前期論文

盛期モダニズム批判と私と将来と

国際文化学部国際文化学科3年B組
01G0108 長谷文人


<初めに>
この時期に「建築とイデオロギー批判」の論文を書くことにおいて個人的に触れておきたいことがある。 それは自分自身、長谷文人についてだ。この夏休みの間自分自身について考え、悩み、今、自分の中でひとつの答えにたどり着いたと思う。 なぜそれをあえてこの論文の中で書きたいのか。それは6月の個人発表の際にはまだ五里霧中であり、 自分についてうまく皆さんに話すことができなかった、という反省と、もっとよく皆さんに知ってもらいたいという、 個人的な衝動からだ。今でも三里霧中くらいかもしれない。 でも皆さんに話す価値はあると思う。 そこでこの論文では「建築とイデオロギー批判」の文献から特に「盛期モダニズム批判」の部分を第1部として取り上げ、 次に第2部として私自身について触れ、最後に第3部でまとめるという形をとりたいと思う。 そしてまとめの部分では第1部と第2部が取ってつけただけの状態にならないように、うまく融合したものにしようと努力した。

第1部 <盛期モダニズム批判>
建築班で取り上げたFredric Jamesonの「建築とイデオロギー批判」の文献は大きく3つに分かれていた。 それはタフーリの「建築とユートピア」を検討するために3つに分けられたパースペクティヴであり、 つまり「マルクス主義的文脈」「タフーリが作業を行う際の言説の形式」「盛期モダニズム批判」の3つである。 そしてこの3つの中で特に注目すべきなのは言うまでも無く3つ目の「盛期モダニズム批判」であり、 ここが議論の核となる部分であるといえる。そして個人的にこの「盛期モダニズム批判」の前提となる部分で誤解していた部分があり、 議論に参加することが中途半端になってしまい、不完全燃焼に終わってしまった。 そのため、ここでもう一度ここを整理し、考察をすることによって建築の文献を清算したいと思う。 今回は特に、この文脈の中のモダニズムとポストモダニズムに関する部分をまとめてみようと思う。 なお、この文献は当初、英語で配布されたが、後になって日本語のテキストが手元に渡ってきた。 ゼミ生全員にこの日本語のテキストが渡っていないかもしれないが、今回私はこの日本語のテキストを参考にして、 この先書いていくことを了承していただきたい。
まず、個人的に誤解してしまった「盛期モダニズム批判」の前提となる「資本主義の時代区分」についてまとめてみよう。
第1段階:「古典的」資本主義
第2段階:「独占的」「帝国主義的」資本主義
第3段階:「後期」「多国籍的」資本主義
そして「盛期モダニズム」または「国際様式(インターナショナル・スタイル)」といったものは、 「第二次世界大戦とともに終わりを迎えた独占的かつ帝国主義的な資本主義という、第二段階と<対応>する」ということになる。 また、「<消費社会>という第三段階」も提示されている。つまりこの第3段階が現代、今に当たることは改めて書く必要もないだろう。 そしてJamesonはこの第3段階を「ポストモダン的なパスティーシュの実践」とした上で、その具体例を列挙している。 ここでそれらを改めて書くことは決して意味の無いことだとは思わない。 「<ラス・ヴェガスに学ぶ>ことを目ざす(ロバート・ヴェンチューリの『ラス・ヴェガスに学ぶ』への言及) 様式と歴史主義的引喩の新しく自由な戯れの登場」「深層というよりは表層の局面」「古い個人的主体あるいはブルジョワ的自我の<死>」 「イメージによる商品のフェティシズムへの分裂症的礼賛」「<狂乱のニューヨーク>と対抗文化的なカリフォルニアの局面」 「メディア資本主義の論理が進歩的文化生産それ自体の論理に浸透し、その文化生産を、高尚な文化と大衆文化の区別が意味を失うまで変貌させる(すなわち、進歩的あるいはモダニズム的芸術のもつ<批判的>、<否定的>価値という旧来の考え方がもはや適当でも、有効でもない)」 という6つの具体例を出して第3段階を説明している。この具体例について個人的な批判はない。 むしろ手の甲に書き留めて日々改めて音読したいと思うほど簡潔に現代を表しているように思える。 ただ惜しむらくは3つ目の「古い個人的主体あるいはブルジョワ的自我の<死>」という一文を理解できない私の知識不足だ。 どなたかに教えていただきたいと願うばかりだ。
 続いてFredric Jamesonはモダニズム批判に話を移行していく。 そこで彼はタフーリの「建築とユートピア」の中から彼が先に示した資本の新しい段階に関する時代分析とほぼ一致する 「左翼の<イデオロギー終焉>論」を取り上げる。つまり「信念を正当化するシステムの全体という公式化された意味における イデオロギーは━後期資本主義の社会的生産においては、もはや重要な要素ではあり得ない。」とし、 彼はアドルノが提唱するような「商品こそ時代独自のイデオロギーであるという可能性を考察」するに至る。 そこでの彼の考察は「消費と消費主義の実践は、それ自体がどのような<イデオロギー>に肩入れしていようと、 じゅうぶんにそのシステムを再生し、正当化し得るということになる。」と始まり、 「その場合、抽象的な概念、信念、イデオロギーあるいは哲学体系ではなく、むしろ日常生活に内在する実践がいまや、 より広い意味における<イデオロギー>の位置を機能的に占めることになる。」と続き、 「またそうであるならば、この展開は盛期モダニズムのユートピア的イデオロギーの力の衰えを説明するもののひとつとしても 明らかに役立つことだろう。」としている。Fredric Jamesonは、ユートピアの話に移し、 実際にタフーリは「ケインズ的な未来の統御という理想に結び付けようと」、 「<ユートピア>とは、<未来の『合理的』な支配であり、未来とともにもたらされる危険の消去>」と言っているとする。 そして、「ユートピア的形式は、商品取引制度の啓発と新しい資本の力動性のためのひとつの道具である」として、 この「基本的な機能は、過去の組織的破壊」であると話を進めていく。 そして、「モダニズムそれ自体の夜明け」を「イデオロギーがユートピアに公然と変形され、 <イデオロギーがそれ自体のあり方を否定し、その具体的に結実した形式を打ち壊し、 自らを『未来の構築』へと放逐しなければならなくなった>局面」、または、 「あらゆる芸術分野における盛期モダニズム誕生の至高の局面」とした上で、こうした局面は、 「実質的には、タフーリにとって、残存するイデオロギーと過去の社会形態を組織的に解体するような、 純粋に破壊的な作用の局面であった。」とまとめ、「盛期モダニズムの新たなユートピア主義は、 こうして計らずも、それ自体の革命的、ユートピア的主張の精神に反して、完全に<合理化された>テクノクラシー計画の全能性と、 のちに多国籍資本の全体的システムとなるにいたるものの普遍的平面化のために、情勢を用意することになったのだ。」と言っている。
 ここから暫し建築とユートピアについての言及が続き、その後Fredric Jamesonは、 タフーリの「現代の都市における特徴的な矛盾、不均等、および混沌は不可避的なものであることを、 大衆に納得させることが必要になる。実際、大衆には、この混沌が、いまや社会にとっての新たな物神をつくり出すつきせぬ豊かさ、 無限の利用可能性、そして<ゲーム>の性質を包合しているのだと信じこませなければいけない。」 と言っていることに対して、その問題点は「後期資本主義における<社会的再生産>は それより以前の盛期モダニズムにおけるのとほぼ同様の形式をとるではないか、 あるいは<ポストモダニズム>と呼ばれることもあるものは、古いモダニズム的解決法を単により低いレヴェルの強度と 独自性において反復するにすぎないのかという仮定にこそある」と言っている。 そして「ポストモダニズムの建築について」盛期モダニズムの建築「とはまったく違うことを行おうとしているのだと 認識するのは重要であろう。」とし、さらにポストモダニズムは「もはや、盛期モダニズムのユートピア的イデオロギーを 体現することはない」と断定している。また「その一方で、怪しげな<ポスト>と言う接頭辞が示唆しているように、 それが否定しようとしている、いまでは絶滅したはずの盛期モダニズムとある種の寄生的関係を結び続けている。」と続けるが、 「しかし、探求されなければならないのは、ポストモダニズムに関しては、全面的に新しい美学、 まえの時代のものとは重要な相違点をもつ美学が、いまこそ出現の過程にあるのかもしれない」と希望的な可能性を述べている。 そしてその美学について「自己同一性」と「有機的統一」の美学と特徴づけられた「盛期モダニズム」と区別される 「ポストモダニズムの美学」を「内部と外部の弁証法」と「外見的装飾」と特徴づけている。そして、 ポストモダニズムという「異なる美学の哲学的公式は、(まさしくポスト構造主義的な、あるいはポストモダニズム的な) <差異が関係し合う>という観念にも見出せるかもしれない。」と述べ、盛期モダニズムの美学である 「同質性の美学はここで駆逐される。」とその終焉を定義した。そして「<差異が関係しあう>」という観念についての説明が続く。 「それは無作為の異種混交性、すなわち無作為に共存している一組の不活性の差異によってではなく、新種の知覚の作用」とした上で、 「新種の知覚」と言うものを「緊張、矛盾、両立し得ないものや対立しあうものを書き込むことが、 それ自体、ふたつの通約不可能な要素、極、あるいは現実を互いに関係づける強力な様態」と説明した。 しかし、「ポストモダニズムの象徴行為は、その周囲にあるすべての矛盾と断片化された混沌を、 それらの矛盾自体に対する強化された知覚を通じて、またその矛盾の有する催眠的な、 ほとんど幻覚を惹き起こさんばかりの魅惑によって、単に批准しようとするだけのもの」とポストモダニズムを否定する。 それはFredric Jamesonの最終的な結論である、ポストモダニズムは「後期資本主義という巨大な存在の内部においては、 なにも新しいことはなし得ない、根本的な変化など起こり得ないという」という回答に帰結する。

第2部 <長谷文人という人間について>

まず、このことを書くにおいて私の生い立ちを書かなくてはならない。それは私の生まれ育った家や育ててくれた父母、そして弟達が私のアイデンティティを構成する上で大きな存在であったからだ。私は1982年3月31日に東京で生を授かった。それ以来私は東京都の調布市で育ってきた。母は小学校の教師で、父は私が生まれた当初は企業に勤めていたが、私が物心つく頃には末期がんの患者のホスピスである、桜町病院の聖ヨハネホスピスに勤めるようになった。父がその道を歩むことになったのは父の父、私の祖父のがんでの死が大きく影響していると思われる。そしてその祖父はある企業の創始者の一人であり、専務として勤務していたと聞く。その祖父は私が幼稚園に通う頃亡くなった。またその頃、その会社は東京証券取引市場第一部へ株式を上場し、父や祖母の手には想像もすることも無かったほどの金額が通帳に刻まれることになったという。そして僕はおそらく裕福な暮らしの中で成長してきた。そしてまた、父母は、カトリック教徒であり、私も生後まもなく幼児洗礼を受けた。幼少の頃は父母に連れられ毎週日曜に教会に行き、朝夕の食事の前には祈りを唱え、また幼稚園は我が家のそばにある星美幼稚園というカトリックの幼稚園に通い精神的な面において大きな影響を与えたと思う。このカトリックという私の日常が私を構成する大きな一面となっている。物心つく前から神という目には見えないものの存在を信じ、それを絶対だと信じ、目を閉じ神に祈った。この経験は私が人よりも、物ではないものの存在、物理的には存在しないものの存在を考える事が多かったことが今の自分に大きく影響していると思う。 このことはまたあとで書くとして、次に弟の存在について書きたい。私には二人の弟がいる。ひとりは2歳が離れており、もう一人は4歳離れている。特に二つ下の弟は歳が近いこともあって一番身近にいるライバルとなった。弟は何事も要領を掴むのが早く、私はその逆であった。そのため何事も、兄として恥ずかしい限りだが、弟に負けていた。走るのは短距離も長距離も弟の方が速かったし、野球をしても弟の方がうまかったりした。私は近所のスイミングプールに通うようになった。そのうち弟もプールに通うようになった。たちまちに弟は私のクラスに追いつき、私より上級のクラスに進んだ。私は水泳を辞めた。算数の計算にしても私が解けなかった問題を弟が横から回答を言ったことがあった。そして、何をしても弟に超えられていくことで私は、何もかもを自分の得意なものとして考えることができなくなった。こんなことは本当に言いたくないのだが、弟は私にとって壁であり、恐怖であった。勉強をしても、運動をしても、何をしても、私より上に行き、私の存在を否定するそんな恐怖感を感じていた。父母の期待も弟に向けられているように思っていたし、私は劣等感の塊であった。小学校・中学校と野球を続けられたのは、弟がサッカーを選んだからだと思う。そして、いつもこんな想像をしていた。この家の自分以外の家族はみな「鬼」で自分だけが「人間」。いつも監視されていて、いつか食べられてしまう。そんな想像をしていた。今思うと幼心の中に疎外感を感じていたのかもしれない。そんな私が始めて弟に勝ったと確信した瞬間があった。それはたしか高校1年の時。私も弟も年頃になり服装、ファッションに興味を持つようになった。年明けのその日、弟もお年玉でどこかに洋服を買いに出かけ、私も吉祥寺に友達と出かけた。当然のごとく家に帰ると買ってきた服をふたりとも試着を始めた。先に弟が着替え、得意そうな顔をしてリビングでテレビを見ていた。私は後からリビングに行った。そのとき着ていた服は初めて買ったPPFMの赤のチェックのパンツだった。僕は弟を見た瞬間に勝ったと思ったし、弟は負けたぁと呟いた。そして僕は初めて弟に負けない武器を手に入れた。それから僕は服にのめりこんでいった。そしてファッション雑誌を毎号々々買うようになった。 そしてまたカトリックの話に戻したいのだが、幼稚園を卒園し公立の小学校に進み、土日は野球と教会のユースセンターで過ごした。そして低学年から高学年に成長していく中で、おそらく誰にでもあるであろうが、やはり神というもの、聖書の話に疑問を抱くようになった。ノアの箱舟に疑問を感じ、キリストの復活を信じることができなくなった。一度疑いだすとその勢いは止めることはできない。何しろ神の存在には何の根拠も無く、キリストの存在も復活も聖書という一種の昔話のひとつであり、友人との討論になった時、私はその証明をすることがかなわなかった。幼い私にはその力が無かった。そして、公立の中学、高校と進学する頃には、私は教会に行かなくなった。私としてはこの事は幼い頃から信じてきたものの瓦解であり、大きな転換期であったと思う。そして私は高校を卒業し、大学に合格できず、浪人生活を送った。そんなある日、私は久しぶりに教会に出かけた。藁をも掴むではないが神にすがりたい気持ちであったのかもしれない。その教会は懐かしい雰囲気であったが、何か違うように思えてきた。それは何だ。何であったのか。教会を離れている間にすっかり私は物として存在するものしか信じなくなっていた。しかし久しぶりに見た教会のほかの信者の方々を見ているうちに様々な考えが頭を駆け回りだした。彼らは何かを一心に考え、見つめ、祈っている。何に対してか。それは目の前にある十字架か。神父に対してか。キリストの壁画か。違う。神だ。神を見つめ、祈っている。何十人という老人が神に祈る。疑わず。信じることを疑わず。しかし神はどこに存在するのか。神は存在しない。ここにはいない。しかし、一人一人の心の中にいる。何十人という人が教会に集まり、一心に祈る姿を見て、私は、神はそこにいる一人一人として存在していることを悟った。神はいる。人間には他の誰にも触れることのできない自分の人格が存在する。たとえどんなに愛している人が何か叫ぼうとも変えることのできない自分。たとえどんなに尊敬している人が命じても変えることのできない自分。それは世界中の誰にも触れることのできない孤高の存在。頂。神の存在。神はいた。私は気づいた。神の存在に。神はいた。自分の一番近くで一番遠い部分に。幼き頃、解だけしか与えられなかった方程式を自分で解くことができた私は教会に行くようになった。自分の中にいる神を見つめるため。 そのような経験を経たため私は「精神」や「心」といった、無形の人間の中に存在するが、見ることはできない存在に敏感になった。そしてそんな「精神」や「心」といったものを、映画や音楽や舞台によって感動するという、人間の心という内面を動かすという事が私の中で何物にも返られない崇高な行為のように思えるようになったのだ。そして叶うならば私も何か人の心を動かすようなことをしたいと考えるようになった。それはきっとどこかの企業に就職しいわゆるサラリーマンとして書類の山の中で生きていては叶わないことだと思う。だから私は自分が生み出した、表現したもので他の人間を感動させてみたい。そういう欲求に苛まれるのだ。

第3部 <自分の未来について>

 ここでは自分の今後の道筋について、第1部の盛期モダニズム批判の中で出てきたポストモダニズムという現代の要素の自分なりの考察を交えて考えたいと思う。  まず、この第2部の自分についての考察を書いた、9月上旬と今現在9月下旬で自分の中で大きく違った将来のビジョンが見えている、このことを書かなくてはならないと思う。9月上旬に思い描いていた自分の将来像は「役者」であった。第2部でも書いたとおり人を感動させる表現ができるのは自分の肉体を用いて表現することが一番であると思ったからだ。そして自分でもそうすることが好きであるし、自分でも得意であると思っていた。しかし、その夢を持つことに「しこり」を感じていたし、たぶんその「しこり」は不安から来るものであったのだと思うけれども、それは影のようにいつまでもピッタリと自分にくっついてくるものではないように感じていた。そして、川村たつる先生に第2部の文章を見ていただいた際に指摘された、「お前にとってファッションがそんなに大きな意味があったなら、そっちに行けばいいんだ」という言葉によって、朝靄に光が射すように、違う未来が見え始めた。私にとって洋服とは何であったのか、と考えてみると、初めは確かに弟と違うものを求めていたが、その対象がいつの間にか大きくなり、クラスのみんなとは違う、学校の誰とも違う、世界の誰とも違うというように拡大していき、いつしか他者とは違うという自分の自分性、アイデンティティになっていた気がする。しかし、私は今まで服は服であって、自分自身ではなく、私は服を私が表現する時の道具として考え、それが表現であったことに気づかなかった。そして、それを生業にしようとは考えなかった。これが私の青春時代の大きな回り道となった理由だと思う。  第1部でFredric Jamesonがポストモダンを最終的には否定していたが、その文脈の中で定義されていたポストモダンという現代の社会の中で、私は洋服といった手段でどのようなものを表現していけばいいのだろうか。「差異が関係しあう」。私のポリシーはまさにそうだった。洋服で他人よりも目立つためにはと考えた時、それは自分と他者の差異、つまりギャップを外見で装うという事だった。そのギャップから生まれる驚きや普通ではない感覚を与えているという実感が、他者とは違うというオリジナリティを感じることにつながった。しかし、その差異性、ギャップというものは他者と自分を繋ぐキーワードで終わるものではない。それは自分自身と自分自身を繋ぐものでもあり得るのだ。昨日の私と今日の私の差異性、ギャップというものがまた驚きを与えるものであると考えている。それこそ「差異が関係しあう」自分というものが出来上がると考えるわけだ。  では、スタイルやイデオロギー崩壊した世界でどんな服を着ていけばいいのだろうか。答えは簡単なところにあるはずだ。それは誰しもが好きな服を、ひとつのスタイルというこだわりを捨て、好きなスタイルを着ればいいのだ。それがスタイルやイデオロギーの崩壊した先にある姿ではないか。しかし、今の世界を眺めていると、必ずしもそれができているとは言いがたい。裏原系といわれるストリート・スタイルから高級ブランドと呼ばれるスタイルのように、それぞれのカテゴリーの壁は高い。そのために初めに僕はファッションを音楽から解放したい。現在の服装、ファッション・スタイルは音楽によるところが大きいと思う。音楽のスタイルの誕生に必ずファッションも付随していたのだから仕方のないことだと思うが、しかし好きな音楽と好きな服が一致しているとは限らないし、それによって自分の外装の可能性が捕らわれているのが悲しい。僕はこの街を生きる人々が、あるスタイルに捕らわれて生きるのでは無く、さまざまなスタイルをまるで渡り鳥のように自由に雄飛する姿が見てみたいのだ。

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