかっちりと確立されている琉球文化が沖縄にある。ということである。知れば知るほどそのような印象を受けた。そして、思想的な部分ももちろん確立されている。それが私にとってとても新鮮であった。日本という縛りの中(さかのぼれば薩摩藩による侵略など)での琉球文化の維持、戦後アメリカにおける支配下(アメリカ世)での琉球文化の復活、そして近年のリゾート地というイメージに乗って、さらに文化を発展させてきている時代。苦渋に満ちた歴史の道のりを歩んできていて、だからこそウチナーとしての民俗を大事にしようという意識、親族間の絆が強さ、祖先への尊敬と感謝ということが顕著にあらわれているのではないか。そこから生れるエネルギー(発展させよう、アピールしようという姿勢)と誇り(民俗的習慣が現代において見られる)というものを感じる。つまり、自然や文化やそれらを維持し、継続させて来た祖先を尊重し、さらに発展、アピールさせることを続ける信念というべきものを感じるのである。日本の中の「琉球文化」らしさを存分に発揮して文化を発信できる力とそれを受信している側、その発信を助けるメディアの関係性のバランスが現代では保たれているようだ。
しかし一方で、本土から嫁いできた女性にとってのその異文化というものは辛かった。家族間の絆が強いため親族によるイベントごとが何かと多い。そのための準備や後始末など女性としての仕事は多かったであろうし、その方法や作法などもそれまでのものとは異なっていたであろうから(自分が墓場で宴会を行うことになるなんて考えられるであろうか?)本土の人間にとってはカルチャーショックになりえる。それまでそのような環境に身をおいていなかった人にとってはなおさらであろう。
ユタに対する認識をとってもそうだ。沖縄地方では、道端で女性が裸でわめき散らしていても、カンダーリィの状態にあるのだろうな。と道行く人は認識し通り過ぎるが、他の地域ではそうはいかないだろう。というか、ユタの存在からして、否定的な認識をされるのではないだろうか。未知のものに出くわすとき、抱いてしまう恐怖心からそれを否定しようとする意識が働くからなのだろうか。克服できるショックとできないそれの差はどこにあるのか。それまで生きてきた中で当たり前だと思ってきていたことがひっくり返ってしまう事態に陥るとき我々はどうなってしまうのだろうか、ということを考えさせられる。
政治的な観点からでも、最近では読谷村の米軍の通信基地『象の檻』に関する、最高裁における改定特措法違憲訴訟の件(地主の上告棄却)などからも、観光リゾート地の現実的な一面というものが垣間見える。苦渋に満ちた歴史を歩んできていると前述したように、それはまだかなり前途を極めるものなのかもしれない。一般人のレベルからでも、政治的なレベルからでも沖縄という県が複雑な問題を抱えているのであるとしたら…。
これらのことから、ウチナーとしての自己認識が確立されていること。独自の民俗的習慣や文化を編み出してきている。ということに注目すると、「彼らはそうせざるを得ない状況において時代を重ねてきているのではないか」と私は類推した。自分たちは何者なのか、自分たちの祖先は何者なのかということをきちんと認識しておかないといられなかった彼らだったのではないだろうか。そして、独自の民俗や文化でもってそれらを増長させていくことを忘れなかったのではないだろうか。他の地域の人だったら理解に苦しんだり、恐怖心を抱いてしまうような事柄も含まれている、彼らが築いてきた文化だとしても。
参考文献・web
第41回沖学祭パンフレット 2003年11月18日発行
るるぶ沖縄 出版JTB 2001年
カミンチュについて www.ne.jp/asahi/pasar/tokek/TG/mikoclub/yuta01.html
精神看護学概論レポートwww.geocities.co.jp/AnimalPark-Pochi/9120/seisin.htm