2004年度前期グループ研究論文

デザインとは何か

T.はじめに

 今回、『デザインのモダニズム』序章を文献に発表を行うにあたり、まずもって確認したことは、「デザインとは何か」といった原点回帰のような疑問に立ち返らないことである。「デザインとは何か」という問いは、後にも先にも答えが出る様なものではなく、また時代によりデザインの定義は変化している。ゼミという限られた時間の中で、これを議題として扱うことは、議論の方向が四散してしまう要因になりかねなかった。しかし、論文として提示する際は、自らの定義を示す意味も込めて「デザインとは何か」を扱う事はやぶさかではない。よって、まず論文の序として「デザインとは何か」を辞書的な定義から、歴史の中における定義の変遷を追うことも含めて論述してみることにする。

U.designの定義

 まず、デザイン(design)が英語の中でどのように定義されているのかを見てみよう。OXFORD Advanced Learner’s Dictionary(第5版)によると、designは以下のように説明されている。

1(a) a drawing or an outline from which sth may be made
1(b) the art of making such drawings, etc
2 the general arrangement or planning of a building, book, machine, etc
3 an arrangement of lines, shapes or figures as decoration; a pattern
4 a plan or an intention

 1(a)に関しては、具体例として「designs for a dress/ a kitchen/ an aircraft」と書かれているので、今日的な拡大されつつあるデザインの解釈と同一線上のものとして挙げる事ができるだろう。しかし、1で挙げられている「design = drawing」という定義は、designの定義の中で最も古いものに属するものである。デザインのイタリア語であるディセーニョdisegnoは、英語のdrawing(素描)に相当するが、このディセーニョに関して、ルネサンス期の理論家フランティスコ・ランチロッティは著書『絵画論 Trattato di pittura』(1509)の中で、絵画の基本要素のうちのひとつであると述べている。また、広い意味でディセーニョは、芸術家の心のなかにある創造的なアイデアを示していた。この芸術家の創造的な活動が、神による世界の創造ないし、プラトンのいうデミウルゴス(なんらかのイデアまたは原型にそって世界をつくる神)の活動になぞらえられたため、ディセーニョという言葉には、ある種の神秘性をひめる事となった。そして、ディセーニョ、つまり創造する力があるかないかが、芸術家と職人を明確に区別する基準であったのだ。この解釈におけるデザインは、芸術について表していることになる。

 2の定義は、近代の語法の中で成立したデザインと見てとることができる。近代におけるデザインとは、機能的もしくは実用的なものを制作するさいの設計段階と制作に入る以前の段階のことを指している。1769年ワットが蒸気機関を開発したことによって、今まで手工業でまかなわれていた産業は、機械によって大量生産がなされる近代的工業へと移り変わって行く。その機械による大量生産の恩恵にまず授かったのは、橋や工場などの建造物であった。1779年には、イギリスのコールブルックデールにて世界で初のアイアンブリッジ(鉄の橋)が架けられている。そして、1851年のロンドン万国博に登場したクリスタル・パレス(水晶宮)は、鉄とガラスという加工可能性をひめた、近代をほうふつとさせる素材で作られていた。また、近代的工業の成立に伴い、労働者は工場のある都市に移住することとなる。その結果、人口は都市に集中して行き、社会構造も大きな転換を迎えた。そして、変革して行く社会の中にあって、形を具現化する過程としてのデザインに大きな注目が集まっていったことは言うまでもない。しかし、近代デザインの概念の誕生は、機械化への反発という形でもって登場した。
 当時の大量生産される日用品は、以前の手作業による模様や装飾を模倣した形態となっており、より高価な品物と見せるために過剰なまでの装飾を帯びていた。この折衷的な形態であった機械製品を前にして、ウィリアム・モリスは機械による生産は全くの「悪」であるとし、中世以来の手作業を中心とした伝統的な日用品の復活を掲げた。モリスは、手作業によってなされるべきである「良き装飾」が、生活の全領域に行き渡るようことをモットーとした商会を設立し、壁紙のパターンワークや家具類の製造を手掛けている。しかし、万人に良き装飾をうたったモリスの活動は、一部の好事家の欲求を満たすのみにしかならなかったことで矛盾を抱えていた。当時の、大半を占める労働者階級の欲求を満たす、または劣悪であった労働者の環境を改善しえるものは、工場で生み出される大量生産品によるところが結局のところ大きかったのである。
 社会を変えるべきは、社会によって大量に消費される大量生産品をどのように改善するかにかかっていた。機械によって作り出される大量生産される製品をデザインすること、つまりインダストリアルデザインの誕生である。1907年、ヘルマン・ムテージウスは当時学長を務めていたベルリンの商科大学にて「工芸の意義」と題した講演を行い、その中で近代工芸の意義は過去の様式の模倣でない、精神的、物的、社会的諸条件のあらわれた形態を創造することであると述べている。この言葉は、モダンムーヴメント(近代運動)の宣言として捉えることもできる。そして、ムテージウスが講演をした年に、インダストリアルデザインの団体として、ドイツ工作連盟(DWB)が結成されている。この連盟の規約を見てみると、「芸術、工業、手工業の共同により、教育、宣伝、および該当の諸問題に対するきちっとした態度表明をとおして、産業労働を向上させることを目的とする」とある。態度表明をとおして、産業労働を向上させることとは、つまり良質なデザインによる産業製品を作り出し、その製品が社会全体に流通することで労働者自体の生活が向上することを標榜していることの表れである。
 多くの者の欲求を満たすためには、合理的で効率的な作業を行い、機能に優れた製品を大量に作り出して行くことにあった。そこで、生まれてきた概念が機能主義である。そもそも、機能とは「用」を表す言葉である。ウィリアム・モリスの時代は「用」と「美」を追っていたものであることを考えると、「美」つまり飾りつけることは徹底的に排除されることとなった。これは、建築家アドルフ・ロースの装飾は罪悪であるとする言説にもっとも端的に表れているだろう。効率的な機械生産を行うためには、不必要にも表面を覆っている装飾を取り除き、ものの本質を純粋に表現している形体、つまり必要最低限な部分のみで構成される形体を導き出すことにある。ここにおいて、近代におけるarrangementとしてのデザインの解釈がなされている。そして、ルネサンス期の芸術としてのデザイン解釈とは全く異なり、デザインは芸術からはっきりと分離し、芸術とはまた違った地位を保証されたのだった。
 この機能主義は、建築の分野でもっともよく表現されている。そして、近代デザインを養成する学校であったバウハウスの理念もまた、諸芸術分野が最終的に「建築」に総合されることであった。機能主義の建築家として挙げられる人物に、バウハウスの校長も務めたミース・ファン・デル・ローエを挙げることができるだろう。ミースの建築は、鉄とガラスによって成り立っているのだが、「Less is more(より少ないことはより大きいこと)」という彼の言葉が示すとおり、装飾を限りなく廃した、単なる箱型としての建築となっている。彼にとって、人間が使用し、人間が住む空間なら、食堂であろうが美術館であろうが本質的に同等なのである。このような思考の下での、建築の差異とは、その建築に備わっている設備と室内空間の大きさのみを表すことになる。食堂でも美術館でも使える空間の概念は、特に移り変わりの激しいオフィススペースにとって重要なものである。間仕切りやデスクを動かす事によって、ことなる機能を持った空間を作り出す。ミース自身「機能に従ってプラン(間取り)をつくるやり方でなく、どんな機能をもってきても困らないような融通性のあるプランをつくるべき」と述べている通り、空間に対する融通性が、近代後期に登場するユニバーサルスタイルとして扱われる要因となったのであろう。そして、ユニバーサルスタイルとしてのミースの建築の代表例としては、ニューヨークに立つシーグラムビルなどを挙げることができる。

 長らく近代におけるデザインの変遷を述べてきた。今日におけるデザインの定義は、ルネサンス期における芸術と混同されたものとは異なる点においてからしても、今日のデザイン定義は近代が始まりであると見てみても構わないだろう。近代のデザインとは、機能主義が切り離せない関係にある点からしても、製品や建築に対して徹底した合理化や効率化、その結果ともなう抽象性を指すものであった。しかし、このような近代的思考は、「装飾の復権」とともに破綻していく事になる。つまり、辞書の定義におけるところの「3 an arrangement of lines, shapes or figures as decoration; a pattern」を指す。
 アメリカの建築家ルイ・カーンは、ルイス・サリヴァンが述べた有名な言葉「形は機能に従う」とは根本的に異なった「形は機能を啓示する」という主張をしている。ルイ・カーンによると、例えば4人の生徒に何かを教えようとするときに、天井高が10メートルもある部屋ではなにも教えられない。しかし、暖炉のあるような部屋なら十分に教えることができるだろうと説明している。つまり部屋によってなすべき事は変化するのであり、生活空間を本質的に全て同じとしたミース・ファン・デル・ローエの主張とは真っ向から対立するのであった。
 このような近代建築における機能主義への批判は、近代建築の国際的指導団体であったCIAM(近代建築国際会議)がチーム]によって崩壊させられる過程を通して、より強固なものへとなっていった。この時、批判活動を率先して行っていたのは、「怒れる若者たち」と呼ばれていた若手の建築家たちであった。しかし、彼らは決してひとつの主義にまとまることはなかった。彼ら自身は革命家としての自負があったかもしれないが、社会を変革する程の能力はなく、以前の様式を新しく見せていくアイデアしかなかった。そして、各々が進むべきと眺めていた方向は全くバラバラであった。この様相は、大きなベクトルが解体され、小さなベクトル群となった、モダニズムからポストモダニズムへの移行を見て取ることができる。
 ポストモダンの文脈の中におけるデザインにとって、重要なテーマとなるのは記号signである。記号は、20世紀の言語学者フェルデナン・ド・ソシュールによって作り出された記号学によって確立された概念であり、意味を内包している物や言葉を示す。物事には、それ自体の形状があらわす意味(シニフィアン)とそのものが内包する抽象的な概念(シニフィエ)が存在する。この記号は、デザインや建築においても必ず内包されているものとみなされる。モダンの時代にあって廃された装飾には、記号としての多くの連想作用があることが再認識されている。そのような連想作用としての装飾について言及している人物としてロヴァート・ヴェンチューリを挙げることができる。彼は著書『ラスベガスLas Vegas』の中において、自らが設計した老人用アパート「ギルド・ハウス」について、「装飾を伴い、また多少とも明白な連想作用に依存している」と述べている。また、近代建築に対しては、象徴として機能する機能主義という矛盾を抱えていると批判している。装飾を取り去り、機能的に見せようという様式こそが、近代における装飾様式として受け止められてしまっているのだ。この時点で、デザインの定義も近代と比べて変化する事になる。つまり、モダンのデザインは万人がより良い生活を送れるような社会を形作るための、良質な大量生産品を効率よく消費者のもとに届ける社会システムの構成にあったが、ポストモダンにおけるデザインは、既成の様式の組み合わせを変えることによって新しい意味を付与するものとしての働きにある。社会的に大きな変革ではなく、個々のクライアントの要望に応じるものとしての変化を創造するのだ。

 以上、OXFORD Advanced Learner’s Dictionaryに記載されている「design」から、話題を膨らませて述べてきた。しかし、モダンからポストモダンに至る中において、デザインの代表的な例を挙げるとなると建築によってしまったのは面白いところである。やはり、建築物が立つということは、目に見える形で社会を投影すると同時に、社会に影響を与えるものだからなのだろうか。もちろん、後のグループ研究のテーマが「建築」であったことから、私自身が影響を受けているのは否定できない事実ではあるが――。

V.日本のデザイン

 前章では、英語の「design」について述べてきた。そのほとんど全ては日本におけるデザインの定義と同一のものとして挙げる事ができるだろう。しかし、記号学的な見方からすれば、言語がことなる限りその言葉が内包する意味、概念もまた変化してくるはずである。よって、この章では日本における「デザイン」の捉え方を見ていくことにする。

 「デザイン」は、言うまでもなく外来語である。その到来は、第2次世界戦後の外来語ブームの時で、当初は服飾業界や美容院で使われて世間に広まった。斬新な衣服や髪型をまとめた呼称であったのである。そこには、自分自身の感覚器官で捉えられる表層へと第一に関心を向ける人間の性向と、耳慣れない新語への定義と理解の願望が相まっている記号過程であるとうかがえる。その後、商業美術ないし生活美術と呼ばれていた広告やポスターなどのグラフィックデザインをはじめとして、インダストリアルデザイン、インテリアデザイン、建築デザインなどと各分野で使用されるようになり、今日においても使用される領域は拡大されつつある。
 現在において、「デザイン」はそのままカタカナ語として使用されているが、『和英対照 日本美術用語辞典』によると、訳語としては意匠や図案があるようだ。同辞典を用いて、それぞれ「意匠」と「図案」を調べてみよう。

いしょう 意匠 英語のデザインの訳語として当てられてきた言葉であるが、一般には「工夫をこらした趣向」という意味であり、時には美術という意味にすらなったりする。
Isho devised idea/design Isho is a Japanese word translated from the English word “design.” However, in general, it means “the devised idea” and it can sometimes mean bijutsu(art) as well.

ずあん 図案 意匠とともに英語のデザインの訳語として当てられてきた言葉であるが、一般には「美術品を含めた工作物の概要を記したもの」という意味をもつ。
Zuan design/ornamental idea “Zuan”, as well as the word “isho” is a Japanese word translated from the English word “a design”. However, it generally means something in which the essence of the work’s structure including bijutsu-hin (a work of art) is summarized.

 この2つの語を並べてみると、両方ともにカタカナ語として使われる「デザイン」という言葉よりも美術artの方へ意識が向いていることが伺える。つまり、それは工芸の分野を象徴しているとも見る事ができるのではないだろうか。

 世界がモダン、特に国際様式と呼ばれる時代にある中において、日本は独自の近代デザインを形成している。日本は、既にある伝統を国際様式の文脈に置き換えることによって、そのナショナルなアイデンティティーを確立していく運動が存在した。その運動とは、柳宗悦による民芸運動である。そもそも民芸という言葉は、1925年に柳が紀州への旅の途中で作り出したものと言われており、民衆の生活用具である食器、家具、衣類などの民衆的工芸のことを表している。1926年には「民芸美術館設立趣意書」が発表され、民芸品に対する「美」に注目が集まることとなった。この伝統的工芸品に美を見出そうとする活動は、前章で挙げたウィリアム・モリスの活動と似ている。しかし、モリスが機械化つまり近代化への反発としての伝統的手工業の復活であったのに対し、柳の民芸運動は伝統への回帰ではなく、あくまでモダニズムの視点に立った新しい解釈としての美意識であった点に大きな違いが存在するのである。
 この民芸運動と同様の現象として挙げることができるものとして、桂離宮をめぐる運動がある。1933年ドイツの建築家ブルーノ・タウトは来日し、当時宮内庁によって管理され、一般公開されていなかった桂離宮が、機能主義的にたいへん優れた建築であることを「発見」する。この「発見」は世界的な反響をもって迎えられるのだが、この背景には上野伊三郎ら「日本インターナショナル建築会」による戦略的な活動があった。その結果としての「発見」は、日本の伝統的建築物は近代建築と同列の存在であるという「お墨付き」を貰えることとなったのである。
 民芸運動にしても桂離宮にしても、物そのものの変化はしていない。しかし、その物をとりまく社会的環境の変化によって、物の概念は大きく変化してきてしまう事をあらためて認識する事ができる。民具が製作された当初、桂離宮が建築された当初は、このような解釈を与えられるとは思いもしなかっただろう。その限りにおいて、作者の意図が尊重されるわけではなく、社会的要請によりいくらでも書き換えられることになる。つまり、「図案」は制作後においても形作ることができてしまうということになるのだ。

W.デザインと私たち

 今まで述べてきたことを簡単にまとめてみよう。まず、ルネサンス期におけるデザインは、芸術における素描drawingとしての意味しかなしていなかった。近代に入ると、デザインは芸術とは別の概念として、自立するようになり、労働者の生活環境の改善などの社会的要請に応えるべきものして存在した。圧倒的多数の労働者階級の欲求を満たすためには、効率的に生産されることが必要であり、デザインは機能主義をとることとなる。しかし、労働者の生活レベルが上がると、効率のみを求めるデザインが社会の欲求を満たさなくなってきた。その結果登場する新たなデザインの役割は、意味の込められた装飾を施すことを行うようになった。また、日本のデザイン活動である民芸運動を眺めることによって、既存の物に対する概念の転換を図ることも、デザインの一種であると受け止めることができそうである。
 以上のようなデザイン解釈を通してみた時に、では今実際にここにある私たちにとっては、デザインはどのようなものとして存在するべきなのであろうか。今日における私たちを取り巻く情勢には、多くの不安が存在している。ただその不安は、漠然としており、近代当初に労働者階級が抱えていた困窮具合から考えると、社会的危急度も低い。なぜなら、私たちはある一定の生活水準を満たしているからである。最低限の生活を保障されている私たちにとって、近代におけるデザインの概念が通用しないのは当たり前であり、これからはその生活の+αを創造して行くものであることが必要である。その+αは、人によって異なるだろう。この+α、つまり生活の一部分に工夫をこらしていくことが今後のデザインのありようなのかもしれない。

参考資料:

『OXFORD Advanced Learner’s Dictionary』
『オックスフォード 西洋美術辞典』 講談社 1989
『記号学大事典』 柏書房 2002
『和英対照 日本美術用語辞典』 東京美術 1990

参考文献:

川添登 『デザインとは何か』 角川選書 1971
阿部公正=監修 『世界デザイン史』 美術出版社 2002
海野弘 『現代デザイン 「デザインの世紀」をよむ』 新曜社 1997
ロヴァート・ヴェンチューリ 『ラスベガス』 鹿島出版会 1978
磯崎新 『建築の解体』 鹿島出版会 1997
磯崎新 『建築における「日本的なもの」』 新潮社 2003

(2004/05/03 更新)

>>back