沖縄の歴史、沖縄の人々のアンデンティティーを通してみる

 

現代における沖縄の民俗

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

森村・川村ゼミ後期個人発表論文

01g0419

3年E組宮本芙希子

 

 

 

≪目次≫

はじめに

1、沖縄の歴史

・沖縄の創世

・神と世界に対する観念

 

2、沖縄の民俗、風習

・御獄

・ユタ

・亀甲墓

・石敢当

 

3、沖縄の歴史     

・沖縄?琉球?

・旧石器時代・貝塚時代・グスク時代

・三山時代・琉球王国

・薩摩による侵攻・琉球処分・近代

 

まとめ

参考文献・WEB

 

 

 

 

 

はじめに

 後期個人発表において、日本本土とは異なる独自性を持つ、沖縄県の風習、民俗からみた沖縄の人々のエネルギッシュで確立されているアンデンティティーというものはどこから来るのだろうか、ということに触れようと試みたが、発表を通して感じたことは、特異な点ばかりが先走ってしまい、内容としても、発表という形式としても、満足のいく結果ではなかった。特に、ユタについて述べたことなどに対するごく一部のフィードバックシートの反応からすると、私を含めた本土出身のゼミ生たちにとってそのような風習は特異であったり、もっと言ってしまうと、そのような風習や民俗に対して懐疑的な考えを持つ人もいたようだ。それは私の、発表する。というプレゼンテーション能力が多分に欠落していたと言うことの指摘であったことにほかならないのかもしれないが、それに加え、具体的な指摘としては「ユタや、エイサー、などの民間風習についてゼミの発表として取り上げる題材なのか?」という意見があった。

 私たちにとっては余りにも激烈な、ユタという存在の印象ばかりが先走ってしまった点、そしてそれが沖縄県においては現代でも普通に存在しているという点や、非常にユニークな民間風習の印象の強さがそのような意見を招いたのではないか、という考えにいたった。この反省を踏まえた上で、私は、もっと根本的な部分から、「なぜそのような独特な民間風習が今もなお沖縄の人々に受け継がれているのか」という理由についてもっと掘り下げて行きたいと思った。

 その足がかりとして沖縄県が歩んできた歴史や、それに付随する沖縄を取り巻く国々の沖縄に対するアプローチの様子、また発表で述べてきたような民俗がそれらとどう絡んでいるのかということについて考えてゆこうと思う。

 

 

1、    沖縄の創世

・沖縄の創世

 沖縄の創世は、王府の記録の文献にある、天地開闢神話と民間説話の創世がある。その二つは非常に複雑に相違が為されているが、主に記録書や歴史書としての文献などにあるものを王朝神話とする。この王朝神話の創世は、天上世界の主神である太陽神の従神である天地創造の神、阿摩美久(アマミキョ)が太陽神の命を受け、国を造るということから始まる。開闢神話は少しずつ変化しつつも、王府による編纂の諸文献に表れている。これをもとにした神歌は、稲作と結びついて沖縄本島、その他の離島に分布している。神歌は創世神、島造り国造り、稲作と農耕という三つの構成要素を持つ。古代からまつわる、この神歌からみると、沖縄の祭りや年中行事が稲作農耕社会を基盤としたものであると捉えられるであろう。

 また民間説話の創世は、宮古島、石垣島などに伝えられているとされる。ヴナゼー兄妹が登場し、彼らが農耕中にきた大津波により、彼ら以外の人や地上のものが滅びたのを見て妹背の契りを結ぶ。二人の間からははじめにシャコ貝が生まれ、次に人間の子供が生れ、これがだんだんと広がり人口が増えたとし、二人を島立ての神として祀られている。

 

・神と世界に対する観念

 沖縄古代の人々の神と世界に対する観念は、別の発生源を持っている。ニライ・カナイの神とアマミヤ・シネリヤの神だ。ニライ・カナイのニライは「海のかなたにある根の国」を意味する。これは「祖先神のまします所」という原義があり、そこから安らぎを求めようとすることから「死者の魂の行く所」や生きている人に「幸福、豊穣をもたらす霊力(セヂ)の源の場所」という観念がもたらされたことなどから、生きる人のための楽土として美化された。ニライの神は海の彼方からやってくると今も昔も信じられている。竹富島の西海岸にあるニーラン石はニライ(根の国)から来る神の足がかりの地とされている。宮古島に伝わる神歌をニーリ、ニルなどと称すのもこれがもととなっている。ニライの世界観は沖縄、宮古、八重山に広く伝えられている。 

 アマミヤ・シネリヤの神については、沖縄の創世神話上の創世神であるアマミキョがベースになっており、アマミヤとは「北方にある創世神の故郷」という原義をもち、「アマミキョのいた所」や「はるかに遠い所、遠い時代」という意味にまで広がり、「昔」という意味で多く使われるようになった。アマミキョは海から上がってくる神とされ史書や伝書では国土創世神、稲作神話、さらに稲作と関わる祭りとも結びついている。民俗や神々の出所である「根の国」を意味するニライ信仰と祖先の居所を表すアマミヤ信仰は密接に関わりあっている部分が多いと言えるであろう。

 

 

2、沖縄の民俗、風習

・御獄

 神のいる聖域のことを、沖縄ではムイ、ウガン、宮古では、ムイ、スク、八重山ではオン、ウガン、ワーなど様々な呼び名があるが一般的にはそれらを総称して御獄(うたき)と呼んでいる。御獄は沖縄県のいたるところにあり、村落の守護神がいると考えられているため、協同体の祭りはそれらの御獄を中心に営まれる。各村には最低でも一つ以上の御獄がある。拝むものは場所によって異なり、小さな岩のかけらが祈りの対象であったり、岩のくぼみが神のいる所、湧き水が湧き出ているところが神のいる所の場合もある。その御獄はたいてい小高い丘や山の中腹につくられており、高い所にさらに突き出るような高いウバの木などがあるのが御獄の目印になっていることが多い。高い木が神の来るところであると考えられ、久高島のクボー御獄などはそのような形態から名づけられている。中でも、斎場御獄(せーふあうたき)という所は沖縄で最も大切にされている聖地である。神話による開闢の舞台がこの場所なのである。王朝の盛んな時代においては巫女の最高位である「聞得大君(きこえおおきみ)」の即位式はここで行われ、聞得大君になる女性は、一晩一人でこの場に籠もり、一つの床に二つの枕を並べて神の降臨を待った。同じく、創世の舞台となっている久高島は、現代においてもその神聖さは行政による介入がなされておらず、開発も抑えられてきた。12年に一度、牛年の旧暦1月15日から6日間行われる、イザイホーという祭は、かつては一切外部をシャットアウトし、秘密が守られてきた。数百年続いてきた儀式の意味は、今では地元の巫女でさえもたどることができないが、伝統によって、限られた女性がその祭を行っている。

 また、女性がそのような役割を担っていたと言う事に関してもう一つ付け加えると、遠い時代から村々には、ノロと呼ばれる呪術的な力を持つとされる女性祈祷師がいた。沖縄のように、海に囲まれ、台風の通り道であるような厳しい自然の地域にはそのような存在は生れやすい。現代においてもノロ的な雰囲気というものは沖縄の人々や社会の中に見受けられる。次に述べるユタの存在がそれを顕著に表しているのではないだろうか。

久高島の儀式が今でも行われているということや御獄が現代においても奉られていて、人々が祈りを捧げることなどは、本土の習慣で生きて来た私は、異文化を感じる。民俗を知れば知るほど、文化の相違が浮き彫りになってくる。特に異なる点が。発表で述べたような民俗についてもより詳しく触れ、さらに他の風習や民俗についても述べたいと思う。

 

・ユタ

 私の後期の個人発表の中においても一つの柱として位置づけられていた題材の一つである。1章のような創世についてなどを通して、ユタと密接な関係を持つ神、また古代の人々の神の観念やもっと、詳しい民俗的な側面を踏まえて改めてユタについての認識を発表で触れられなかった部分を中心に明らかしてゆこうと思う。

ユタは、神または霊の啓示を受け、霊的な世界と通じる存在である。いわゆる巫女、シャーマンで日本や世界の各国にも似たような存在は見られるが、現代においては珍しい存在であるといえるであろう。更に、彼女たちは現代におけるカウンセラーやセラピスト的な存在であるとも言えるであろう。預言者として人々の悔みに答え、解決を図る手助けをすることを生業とする。ユタはカミンチュとも言われ、宮古諸島においてはカンカカリャ(神掛り)、ムンスイ(物知り)、カンヌプトゥ(神の人)などと呼ばれている。ユタになるには素質が必要で、そのような人たちはサーダカウンマリといわれる霊的に高い生まれであり、神霊の世界に対する感受性が強い人々であるとされる。このサーダカウンマリの人が基本的にユタとなるのだが、これらの人々がユタになる過程として、多くのサーダカウンマリはカンダーリという状態を体験する。カンダーリは「神の崇り」の意味で、ユタとなる宿命をもつサーダカウンマリの人々が、その宿命を拒否したり、忘れていたりするときに与えられる天罰であると考えられる。

 カンダーリという状態は妄想、意識変容を伴う憑位状態の病像であり、無気力感、食欲減退、吐気、原因不明の高熱、などの症状を伴う。この間にユタは様々な御獄を回り修行を積む。これらを通して彼女たちは自分と関係が深い神霊や、先祖霊により祖先の道を悟る。最終的にはカンダーリが収まり、霊感が得られる。この状態をチヂアキという。

ユタの存在やカンダーリの状態は医学では精神分裂病もしくは他の精神疾患として捉えて、異常者とみなす否定的な傾向にあるが、沖縄の精神的、文化的な面からして見ると同じ異常状態でも、その社会の文化感からも許容され、ときには必要とされ尊敬される存在になっている。沖縄には、ユタという存在に象徴されるように、霊的な世界を身近に捉え、それに重きを置くといった精神が存在し、生活や精神医療に深く関わっている。

先ほど、ユタがカウンセラーやセラピスト的な存在であると述べたのであるが、その理由は、現代の日本の病院と異なり、ユタは相談者を癒すため長い時間を共有する事などを通して信頼閑係を結び、相談者に癒されている、というカタルシスを与える。また、同じ文化圏に属するものとして、祖先崇拝などの信念を共有しているため、相談者の家族も安心して治療に積極的に参加しやすく、共通の崇拝理念、同様な信念を共有することができるということがあげられる。その結果として社会的に許容されており、診察室の中だけでは補いきれない部分を担っているであろう。興味深い事に、ユタ及び沖縄の人々はこれらの精神、文化を持ちながら現代医療にも信頼を寄せているということである。ユタにもよるが、身体的な悩みで相談に来た相談者に対しては病院にかかる事を示唆することもあり、また逆に精神病院でもユタを薦めることもある。「ユタ半分医者半分」という言葉がそれを物語っているであろう。

 

・亀甲墓

 亀甲墓についても発表で少し触れたが、ルーツやそれに付随して、祖先に対する子孫たちの墓参りの様子、お墓や祖先に対する人々の認識、また沖縄の宗教の捉え方についてなどについて詳しく述べようと思う。

 この形態の墓は那覇に多く見られる。中国南部から伝来してきたものとされ、台湾にもある。沖縄は門中墓である。しかし、同じ門中墓でも本土のように、「一緒に墓に入ってくれ」というプロポーズの文句があることからも分かるように、本家筋の係累が同じ墓に葬られるのとは異なり、始祖が同じの父方だけの血族集団の墓で、嫁いで来た母は門中とは認められず、同じ墓に入れない。母親は自分の生家の父親の門中に属する。門中の結束は非常に強く、普段の生活でも親密に助け合ったり付き合ったりする。その象徴ともいえるのが門中墓で、年間に何回か墓前で盛大な儀式を行う。中でも最大の儀式は清明祭である。沖縄の人々はこれをシーミーと呼ぶ。これは中国の伝統の清明節に合わせた先祖祭である。日本のお彼岸の時期とは異なり、沖縄は中国の清明節に墓参りをする。清明祭には、墓前の空き地に一門が集い、のぼりを立て、豚料理や餅をはじめとした、菓子や果物などを詰めた重箱を墓前に供える。その公式的な儀式が終ると、一門は親睦をかねた大宴会を行う。食事をしたり、泡盛を飲んだり、最近ではカラオケなどまで行うということだ。本土の墓参りのしんみりした様子というものは微塵もないのであろう。実際、私が目の当たりにした、久米島で見た亀甲墓は海に向って、海の傍に造られていた。囲いがはっきりしておらず、文字が刻まれた墓碑もなく、お墓なのかオブジェなのか一瞬分からないほどであった。

 沖縄でこうした門中墓が登場するようになったのは17世紀に入ってからである。王族、貴族、士族、庶民というような身分階級が生じてくるようになると、士族を中心とした一族に対する意識が生れ、その象徴として共同墓地の建設が盛んになった。那覇市に亀甲墓が多いのは、その当時に士族階級のほとんどが王宮のある首里や、その周辺の那覇に集中していたからだ。また、明治維新後に琉球王朝が崩壊すると、経済力をつけた庶民の中から亀甲墓を造る者が現れるようになった。

 本土ではほとんどの墓が寺の境内にあり、普段は寺が墓を管理している。しかし、沖縄では墓地は、寺と全く関係がなく、見晴らしのよい丘のような地形の場所に造られている。つまり、沖縄の墓は、本土と違い仏教とほとんど関係がないのである。そもそも沖縄においては仏教の影響力が小さい。まず第一の理由として、沖縄固有の先祖崇拝が民衆の間には広く、深く浸透していた。先祖の霊は子孫の繁栄を願い、色々な災害から子孫を守ってくれるため、それに対して子孫は祖先を崇拝する。逆に、祖先としてみれば、子孫の崇拝によりあの世で安住できる。祀ってくれる子孫がいなければ安住できない。という土着信仰が非常に強かった。そのために仏教をはじめとする渡来宗教が入り込めなかったということだ。また第二の理由として、本土のように高僧が沖縄には招かれなかったということが挙げられる。本土においては、平安時代から鎌倉時代にかけて、浄土宗を開いた法然、浄土真宗の親鸞、日蓮宗の日蓮などの高僧が登場した。彼らは、それまでの王朝、貴族の趣味的で形式的な仏教を民衆のための仏教として広めるために尽力した。しかし、沖縄に来た僧は、人々に仏教を広めよう。というような強い意識より、どこに何の寺を建てるか、橋の設計をどうするか、など、僧というよりも官僚のような立場にあった。そのような彼らには、民衆の間で古くから土着していたノロを中心とする宗教には入り込めなかったのであろう。

 

・石敢当

 石敢当も沖縄でよく見かけるのに対し、本土では見かけることのないものとして発表でも述べた。やはり身近にありそうなもので、自分たちには未知ものであるからか、これに対する質問が多かった。あまり詳しく説明が出来なかったのでもっと掘り下げて石敢当について考えてゆきたいと思う。

 石敢当は基本的には「いしがんとう」と発音するが、「せきがんとう」とも呼ばれる。T字路の突き当たりに「石敢当」と書かれた石柱として置かれているのが普通であるが、四辻や三叉路でも見受けられる。石堀に「石敢当」と書かれたものが表札のようにはめ込まれていたり、紙に三文字が書かれたものが張ってあることもある。そして、発表の際も述べたように、これは魔よけである。悪霊がたまってしまうという言い伝えのある、T字路や交差点にそれを防ぐために設置されている。これは中国の道教の呪法(まじない)からくる民間信仰である。中国においては、悪霊は直線的にしか進めないと言われていて、そのため放っておくとT字路の正面にある家に悪霊が来てしまう。石敢当は、その悪霊の侵入を防ぐためのものである。これが伝えられてきた中国にある最古の石敢当は12世紀半ばのもので、その当時は魔よけのためというよりも、旅行や家内安全、病気治癒の祈りのためのものであったとされている。

 「石敢当」という3文字になぜ魔よけの意味があるのかというと、これは10世紀の武将の名前であるという説がある。この石敢当は豪傑な武将で名前を聞いただけで相手は恐ろしくなり逃げてしまうほどだった、という言い伝えからきている。

 また、沖縄でもっとも有名な、沖縄らしさを表すシーサーも魔よけの一種である。シーサーをイメージするとき、シーサーは沖縄特有のオレンジ色の瓦と漆喰が印象的な屋根の上にのっかっている。屋根の上のシーサーは沖縄の人々の、台風に対する祈りや願いを表す。沖縄は地域的に台風の通り道であり、台風が来ないということなど彼らは思ってもいない。しかし、もし来たときでも激しい風雨を伴うものでなく、どうか穏やかに来て欲しい。という願いを、空に向いた屋根の上のシーサーに託しているのである。

 

 

2、    沖縄の歴史

・沖縄?琉球?

 「オキナハ」という言葉が初めて日本(ヤマト)の文献に出てきたのは『唐大和上東征伝』において、遣唐使帰国の船が753年に、阿児奈波に漂着したという記述においてである。「おき(大きい、沖)」、「なは(旅情)」などの語が固有語にちなんでいることから、「おきなわ」は地名と考えられる。一方、『隋書』においては、「流求」をはじめ、それ以後の中国の歴史書において流鬼、留求、留球などの文字で表されているが、明の時代(1372年)に「琉球」の文字に改めてからは、日本や朝鮮も含めてそのように統一されている。つまり、オキナハが固有語であるのに対し、リュウキュウは中国などの外国からの呼称であると考えられる。

 

・旧石器時代・貝塚時代・グスク時代

 那覇においては3万2000年前といわれる山下洞人の骨が、また具志頭村では1万8000年前の港川人の骨が発見されており、港川人は縄文人との関係が注目されている。遺跡から見ると、彼らは洞窟や岩陰を住居とし、鹿を狩り、鹿の骨や角で道具を作り、道具を用いて山や海の自然物を採取して食すという生活であったとされる。港川原人から約1万年の空白の後、貝塚時代が始まる。貝塚時代は日本本土の縄文・弥生時代とされる時代である。現代から6000年ほど前には九州の縄文文化の影響を強く受けたとされる土器が現れ、のちには弥生土器も作られるようになる。

貝塚時代に続く時代をグスク時代と呼ぶ。グスクと呼ばれる聖域と囲われた居城を中心として人々の生活が営まれていたためである。この時代は12世紀頃まで続くが、炭化した米や麦が出土している点、鉄器や陶磁器が出土している点などから自然採取の原始社会から穀物を栽培する農耕社会へ移行していったことが分かる。12世紀に入ると、按司(アヂ)と呼ばれる族長的な共同体の首長が出現する。その背景には、農耕社会の基盤が広まり、生産力が高まってゆくにつれて増えてきた土地をめぐる揉め事などがあり、それを仲裁する存在がやがて按司となっていったのである。按司たちはグスクを築城し、その土地を守り、拡大してゆくために勢力争いを繰り返すようになる。按司(あぢ、あんじ)は血縁的集団や共同体の長老から族長的支配へ、さらには政治的支配者を意味する語で、領主を意味する。「大親(おおや)」「世の主」「太陽(てだ)」さらには「王」などの言葉は、実力者である按司を賛美する尊称である。当時の面影を残す、中城城跡、勝連城跡、座喜味城跡、今帰仁城跡などのグスクの遺跡は現代においても沖縄における有名な観光地とされており、2000年12月にはユネスコの世界遺産として登録された。

 

・三山時代・琉球王国

 14世紀になると、按司たちの抗争の末、沖縄は首里、那覇、読谷、中城、勝連などを本拠地とした「中山」と今帰仁、名護、金武、与論などを勢力範囲とした「山北」、知念、喜屋武、佐敷などによる「山南」の3つの大きな勢力が、政治的、経済的に自立したり、連携体制をとりながら拡大してゆき、統一するようになる。これを三山時代と呼ぶ。

1372年に中山の察度により、明に対する朝貢が始まる。それは同じ年に、外交官の役割を果たす行人である楊載が明から派遣され、明に朝貢するのを薦めに来たためであった。沖縄が明に朝貢したものは、初期は主として刀剣、硫黄、扇子、香料などで、後に馬と硫黄が中心になった。刀剣は日本からの輸入品、香料は南方からの輸入品であった。明から沖縄へ与えられたものは絹織物、陶器、鉄器などであり、この朝貢によって明との冊封関係をもたらした。冊封とは皇后、皇太子、諸侯などを任命することであり、琉球は属国として諸侯の扱いであった。属国は宗主国に貢物を献上する。宗主国はそのお返しとして高額な物品を下賜する。献上と下賜の関係なので「貿易」とは言わない。沖縄は1404年、察度の子、武寧のときに初めて冊封を受け、それは1866年、最後の国王尚泰の時まで続いた。

また、「官生」といわれる明への留学生の派遣により、彼らが学んできた政治、経済、社会、文化などが沖縄に伝わる。さらには明から福建人が下賜される。彼らにより、船舶の技術や道教や儒教の思想が伝えられた。彼らは久米村に住み、その場所を「唐栄」と呼ばれた。その当時に官生や福建州出身の中国人がもたらした影響は、2章でも明らかなように、風俗や民俗として今日までも見られるほど大きいものであった。

明への進貢品の香料が南方からの輸入品であるということからも分かるように、沖縄は南方とも頻繁に交易を行っていた。14世紀から16世紀にかけて沖縄と通交があると見られる国は、シャム(タイ)、ジャワ、マラッカ、スマトラなどで特にシャムとは交易の歴史が古く、察度以来150年余りにわたって交易を行っていた。

 

中山王の察度は三山の中で最も勢力を伸ばし、初めて明に朝貢したが、在位46年で死去し、子の武寧が跡を継いだ。しかし、武寧は在位10年で佐敷按司の尚巴志によって滅ぼされた。三山の抗争はここで終焉を迎え、1429年に三山は統一される。これにより琉球王国が誕生する。国王となった尚巴志の国家経営の基本姿勢は交易と農業であった。異国船のもたらす鉄塊を買い入れて農具を作ったりして農業生産力を増大していった。また、日本から渡来する仏僧らを待遇し、神社、寺社を建立し、梵鐘を鋳造している。しかし、神道も仏教も新米の宗教として受け止められ、宗教としての浸透力は弱く、民間では沖縄固有の信仰の方が根強く息づいていた。(2章参照)

琉球王国において50年という最長の統治期間を誇る尚真王は、内政面において整備を徹底した。全島の按司を首里に集め、按司たちの領地には代官を派遣した。また、武器を携帯するのを禁じたりもした。八重山の大浜村(石垣)のオヤケ・アカハチは首里王府に抵抗し、王府に服していた宮古の仲宗根豊見親(ナカソネトヨミヤ)と対立していた。2章でも触れたように、琉球の特徴として、巫女の権力が非常に強い。その、オヤケ・アカハチの討伐の際、巫女が従軍し、呪詛の力によって敵を倒そうとしていた。巫女の最高位である聞得大君は国王の兄弟を守護する姉妹の霊という意味のある、オナリとして重要な祭祀を通して国王の長寿、王室の繁栄、五穀の豊穣、航海の安全などを祈った。その宗教的な勢力は時に政治力を上回ることもあったが、尚真王は内政の整備の一環として政教分離でもって巫女の勢力を抑えたのであった。しかし、尚真の治世も後半は傾き、その一因として日本の船が沖縄にことが増えたということがある。それは、日本で応仁の乱という国内の争いがおさまり、外へ向う力が強くなったことを意味し、独自性をもつ琉球王国にとっては喜ぶべきことではなかったであろう。

 

・薩摩による侵攻・琉球処分・近代

 日本の国内にありながら、日本の権力の政治干渉を受けない地域で東アジアや東南アジアをつなぐ地理を生かして貿易国家として存在していた琉球であったが、1609年に薩摩は琉球王国を武力で制圧し、江戸幕府による幕藩体制の枠内に組み込んでしまった。薩摩の侵攻の主な理由としては、薩摩の政治的、経済的窮状による、対明交易という琉球王国の経済的な利権の剥奪ということが挙げられる。薩摩は武力で制圧をしたが、あえて王国の解体をしようとはせず、明国との冊封体制、交易を認めている。なぜなら、琉球は独立国でないと、明との冊封関係が成り立たないからである。外見は独立国でありながら、薩摩による厳しい統制のもとで幕府体制に組み込まれた。薩摩は侵攻後まもなく琉球の検地を行い、総石高を約9万石とし、年貢米と反物などを上納として薩摩に差し出すことを義務付け、奄美五島の割譲も命じる。さらに、人質として薩摩に拘束した尚寧王の1611年の帰国の際、琉球が守るべき「掟十五条」を申し渡している。その中で目立つのは明国との交易を薩摩が統制しようとしている点である。明国との交易は薩摩の許可を要する、薩摩の印判のない商人は交易させない、他国への商船派遣を禁ずるなどの部分からそれはうかがえる。このような、薩摩による経済的な締めつけや王府の財政の破綻などにより琉球王国は衰退の一途をたどるようになる。

 その頃、本土においては明治維新を迎えており、中央政府が政治、経済、文化を統制する近代国家への移行に燃える維新の影響が数年遅れて琉球に及ぼされた。明治国家にとって琉球を統一国家に編入するために、それまでの琉球が歩んできた歴史的な特殊性をなくさねばならなかった。そこで、琉球王国の明との冊封体制を改め、日本の領土であるということを示す必要があった。そのために1872年(明治5年)に琉球王国を琉球藩とした。琉球藩は鹿児島管轄下から維新政府直轄に移され、琉球藩当局に清に対する朝貢使の派遣、及び清からの冊封を受けることの禁止や、明示の年号の用いることの命令などが下されたが、琉球藩当局は命令を拒否し嘆願を繰り返したため、政府は警官、軍隊による武力でもって1879年(明治12年)3月27日に琉球処分を下した。つまりこれは廃藩置県を意味し、琉球は沖縄県と改められた。

 沖縄に対し、明治国家は教育の普及と共に、国家主義浸透政策を推進した。独自の文化や風習を持ち、国家意識というものが希薄であった沖縄で最も力を注がれたのは初等教育の普及である。就学率は明治13年には2%であったのが明治20年には6.7%、更に10年後には36.8%、ついに明治40年においては92.8%まで達した。その急速な普及の影には、地方的なものに対する弾圧があった。特に、標準語の普及と方言の使用禁止による厳しい現状があった。

しかし、琉球藩が定められたときは、もうすでに他の地域では廃藩置県が住んでおり、県になっていたことなどからも明らかなように、沖縄の目覚しく急速な近代化への移行は、ただ単に中央国家による強力な管理、統制によるもののみならず、沖縄自体が中央国家からの後進性を感じ取っており、それを打破しようとする焦燥が国家主義を浸透させるための条件となり得た、という事実は否定できないのではないだろうか。

 

 

まとめ

 土着的な民俗や風習に注目したため、主に琉球と呼ばれる時代の沖縄に焦点を当ててこれまで述べてきたのであるが、現代においても祖先崇拝や沖縄独自の土着宗教、風習、文化などを考えるとき、やはり歴史的な側面からのアプローチが大いに役立ったといえるであろう。なぜなら歴史的なことから派生して様々なことも吸収できたと捉えるからだ。

「なぜそのような独特な民間風習が今もなお沖縄の人々に受け継がれているのか」とはじめにの部分で述べたのであるが、果たして「独特」とは何を持って言うのであろうか。私のみならず、本土出身者のゼミ生たちもこの沖縄の風習については独自性やユニークな印象を受けたようであったが。それは私たちが生きてきて当然だと感じていた生活習慣とは異なるから「独特」というのだろうか。だとしたら、それを当然としている沖縄の人々は私たちが当然と感じている生活習慣について「独特な本土の習慣」と捉えるのか。私はそうは思わない。なぜなら、彼らははっきりと「沖縄」と「本土」の差異を認識しているのだから。もともとその差異を知っていれば別に習慣的な事柄が異なっていてもなんら疑問はないであろう。彼らがなぜそのような差異を感じ得ているのかという事については、歴史的な背景からも明らかであろうし、古代の沖縄の人々が培ってきた思想的な部分を子孫たちが受け継いでいるという点を見ても明らかであろう。もともと日本という国よりも中国や東南アジアに地理的にも、交易が盛んであったために、それらの国々と文化的にも近いものが根付いていたということ、また江戸末期、近代における日本からの介入によるそれまでの王国とは異なる国家というものの脅威を受けたことから見ても沖縄は、文化的にも思想的にも日本である。と断言するのは難しいのではないだろうか。

近代においては、本土と比べての後進性を自覚していた彼らであるが、近世的な社会が充分でないうちに急激な外圧(日本)による変革でもって近代社会を迎えなくてはならなかったと言う点に近代以降沖縄県に降りかかる問題点の原因があるように思われる。

 

祖先によって導かれた沖縄の文化や民俗が現代においても見受けられるのは差異によるものであると捉えたが、同じように彼らの沖縄人(ウチナー)としてのアンデンティティーがそこからもうかがえるのではないだろうか。祖先を崇拝する精神や、それに付随した土着的な信仰、またユタに対する認識などは古代の沖縄の人々が当たり前としてきていたものであるし、そのような宗教的な面や自分たちのルーツである祖先とのつながりを密接にしているという点から沖縄人としての自己というものを考える上で大きな役割を占めていると感じる。

民俗的な影響は沖縄独自のものに限らず、石敢当やお墓などからもうかがえるように中国からの影響が色濃い部分が今もなお残っている点や、薩摩から属国として扱われても明に対しては独立国である体裁を取っていた点などは、良いと感じる文化を受け入れる柔軟性や貿易国で、海外とのつながりに長けているという社交性を感じる。沖縄に訪れるとき、人々が明るくて陽気なのも、それらの事柄が反映されているからだろうか。また、2章の神に対する観念の部分でも触れたように、ニライ・カナイの海の彼方にある国が幸福と豊穣をもたらす場所であるという信仰が根本にあるということも、外から来た人々へ対する態度に表れているのかもしれない。いずれにせよ、その沖縄人としてのアンデンティティーや古くからの民俗を貫く部分に、彼らの信念や強い精神を感じずにはいられない。

 

 

 

参考文献・WEB

『沖縄の歴史と旅』 陳舜臣 PHP研究所 2002年 860円

『沖縄の歴史と文化』外間守善 中公新書 1986年 600円

『ユタと霊界の不思議な話』 月刊沖縄社・編 月刊沖縄社 1999年 1545円

『るるぶ沖縄‘01』 JTB出版 2000年 767円

カミンチュについて  www.ne.jp/asahi/pasar/tokek/TG/mikoclub/yuta01.html

精神看護学概論レポートwww.geocities.co.jp/AnimalPark-Pochi/9120/seisin.htm