後期ゼミ論

ファッションのモダニズム
2004年度森村・川村ゼミ 




法政大学
国際文化学部国際文化学科
4年B組
01G0108
長谷 文人




1 はじめに
2 「デザインのモダニズム」ポール・グリーンハルジュ:序章に関する考察
3 ファッションのモダニズム 



1 はじめに
 この論文は法政大学国際文化学部森村・川村ゼミの2004年度4月14日のゼミの議題であった、 ポール・グリーンハルジュの「デザインのモダニズム」序章と、その日の論議を踏まえたうえで書いたものです。 この論文では議論の時あいまいになってしまった点を確認すると言う意味でも、まず再度「デザインのモダニズム」 序章を振り返ってみたいと思います。そしてそれを踏まえた上で、個人的研究のテーマである「ファッション」の 分野のモダニズムについて、考えていきたいと思います。



2 「デザインのモダニズム」ポール・グリーンハルジュ:序章に関する考察
まず「デザインのモダニズム」序章の内容について振り返るとともに、 そこから個人的に考察をしたことについて書いていきたいと思う。個人的にこの序章の部分には大きく二つのキーポイントがあると思う。 それは@「先駆的段階」と「国際様式」という近代運動を二分したことと、A近代運動の共通原理を12個にまとめた箇所である。 その二箇所について重点的に振り返り、再度解釈しなおそうと思う。

1)「先駆的段階」と「国際様式」
初めにポール・グリーンハルジュの序章の中でポイントとなってくるのは、 デザインにおける近代運動を「先駆的段階」と「国際様式」の二つに分けていることだ。 彼はこのようにモダニズム運動を、1930年を境とした決定的な断絶として二つに分けている。 そしてその第一段階を「デザインされた世界によって人間の意識は変わり、 物質的条件が改善されるかについての理想像であった。」といい、 第二段階を「イデア(理念)というよりスタイルであり、テクノロジーであった。 主に物の概観やその製造に関する議論なのである。」※1と言うように分類した。 それを言い換えると「第一のフェーズはイデアによって、第二のフェーズは、スタイル、テクノロジーによって、 という折衷的な」※2モダニズム運動であったといえるだろう。

※1、※2「モダンデザイン全史」海野弘 著 より抜粋

 海野弘は「モダンデザイン全史」の中で、このポール・グリーンハルジュの「デザインのモダニズム」を マンフレッド・タフーリの「球と迷宮」と並んで、新しいデザイン史の出発点を示している研究としてあげている。 そしてこの二つ文献を用い、彼のモダニズムに対する考えを進めていっている。 彼は60年代を大きな境として歴史が断絶していると言う※3。 これをもって私はデザインのモダニズム運動を1910年代〜1930年代の「先駆的段階」と、 1930年代〜1960年代の「国際様式」という図式を持って、話を進めて行こうと思う。 本論文には直接関係ないかもしれないが、フレデリック・ジェイムソンが指摘している※4ように、 この60年代以降をポストモダニズムの時代と言う風に考えていいだろう。

※ 3 以下より
おどろいたことに、モダンデザイン史はまだ書かれていない。 これまで、書かれたものは、新しい状況のために通用しなくなっている。 新しい状況というのは、1960年代以後にあらわれたもので、 60年代の前と後では歴史が断絶していまっている。そのことがはっきりわかってくるのは、 90年代に入ってからであり、私たちはやっと、モダンデザインを全体的に見渡す地点に達した、といえるだろう。
                            「モダンデザイン全史」海野弘 著

※4  以下より
ポストモダニズムは、60年代の文化に起こったことを記述する際のひとつの重要な枠組みとなる。 しかし、この白熱した議論の的になっている概念をここじゅうぶんに吟味することはできまい。 そのような吟味は、なによりもまず、以下のような特徴を考慮することになるだろう。 まず、あの周知のポスト構造主義的テーマである主体の「死」(中略)。模造の文化の性質と機能(中略)。 これと「スペクタクルの社会」(ギー・ドォボール)の関係
「60年代を時代分析する」 フレデリック・ジェームソン

2)「先駆的段階」のモダニストたちの12の共通理念
@反細分化
A社会倫理
B真実
C総合芸術
D技術
E機能
F進歩
G反歴史主義
H抽象性
I国際主義・普遍性
J意識変革
K神学

ゼミの議論の中では、どのようにしてポール・グリーンハルジュが、 この12個の共通理念を導き出したのか、というところについての話がまったくなされていなかった。 ここではまずその点から考え直してみようかと思う。つまりポール・グリーンハルジュは公にされたマニフェストや、 その時代に広く保持されていた理念から抽出されたものや、1990年から客観的に見たものを合わせて12個上げたという事だ。 つまり、これら12個の理念を当時の一人の人間や、一流派が、すべてを同時に理念として抱いていたと言う事ではなく、 当時の段階を包括的に考え、共通されていると思われる理念という事が言える。

では12の理念のうち再度説明を要すると判断したものを再度取り上げるとしよう。 まずはAの「社会倫理」について改めて考えてみることにする。 これは論議の時も何度か説明したことだが、私達は「資本と産業の結合が、 生産の過程と目的から労働者を疎外する方向へと、幅広い効力を伴って」いたため 「人間から、その人自身の身体、対外性、精神生活、および人間的生活を遠ざけてしま」った結果 「強い心理的虚脱状態」となった大衆を「富の創出を背後で支える推進力と」なるデザインによって、 その「経済的、社会的状況を転換させる」という事をさしていたと考えた※5。 これは具体的にはドイツ工作連盟の1908年に定められた連盟規約の第2条に書かれているものがいい例となるであろう。 「工作連盟は、芸術、工業、手工業の共同により、教育、宣伝、および当該の諸問題に対するきちっとした態度表明をとおして、 産業労働を向上させることにある。※6」と言っている。 また、ドイツ工作連盟からバウハウスにも参加した政治家フリードリヒ・ナウマンの「社会変革的ヒューマニズム※7」 の思想からもそれは読み取れることができる。世界デザイン史によると彼は、 「資本主義産業の生産的利点を生かしつつ労働者あるいは民衆の社会的基盤や環境の改革をはかり、 労働の創造的な喜びと意義を再建しようという理想を推進した人物※8」であったという。 こうした点からポール・グリーンハルジュは「社会倫理」といった理念を導き出したのではないだろうか。

※5 「 」の部分はポール・グリーンハルジュの「デザインのモダニズム」序章 p9より引用
※6、※7、※8 世界デザイン史 監修:阿部公正 出版:美術出版社 より

 Dの「技術」についても再度考えてみようと思う。 議論の中で「技術」という言葉がすでに理念ではないと言う指摘があった。 確かに「技術」という理論を実際に応用する(ものをとりあつかう)手段やしかた※9が理念となるのはおかしいかもしれない。 しかし、ポール・グリーンハルジュがここで「技術」として括って、言いたかった事は、 むしろ「大量生産」と「規格化」という事であるといえる。序章の中で「少なくとも先駆者たちのなかにあって、 大量生産は依然としてひとつの理念であり続けた  ※10」と言っている。 さらにポール・グリーンハルジュは「国際様式が正当性を勝ちえたとき、 大量生産されたモダニズムはようやく現実のものとなった※11」と言い、 そして先駆的段階「当時は実践的意味においてのみ機能したのではなく、 象徴的意味においてもまた機能したのであった※12」と言っているように、 モダニストたちは実際的な意味というよりは、むしろ象徴的な、理念の中で考えていた節がある。 また蛇足になるかもしれないがモダニストたちがデザインによって社会変革を成し遂げようとしていることから、 つまりこの「技術」という理念とはモダニズムの理念を大量生産するという理念、と考えて差し支えないのではないだろうか。 そして、このこれもまた実際のモダニストたちから見てみよう。バウハウスの教師であったヨハネス・イッテンは、 1921年イッテンは校長であるヴァルター・グロピウスに対して要求を出した。 それは「外の経済界と対立して個人単独の仕事を遂行していくか、あるいは産業との接触を求めていくか、 その二者択一の決断を迫った。※13」そしてグロピウスは 「芸術制作と機械生産とを生活形式の結合という点で統一を求める※14」という見解を示し、 大量生産の理念を重要視している。この見解のためイッテンはバウハウスを去り、 また後のモダニズムがバウハウスを主体として発達したことを考えると、 この見解がまた、モダニズムにとっても大きな変革になったともいえるのではないか。

※9 三省堂国語辞典より
※10 ポール・グリーンハルジュ「デザインのモダニズム」序章 p10
※11、12 ポール・グリーンハルジュ「デザインのモダニズム」序章 p11
※13、14 世界デザイン史 監修:阿部公正 出版:美術出版社 より

そしてもうひとつ、Iの「国際主義・普遍性」について再考してみることにしよう。 「国際主義・普遍性」はそのひとつまえのH「抽象性」と深く関わってくる。 ポール・グリーンハルジュは「言語そのものを排除することで抽象性は、 倫理としての国際主義を実現可能とする美学となったのである。※15」と言っており、 ここでは、倫理を善悪の基準※16、つまりデザインの善し悪しの基準、 そして美学とは「美は時代を超えた不変の価値観※17」と考えていたことから考えると、 彼は、形象性、または言語そのものを排除することで、純粋性を追及した抽象性を受け入れたデザインは、 国際主義として国境を越え、また普遍性を手にし、時間を越えた価値観になるとモダニストたちは考えていたと考えたのだろう。 またそれには合理化や規格化も大きくかかわっていることはドイツ工作連盟の 1914年7月3日から4日の総会の提案に現れている。「建築その他すべての工作連盟の活動領域は、 標準化に向かって進んでゆく、それによってはじめて、それらの領域は、 かつての調和ある文化の時代に備わっていた広い一般的な意義をとりもどすことができるようになるだろう。※18」 このように標準化つまり、規格化が進むことにより、かつてのような文化的調和の取れた様式のように、 工業化された社会においても、その様式が広く一般的という普遍性を、手にすることができるのではないかと考えていたようだ。

※15、17 ポール・グリーンハルジュ「デザインのモダニズム」序章 p14 ※16 三省堂国語辞典より  ※18 世界デザイン史 監修:阿部公正 出版:美術出版社 より

こうして見てきたモダニズムの条件を次はファッションについて当てはめていって考えてみようと思う。



3 ファッションのモダニズム
近代ファッションの揺籃期を語る上で欠かせない人物は数多く存在する。 その中でも何人かあげろといわれた時に、まず挙げることができるのは、 シャルル・フレデリック・ウォルト、マドレーヌ・ヴィオネ、ポール・ポワレ、 そしてガブリエル・ボレーヌ・シャネルであろう。彼らは近代化という波の中でどのような働きを果たしたのか。 また何を果たそうとしたのか。それを考えていくことでファッションにおけるモダニズムとはなんだったのか、 また何を成し遂げることができたのか、という事を考えてみたい。

1) シャルル・フレデリック・ウォルト
 ウォルトの成し遂げた功績を話す前に彼が登場した19世紀後半のファッションの状況を話さなくてはならないだろう。 中世から当時までのファッション界というものは間違いなく貴族やその周りの人々によって支えられてきた。 というより、彼らが主体となっていた。何よりもデザイナーが存在していなかった。 王侯貴族たちは服を新着しようという時、または仕立て屋といわれる職人達の下に新しい反物が入荷した時、 彼らが宮廷に赴き、採寸を行い、そして店に帰り、実際に作り上げると言うシステムであった。 これはもぎれもなく身分制度が確立しており上下関係がはっきりしていた当時の時代情勢を反映している。 しかし歴史は変革の時を迎える。フランス革命により身分制度は崩壊し、 またブルジョワジーと呼ばれる新興資本家達が急速的に力をつけてきた。 時は1852年、フランス。二月革命によりルイ・フィリップ王が失脚し、ルイ・ナポレオンが第二共和制から、 皇帝として第二帝政を開始した。フランス皇帝は翌年皇后娶った。彼女の名はウージェニー。皇帝45歳、皇后26歳。 そして彼女はまたファッション界の女王として君臨したのだった。 ウォルトの「職業人生は、この時期にもっとも幸運なスタートを切った。※19」

※19 ファッションの仕掛け人 著:アーネスティン・カーター 訳:小沢瑞穂 より

 ウォルトは1826年イギリスに生まれる。 12歳からロンドンの生地屋で働き、20歳の時に、パリに渡る。 そして有名な衣料雑貨店「ガシュラン」に就職し、ここで10数年働き、クチュリエとしての第一歩を踏み出す。 ここでウォルトは生きたマヌカン(人台)に服を着せ、服を披露し、 顧客やバイヤーに売るという手法を考案した。これがウォルトの一大改革となった。 つまり、それまでのファッションのデザインにおける主導権はクライアントにあった。 それを彼はクリエーターがデザインしたものをクライアントに披露し、レディ・メイド(規制)のデザイン として作品を買わせるという、「宮廷からの特別注文という制度を反転させた出来事であった。※20」 そして彼は独立し、自身のクチュール店を開き、布地の仕入れから、アトリエ、専属マヌカン、 そして年4回のコレクション・ショーなど、経営と創作を統合する会社経営方法作り出し、今日のモード界の基礎を築いた。 これこそが、彼が近代ファッションの父といわれる所以だ。私は、彼が中世から続くシステムを崩壊させ、 それまでは名もない職人でしかなかったデザイナーの名前が、歴史に残るようになった事は、 モダニズム・デザインにおける、ウイリアム・モリスに匹敵する人物だと思う。 そして、モダニズム・デザインがモリスから語られるように、私もウォルトから話を初めようと思ったわけだ。 ウォルトはレディ・メイドという既製服を開拓し、それはすべてオーダー・メイドであった時代から考えると、 合理化、規格化、大量生産につながる大きな変革を起こした人物であると言えるのではないだろうか。

※20 モードの世紀 http://www.mode21.com/

2)ポール・ポワレ
 ポール・ポワレは1879年パリに生まれた。 18歳の時からファッションのスケッチを売って、ファッションの世界に入る機会を窺っていた。 彼は、当時一流であったマダム・シェリュイの店に入り込むことに成功する。 そして、程なくして、ジャック・ドゥーゼの目に留まり、彼の店に雇われることになる。 そしてそこで彼は才能を開花させていく。「ドゥーゼと一緒にすごした二年間の短い期間に、 大きな影響を与えられたのは確かである。※21」21歳の時兵役に服す。 そして彼が戻ってきた時、彼はウォルトの店に入ることを選ぶ。そして1903年に独立を果たし、 オペラ座の近くに店を構えた。

※21 ファッションの仕掛け人 著:アーネスティン・カーター 訳:小沢瑞穂 より

 ポワレは何より女性をナポレオン1世の時代から続くコルセットから解放したことで名声を残している。 このコルセットは後ろできつく縛るため一人でそれを行うことはできない。 二、三人の男性が力任せに引っ張って結ぶことができたのだ。それは今では到底想像することもできないが、 女性一人では外に出ることもできなかったという事だ。これは女性の自由を奪っていた。 女性は男性なしでは自立した一人の人間として生きていくことはできなかったのだ。女性は男性に依存していた。 しかし、彼より先にコルセットを女性から開放した人はいないわけではない。 それはアメリカの女性解放運動推進家、アメリア・ジェンクス・ブルマー、ブルマー婦人だ。 彼女は女性にとって運動しやすい服装として、 「ウエストを締め付けず全体にゆったりとしたトルコ風ズボンを膝下丈のスカートと組み合わせた※22」スタイルを奨励した。 しかしクチュールの世界でそれを成し遂げたのは彼が最初であった。 当時の女性のファッションの流行はSカーブと言って、コルセットによってウエスト・ラインをきつく絞り、 蜂の身体のように変形した物が主流であった。彼のコルセットの廃止には賛否両論ある。 それは、彼が女性を解放するという意思を持ってコルセットを廃止したのではないからだ。 彼が活躍した20世紀初頭は空前のオリエンタリスム、ジャポニスム、そして東洋趣味の気運が高まっていた。 そうした流れの中で彼は東洋の服装に目を向け、スタイルとしてコルセットのない服をクチュールに持ち込んだのだった。 とは言うものの、彼の行った行動はそれなりの評価をすることができるだろう。 本当の意味での開放を果たしたガブリエル・ボレーヌ・シャネルへ道を開いたとも言えるだろう。 それにしても第一次世界大戦の余波によって経済的に打撃を受け、デザイン活動をやめ、 妻子にも見放され、貧困と病苦の中で、1944年、彼は65歳で天に召されたのは、悲劇というしかない。

※22 世界服装史 監修:深井晃子 出版:美術出版社 より

3)マドレーヌ・ヴィオネ
 マドレーヌ・ヴィオネは1876年にオーベルビリエという町に生まれた。 12歳のときに、クチュール店で見習い奉公をし、イギリスに渡ったりしたが、 1901年パリに戻り、キャロ姉妹のメゾンに入り、また1907年にはドゥーゼのメゾンでモデリストとして働く。 モデリストとは「顧客を直接の対象にせず、自ら縫製ができクチュリエの考察したデザインどおりに作品見本を作る人。※23」 のことである。彼女はデザイナーである前にドレスメーカーであった。 「誰もドレス作りの技術においてヴィォネを超えたものはいない※24」とディオールに言わしめたほどであった。 だからこそ、彼女の革新的な技術、バイアス・カットが生まれたのであろう。

※23 モードの世紀 http://www.mode21.com/
※24 ファッションの仕掛け人 著:アーネスティン・カーター 訳:小沢瑞穂 より

 ヴィオネがバイアス・カットを発表したのは1926年。 「このカットこそ、ファッションに対する偉大で不滅の功績といえよう。※25」 バイアス・カットとは布を斜めに使うことで、これによって、 「体の曲線を暗示させながらなめらかにボディの上を流れるラインを可能にした。※26」 この技術はファッションの近代化に大きく貢献したといえる。 これはポワレと同様コルセットからの開放を意味していた。これにより女性はコルセットをつけることなく、 女性らしいラインを作り上げることができるようになったのだ。 このように見てくるとポワレやヴィオネといったデザイナーによって 技術的な意味でもファッション界にモダニズムの兆しが訪れたといっていいだろう。 そしてシャネルである。

※25、※26 ファッションの仕掛け人 著:アーネスティン・カーター 訳:小沢瑞穂 より

4) ガブリエル・ボレーヌ・シャネル
 ガブリエル・ボレーヌ・シャネルは社会の底辺から登りつめた女である。 彼女は生前自分の出生について話そうとはしなかった。彼女の死後、真の出生地がソーミュール、 そして1883年に生まれたことがわかったのである。彼女は行商人の母の元に生まれる。 その母は彼女が12歳の時に亡くなる。父親に捨てられ、7年間孤児院に預けられ、その後修道院に移される。 そして20歳の時、ムーランの小さな衣料店のお針子となる。 21歳の頃彼女はミュージックホールで歌手としてデビューしようとしていた。 当時の貧しい女性達は、歌手になることで、そんな状況から抜け出した女性達に自分を重ねて夢を見ていたのであった。 しかし彼女にはその才能は持ち合わせてなかった。24歳の時ムーランで出会った騎兵隊の将校エチエンヌ・バルサンに連れられて、 コンピエーニュのロワイヤルリューにやってくる。今までの生活を考えればまさに天国と地獄であったであろう。 この事が小さな出来事が、彼女にとって大きな転機となる。 その状況中で彼女は男たちのネクタイ、ジャケット、コートを借りて着るようになる。 恐らく周りの女達と同じように見られたくないという意識が働いたのだろう。 「その頃の女達の服装は、ロングスカート、かさばった帽子、高いヒールの靴といった具合に、 もろもろの飾りと締めつけで、女の肉体の自由をはばんでいた。橋ひとつ渡るにしても、女たちは男の手を借りなければならず、 男たちからすれば、それは従属と飾り物の存在を意味していたから満足であった。 職業柄によって目立つ服装、階級によってちがう服装。すべて、 表面(うわべ)での装いだけで一目瞭然になってしまう女の在り方に、 シャネルは無意識にそして必死に抵抗していた。※27」 彼女は自分で働き、男の世話にならない女になることを願うようになった。 そしてまたひとつの転機が訪れる。彼女の前に一人の男性が現れる。 それはアーサー・カペル、イギリス人だった。彼もまた一風変わった男だった。 彼は他の男とは違い、一代で財を成した、振興ブルジョワジーだった。 シャネルはバルサンでは満たされない何かをこのイギリス人に感じた。 そしてカペルの口添えもあり彼女は、パリで帽子屋を営むことになる。

※27 シャネル 20世紀のスタイル  著:秦 早穂子 出版:文化出版局 より

そして1910年ごろには女性服全般を手がけるようになった。 彼女は服に対して何より、実用性を主張していた。 金持ちの避暑地としてヴァカンスを楽しむ者が多かった、ドーヴィルに店を出す。 避暑地ではスポーティーな服の需要があったからだ。 成果が現れてきた頃、第一次世界大戦が起きる。ヴァカンスの地は疎開して来る金持ちであふれた。 彼女は働きやすい看護婦の服を供給した。戦時中は女性も男性の仕事を分担して行わなくてはならなかった。 そして、戦火の中においては何よりも機能性がある服が必要とされていたからだ。 また戦火の中、素材不足のため、彼女はジャージーを使うことによってそれを乗り越えた。

女性を最終的に解放したのは戦争とシャネルだった。 戦争によって女性は男性と同じ職場で働き、精神的に男性への従属から脱し、 またファッションの世界に目を転じてみれば、 それを形あるものとして実行したのはガブリエル・ボレーヌ・シャネル、その人だった。 つまり、「一人で着ることのできる服―スナップ、ジッパー、ボタンが、 自分の指の届く範囲にあって、人手を借りない服。更に言えば、男の手なしに着られる服だった。※28」 彼女は自分の服を真っ先に着てみて、納得するとアトリエからサロンを通り、町に溢れていくのだった。 彼女は自分の望む女性像を体現できるもののみを発表して言ったと考えられなくもない。 装飾を極力省いた、機能美はモダニズムそのものであった。 「自らが働く女性であったシャネルは、創作活動を通して新しい社会で生きる女性、 自立した女性のスタイルを具現化した。※29

※28 シャネル 20世紀のスタイル  著:秦 早穂子 出版:文化出版局 より
※29 世界服装史 監修:深井晃子 出版:美術出版社 より

このようにしてファッションのモダニズムを見てきた。 繰り返しになるが、ウォルトが道を開いたレディ・メイドという既製服のシステムによって、 そして工業化の波の中で、「規格化」、「合理化」、「大量生産」とつながっていく。 そしてポワレ、ヴィオネといったデザイナーによって女性の解放が始まり、 それはバウハウスが目指したような「機能的」でなおかつ美しいというシャネルの服につながっていく。 そしてファッションの世界における「社会倫理」といっていい、女性の精神的な開放。 他にもここでは取り上げなかったが、階級による服装による差別からの開放も上げられる。 また第二次世界大戦後、1950年代、60年代を経て、ファッションの世界は既製服が男女とも50%を超え、 世界は洋服というひとつの「国際様式」でまとめられた様でもある。 それはまさにモダニズム運動だといえる。こうしてファッションを見たとき何がわかるのか。 やはりここで考えてしまうのはファッションの力である。 つい50年前までは既製服が50%も出回っていなかった。 しかし我々は今ほぼ100%既製服で暮らしている。それはまた大量生産された洋服がそれだけ浸透したことをさす。 我々は洋服ではない暮らしを想像することが容易ではないという状況にもなった。 これは「意識変革」といっていいだろう。建築は肉体から離れている分、客観的に、 そしてイデオロギー的に考えることが容易なのではないか。ファッションは肉体に密着し客観的に見ることは困難だ。 これは人間との同化といってもいいのかもしれない。だからこそ、ファッションの力は見えにくく、 そして大きな力となる。世界はポスト・モダンの時代を経て、新しい時代に入ったのかもしれない。 これからどんな考えが生まれ、もしくは生まれなくても、ファッションは人間の大きな力となり続けるだろう。



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