2004年度前期グループ研究論文

Modernity’s Gaze

T.はじめに

 今回、デヴィット・ハーヴェイの『ポストモダニティの条件』の第1部「現代文化のモダニティからポストモダニティへの移行」を読解した。その上で、顕著な存在として残ったもの、それは「モダニティ」という存在であった。
 モダン、ポストモダンを表現するないし、含蓄している言葉は多少なりとも存在し、その言葉による差異を解釈するのは、非常に困難な作業でもある。モダンには、モダニズムがあり、モダニティがある。それと対になるように、ポストモダン、ポストモダニズム、ポストモダニティという言葉が存在する。単純な理解に立つと、モダン/ポストモダンは時代的区分であり、モダニズム/ポストモダニズムはその時代における主義、主張であり、モダニティ/ポストモダニティはその時代の性質を表すものとなるはずである。しかし、この理解は端的に述べてしまった結果であり、実際はポストモダンにおいてもモダニズムがあり、モダンにおいてもポストモダニティが存在するような、非常に混沌とした中にこれらの言葉は置かれているのである。
 第1部「現代文化のモダニティからポストモダニティへの移行」は、構成上、モダンの話題より入り、建築や都市、絵画などを例に取りながらポストモダンへと展開して行く。そして、第5・6章においては、マルクスの資本論を取り上げながら、モダンとポストモダンを資本主義の点から捉えている。この中では、ポストモダニティという言葉自体は幾度となく登場している。だが、モダンにおいてもポストモダンにおいても注目するべき存在として登場しているのはモダニティであった。例えば、ポストモダンの性質としてあるはずの「うつろい易さ」が、「モダニティについて唯一たしかなものが不安定な状態」(P149L16)であると述べられている点(資本主義による創造的破壊について言及している所で、この不安定な状態となった由来に関して、後にマルクスを用いて述べている)や、「もしモダニティとポストモダニティのいずれもが、断片化、はかなさ、混沌とした絶えまない変化という事実と何らかの格闘から美学を見いだす」(P164L5)というくだりからは、モダニティとポストモダニティの差異を見出し難いという点から、ポストモダニティとはモダニティの対峙する概念ではなく、ほぼ同化したものではないかという疑念が浮かんでくるのである。もちろん、デヴィット・ハーヴェイが題名に「ポストモダニティ」を付している以上、「ポストモダニティ」について述べられている文献には変わりはないだろう。しかし、ポストモダニティが捉えきれていない今の状態にあって、もっとも眼前に表れていたものは、モダニティなのである。

 では、このモダニティをどのようなモノとして捉えるのか。その成り立ちや変遷については、後の章で扱う事にし、ここではモダニティを後の論述の中における主役として、どのように設定するかを述べていく。
 モダニティに関する記述は、第2章の冒頭にボードレールの論文『近代生活の画家』(1863年刊行)からの引用「現代性とは、一時的なもの、うつろい易いもの、偶発的なもので、これが芸術の半分をなし、他の半分が、永遠のもの、不易なものである」からはじまる。このボードレールの言説は、第2章または第3章以降においても、モダニティに関する定式として使用されている。第2章「モダニティとモダニズム」は、ポストモダニズムがモダニズムへのリアクションないし離脱であるというポストモダニズム議論の唯一の同意の上にたって、モダン、モダニズムに注目している。そこで得られたモダニティ理解は、ボードレールの定式そのままに「易」と「不易」の相反した性質の持ち主であったことだ。しかし、第3・4章にて、ポストモダンが語られる上で強調されたのは、モダニティの性質の一面である「易」であった。この変化については、「易」と「不易」を備えているモダニティというモノを、「不易」の方向より眺めていたモダニズム的視線から、「易」からモダニティを捉えるポストモダニズム的視線への移行であったとすることにより理解できるだろう。
 だが、モダニズムとポストモダニズムが異なった角度より眺めている対象であるという理解以上に、モダニティはモダン、ポストモダンを通して躍動している。特にその点が顕著に表れてくるのが、第5・6章における資本主義に関する記述である。これらの章では、モダニズムからポストモダニズムへの移行の中には、差異以上の連続性があることを、マルクスによって与えられた資本主義的近代化の理論を用いることによって強調している。そして、この連続性が指し示すものとは、貨幣と市場取引によって覆われた世界にあって商品を「神話」化する資本主義そのものであり、資本主義の絶え間ない再生産に魅入られ、自らも不安定、不確実な存在となってしまったモダニティそのものなのである。このような点からも、モダニティは時代を通した存在でありながら、不動の概念ではないことが分かる。その時代時代の社会状況、社会システムによって大きくその姿を変容させてきているのだ。まさに時代に翻弄されていると言ってよい。
 このようなモダニティの姿は、モダニズムやポストモダニズムによって見られるだけの対象としての存在以上に生けるモノとしての存在であることを私たちに見せてくれる。逆に、モダニティとはモダンやポストモダンを見つめている視点なのではないのだろうか。時代に翻弄されるモダニティの瞳はうつろい易い。そんなモダニティが見つめる先を、またそれに影響を受けるモダニティ自体の変容を、以降の章にて観察してみようと思う。

U.誕生

 「モダニティ」、それ自体は典型的には何かに対抗する新しいものを示す。モダニティmodernityという言葉は、ラテン語のmodernus(modoは「最近」という意味)から由来しており、聖アウグスティヌスの著作の中では、原始的多神教の時代と区別される、キリスト教の時代の事をあらわしている。このような「古い」モノと「新しい」モノを区別するモダニティは、時代の様々な転換期において存在していた。例えば中世からルネサンス期への転換の際にも登場している。しかし、今日の世界への直接的な系譜となるモダニティが生まれたのは、18世紀より台頭してくる啓蒙主義によるところが大きい。
 啓蒙主義が現れてくる18世紀は、大きな社会的転換の時代でもあった。つまり、神によって王権を与えられた王は、市民によって排除され、人類の夢であった永久動力を、蒸気機関という形でもって手に入れた時代なのである。人類は、蒸気機関という巨大な機械によって、自然をも神をも超えてしまった。その結果、人間を超えるものは人間存在そのものとなり、科学的、技術的発展を背景に人々も付いていけなくなる程の進歩を遂げる事となる。この時代において、モダニティは、ただ「新しい」だけではなく、最も「進歩的」であることを表現するようになる。
 最も進歩的であることを意味するようになったモダニティを、ユルゲン・ハーバマスは「モダニティのプロジェクト」と呼び、このプロジェクトの発展によって「人間は神話、宗教、迷信から解放され、人間の奥に潜む闇の部分から解き放たれるとともに、専横な権力行為からも解き放たれ」(P27L5)、「あらゆる人間に備わっている普遍的で、永遠かつ不変である属性が開花」(P27L7)させることができるのだ。この時点におけるモダニティは、超越的な普遍性、人間の深層にあるとされる真理といった究極的なものしか眺めていなかった。
 しかし、この究極を望む人間開放は、同時に人間を抑圧するシステムへと置換されてしまう。しかもこの抑圧システムは、非合理になされるものではなく、科学的にも立証された合理性の上に立って行われた。ひとつ具体例を挙げよう。イギリスの統計学者フランシス・ゴルトンは、1883年「人間の能力と成長についての調査」の中で、暴力犯罪者の肖像写真を重ね焼きし、その特徴を平均化したタイプを表そうとした。これは、写真による観相学と犯罪学をあわせたような試みであった。同年、彼は著書『遺伝的天才』の中で優生学を提唱し、1885年には「ユダヤ人のタイプ」という合成写真を作成している。これは、言うまでもなくナチスドイツによってユダヤ人を区別するための道具として利用される結果となった。また、最も優秀な民族としてのドイツ人創造を目指し、優生学を用いた品種改良も行われている。
 このような合理的に組織化された抑圧システムを「鉄の檻」と称し、近代化に対する合理化の問題を暴いてみせたのがドイツの社会学者マックス・ウェーバーであった。彼は、この合理化によって建築や芸術も含めたあらゆる社会活動が、目的を達成するための最も有効な手段を決定するために緻密に検討させる傾向があることを述べている。その結果、ただ一点を眺めていたモダニティは、効率よく一点を見つめるために異常なまでに緊張を強いられることとなった。

 意識的か無意識的か、または「ジキル博士とハイド氏」のような二面性を持ちえた存在であったのか、前章で挙げたボードレールの定式のとおりモダニティは、不易なものである面とうつろい易い面といった両面を兼ね備えている。啓蒙の時代より新しきを求め、まい進してきた。しかし、近代に入るとその傾向はいっそう顕著となった。新しきを創造するがための古きものの破壊、つまり創造的破壊の顕在化である。この創造的破壊は、特に近代建築とそれに伴う都市計画、近代芸術運動により見て取ることができる。移り変わる風景を目の当たりにして、モダニティは自らの不変性に確信が持てなくなってきた。移り変ってしまう建築、芸術を、刻印として、記述として残していくことによって、永遠なもの、不変なものであるということの確信をかろうじて得ていた。
 なぜ芸術運動は、近代において自らの主義を主張するような運動となったのであろうか。前章で挙げたボードレールの定式に戻ってみると、彼は芸術家を「自分の洞察力を都市生活のありふれたものに集中させ、そうしたものの束の間の性質を理解し、過ぎ去った瞬間が内在している永遠なるものを示唆するすべてのものを、その瞬間から引き出すことのできる人」(P37L5)としている。このようなボードレールによって定義された芸術家のさきがけとして名を挙げることができる芸術家は、デュアール・マネであり、近代芸術運動のさきがけとなるのは、彼の影響下で発展した印象主義である。実際、彼ら印象派の画家は、ごくありふれた都市や田園の風景を同じ所から何度も描いている。印象主義にとって重要なのは、光のゆらぎである。光のゆらぎによって、同じ風景も表情を変える。この一瞬、後にも先にも同じ姿は決してありえない瞬間、を捉えるために何枚も同じ場所を描写しているのだ。このような描写活動は、過ぎ去る瞬間に永遠性を与えるべく刻印を押していると見てよい。
 また、印象主義は、アカデミーによる写実主義を中心とした既成画壇への反逆でもあった。既成画壇への反逆としての運動は、ドイツでも「分離派」の名前でもって展開されている。同時期には、フッサールが現象学を定義し、芸術運動と同様に、既成の枠組みに収まりつつあった哲学の世界に新風を巻き起こしていた。このような同時性によってかよらずか、芸術と哲学は接近するようになる。このような背景もあって、近代芸術運動は自らの論理をはっきりと構築し、主張するようになった。そして、その主張は、同時代における政治的、社会的変化への反応でもあったのだ。例えば、未来派宣言によって結成されたイタリアの未来派は、著しい産業化を目の前にして、機械文明の力強い感覚を表現している。
 しかし、時代の高速度化は、日常の瞬間を切り取ることも困難とするようになった。また、近代芸術運動自体、その持ち得る非常に豊かな創造性によって、かえって美的様式の変容を早めていったのである。より頻度を増してきた断片化によってはかなさが強調される中でも、モダニズムは永遠性を確保すべく、様々な神話を打ち立てていった。そして、移り変わる神話の先には必ず真理があると信じ、神話を国家的Nationalから国際的Internationalへ、国際的Internationalから普遍的Universalへと移行していった。しかし、普遍的へと至る過程を通して、モダニズム的美学は法人権力などの体制イデオロギーに吸収されることとなる。結局は、大衆より離れた、支配的エリートの独占領域となってしまい、これに反抗する反モダニズム運動が展開されるきっかけとなってしまったのである。新しきをもって古きものへの対抗であったはずのモダニティは、自らが普遍的な権力へと変貌することによって、逆に対抗される存在へと成り下がってしまった。この頃に、モダニティはジキル博士からハイド氏へと、不易を追い求める姿から、易を受容してしまう姿へと変容していった。

参考文献:

デヴィット・ハーヴェイ 『ポストモダニティの条件』
『現代思想芸術事典』 青土者 2002
『現象学事典』 弘文社 1994
柏木博 『「しきり」の文化論』 講談社現代新書 2004

参考ウェブサイト:

Wikipedia http://ja.wikipedia.org/


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