2003年度前期論文

ジャポニズム ―日本文化の受容とそれをめぐる諸事象

1.序にかえて―SA体験記

 まず始めに、私が「ジャポニズム」といったテーマを今回選んだ理由として、半年間のドイツ滞在が大きく影響していることは否めない。よって、序文にかえて、私が「ジャポニズム」という運動に関心を持ち、個人発表のテーマに選んだ動機を、SAの体験を通してまず述べようと思う。
 ドイツ滞在中のある時、私は週末の休みを利用し、旅行へと出かけた。この際、この旅行を「バウハウスをめぐる旅」といったテーマにしようと心のうちではそう決めていた。バウハウスとの出合い自体、そう古いことではない。SA出発前に受講していた森村先生の現代文化の授業時に、その様なものがあることを始めて知り得たのであった。それまでドイツの建築物といえば、サンスーシ宮殿やケルン大聖堂くらいしか認識がなかった。建築史・デザイン史において、これほど重要な建築がドイツに存在することを知った時、目から鱗が落ちるような感覚であったのである。そこで、SA期間中にバウハウスを訪ねようと、密かに決心していたのであった。その願望を満たすべく、週末休暇の短い期間ではあったが、出発することにしたのである。
 まずは、ベルリンにおいてバウハウス展示館Bauhaus-Archiv-Museum für Gestaltungを訪れた。よく知られている通り、バウハウスは1919年ワイマールにて設立し、その後デッサウへ移転、最後はここベルリンにて1933年閉鎖されている。バウハウスが活動した最期の地であるここベルリンのバウハウス展示館には、椅子や家具といったものが中心に展示されていた。その他に目に付いた展示品がポスターである。そのポスターを眺めていると、どうも見慣れた文字のポスターがあることに気付いた。まさかバウハウス展示館で日本語に目を触れるとは思いもしなかった。それは、日本にてバウハウスの展覧会が開催されたときのポスターであった。私の中では全くバウハウスと日本がリンクしてなかったこともあり、新鮮な感覚でもってそのポスターを見て取ることができた。
 翌日、バウハウスが最盛期を迎えたデッサウへと向かう。デッサウは旧東ドイツの小都市であり、また訪れた日が日曜日だったことも手伝い、人通りの全くない、閑静な家並みの、人のほとんど通らない通りに面してデッサウのバウハウス校舎は建っていた。この校舎からは、今まで見てきた名所や観光スポットとなっているようなところに建っている建造物とは違い、あまりに普通な、もしくはある種懐かしい感覚を持つこととなる。世界遺産にも登録されている建造物に対して、あまりに恐れ多い感想かもしれない。しかし、それはやはり私が小中高と通っていた校舎と何ら変わりのない矩形の校舎なのであった。なぜ、私がこの様な感想を持ちえたのか。バウハウスにより提案された矩形のデザインが、世界的に建築デザインのベースとして浸透しているからではないかと考えたとき、改めてバウハウスのその偉大な業績に感銘するのであった。
 別の機会、現地で受講していた授業にて『Das imaginäre Japan in der Kunst : "Japanbilder" vom Jugendstil bis zum Bauhaus(芸術上の幻想日本:ユーゲントスティルからバウハウスへと至る"日本表象")』といった題の本に遭遇する。内容はさておき、題名を見て私は一つの接続点を見出したような気がした。それはつまり近代西欧におけるジャポニズムと呼ばれた日本趣味は一過性の現象ではなく、現代建築デザインの先駆け的存在であるバウハウスへもその影響を与えていたということであった。点として存在していた事象が、線によりつなぎ合わされた瞬間であるのだ。
 ある文化が他の文化に影響を与え、その文化が変容してゆくことは、太古の昔より何度となく行われてきたことではあった。しかし、そのときに見えてくるものは表面的な部分に限られてきた。今回、産業革命によって生まれた大量生産による均一なものに世界が統一化してゆく中で、文化といったものがどのように主張し、そしてどのような昇華がなされていったのかを、モダンを構成する諸要素を眺めながら論じようと思う。

2.異国趣味としてのジャポニズム

 ジャポニズムとは19世紀中ごろに、西欧美術に与えた日本美術の影響のことを指す。後の印象派に見るように、ルネサンス以降の芸術価値観から脱却することの手助けとなったのは今や確かな事実とされている。それ以前、西欧の芸術家がその日本美術の技法に注目するまでは、東洋の珍しい物品、エキゾティックな物への関心に留まっていた。異国趣味としての日本美術の受容はジャポネズリーと呼ばれていた。しかし、今日ジャポニズムの定義の拡大によって、異国趣味といった部類に関してもジャポニズムと呼ばれるようになり、ジャポネズリーの用語は次第に使われなくなって来ている。
 異国趣味としての受容は、ジャポニズムが芸術運動となる以前から、存在していた。例えば、サンスーシ宮殿やシャルロッテンブルク宮殿などの宮殿には、中国や日本の陶磁器を飾り立てている部屋が存在している。また、かの有名なマイセン磁器も、中国や日本の白磁器からアイデアを得て制作されていることも、よく知られていることである。以上のような例示は、日本の開国以前からも長崎における交易により、日本的な物品が少なからず海外へと輸出されていたことに起因する。しかし、ジャポニズムの主役たる浮世絵版画が大量にヨーロッパに出回るのは、1858年の日本開国を待つこととなる。
 このときの西欧側の事情として、早くは中国趣味、そして日本趣味といった異国趣味がもてはやされるようになったのは、当時の西欧列強による植民地政策が影響していることは否めない。弱者が強者に支配される時、大概その文化も強者のものへ吸収されてしまうのが常であるが、この時特に芸術・文化といった分野では逆流現象が起こることがある。紀元前には、かのアレクサンドロス大王の東方遠征によって、アジア圏にギリシア文化が持ち込まれたが、ギリシアにも東方文化が流れ込んできた。この一連の流れにより、当時の世界はヘレニズムを形成してゆくことになるのであった。このような現象は19世紀の植民地支配にも当てはめることができる。それは、つまりエドワード・サイードの『オリエンタリズム』からも察することのできる、西欧文明の揺らぎない地位の確信に基づくものであり、対象となった文化圏の全てを認めているわけではなかった。実際、開国初期の日本に外交官として滞在した『大君の都』の著者ラザフォード・オールコックは、「人物画や動物画では、私は墨でえがいた習作を多少所有しているが、全く活き活きとしており、実写的であって、かくもあざやかに示されているたしかなタッチや軽快な筆の動きは、われわれの最大の画家でさえうらやむほどだ」と、日本画に向けて絶賛の意を表しているが、一方で「ヴァンダル族やゴート族は、女性化したビザンチン帝国の宮廷が戦場に並べることのできるいかなる軍勢をもじゅうりんし、なぎ倒すことができたが、それと同じくわれわれは中国や日本の大軍を打ち破ることができる。もっとも日本人みずからは尚武の国民たることを自負してはいるが。しかしそうしたところで結果は同じことだ。彼らの弱い体や武器に対する無知に打ち勝ったところで、尊敬が得られるわけではないし、われわれの方がすぐれていることをかれらの精神が認めるわけでもない」と軍事的圧力とも受け取れかねない表現も残しているのである。
 「オリエンタリズム」としての異国趣味は、西欧の政治的、文化的優位の証明するものでしかなかった。よって、西欧による文化的価値の「きめつけ」が行われるようになる。しかし、その一方で被支配文化への関心を利用し、被支配者によるナショナリズムの高揚へと結びつくこともあった。日本の場合、たぐいまれな西欧文明の輸入による「西欧化」により、植民地化の危機を脱し、逆に西欧列強をもおびやかす存在へとなっていった。その時、西欧諸国における異国趣味としてのジャポニズムは関心が失われ、陰りを見せてゆくこととなる。

3.自然主義とジャポニズム

 異国趣味の段階では、西欧美術に影響を与えることは、ほとんどなかったであろう。ジャポニズムが後の西欧美術界に影響を与えるようになるのは、当時の自然主義による運動が大きく関わっている。
 産業革命以降、都市化してゆく社会状況において、自然はもはや中世以来の恐怖の対象とは成りえなくなってきた。かえって環境の悪化などによって、自然は都市に住む人々にとって眺望の眼差しを向けられる対象と変化してきたのである。日本的自然観は、そのような社会状況にある西欧において迎え入れられたと言って良いのである。
 ヨーロッパ言語における「自然Nature, Natur」とは、人間世界に外在する山河や動植物のことを指し、人工による都市などとは明確に対立する概念であった。その反面、日本においてはこのような概念は存在していなかった。この違いは、特に風景画において表れてくることになる。日本画の場合、山河や木々のあいだに描かれている人は、その存在を強く主張することなく、一つのオブジェとして自然の中に溶け込んでいる。西欧の絵画では、風景画の中に人がいるとき、キリスト教的ヒエラルキーにおいて自然は最も低い価値にあるのも影響し、風景画であろうと人がその画面の中心となって存在していた。西欧において、人が木々や石と同じように自然の一部として描かれるようになるのは、19世紀になってからのことである。
 ヨーロッパにて、たいへんな人気をはくす葛飾北斎の「富嶽三十六景」や歌川広重の「東海道五十三次」などに描かれる風景は、ヨーロッパの自然主義の高揚と共に認められてきたといってもよい。そして、このように浮世絵から色彩感覚であったり、構図であったりにヒントを得て、自らの美術へと昇華してゆく画家が登場してくるのである。

4.印象派とジャポニズム

 ルネサンス以来の人文主義にのっとった写実的、肉厚的な画法からの脱却、風景に対するさらなる感覚の受容を目指そうという運動が、ドガやマネによって起こされてくる。この運動は当時のヨーロッパ、特に印象派の活動の中心となるパリにおいて流行していたジャポニズムと密接な関係を持つこととなる。
 印象派の名の由来と見なされる作品「印象・日の出」を描いた画家モネもまた、日本の美術品や浮世絵版画に深い関心をもっていた一人であるが、日本的な素材を画中に取り入れているようなことは、あまり行わなかった。その中にあって、パリジャンヌに着物を着せて描いた「ラ・ジャポネーズ」は、特殊な例として取り上げることができるだろう。しかし、この「ラ・ジャポネーズ」は描いた本人も認めているとおり、写実的に描かれた古典的なものである。「ラ・ジャポネーズ」から認められるものとは、武士と思われる刺繍の入った着物(=東洋)と、それを着ている近代のパリジャンヌ(=西洋)のギャップによる、日常とは異なる世界を作り出し、そこからの新鮮味を引き出すことにあった。つまり、「ラ・ジャポネーズ」に見られる日本的なものの受容とは、異国趣味としてのジャポニズム、ジャポネズリーによる受容であったと言えるだろう。浮世絵を熱心に模写していた初期のゴッホもまた、このようなジャポニズムの抽象化前ともいえる、エキゾティックな効果をねらった部類に入ってくるであろう。
 マネの描いた「笛を吹く少年」は、当時の芸術活動の場であったサロンにてたいへんな物議をかもし出した。それは、今までの人文主義による肉厚な人物像ではなく、あまりに平面的な人物像がそこにあったからである。少年の羽織るジャケットはほぼ黒一色にひとしい。今までにないフラットな塗り方は、「トランプのジャックのように薄っぺらだ」という非難と共に、当時のサロンでは受け入れられることはなかった。マネがサロン展に落選したことは、のちに印象派を結成する契機となって行く。印象派以前は、人物の肉厚感、空間の奥行きを平面であるカンバスにいかに描き出すかが問題とされてきた。しかし、遠近法による三次元的形態の表現は、結局は欺まんであった。そのような懐疑の先駆となったのが、マネ以下印象派の画家達である。
 日本には、山水画から始まる高遠法等といった独自の遠近感を表す方法があった。それは、日本の自然観とも連なる調和を表現するものであったが、西欧絵画における遠近感とは異なり、奥行きを表現しようという試みではなかった。のちの浮世絵に至っては、山水画と比べても奥行き感や、絵の中における人の主張が強くはなっているが、高遠法等による平面世界の調和は脈絡を存在していた。平面世界の立体化に対する懐疑から、自然主義にも置き換えることもできる調和の平面性を、マネの「笛を吹く少年」からうかがい知ることができるのであった。
 その他の印象派の画家によっても、日本画は様々な引用のされ方によって、各個人の画家の特徴をなしてゆくのであった。ドガは主にバレエを題材にした作品を多く残しているが、浮世絵のものの配置の仕方より、主題を絵の中心に置かない、あえてバランスを崩すことによって、独特かつ動的な構図法を編み出した。また、ロートレックのポスターからは、日本画の特徴でもある抑揚のある線画、浮世絵版画による色彩の平面感といったものをうかがい知ることができる。
 このような事からも、当時のヨーロッパ、特にパリにおけるジャポニズムの流行は、大変なものであったことがうかがい知れる。やはり、日本画が西欧美術へ昇華される過程においては、異国趣味としてから始まる興味、関心を抜きには考えられないのである。ある種の熱狂に対し、芸術家もそれに振り向かざるをえない。鎖国当時の日本とも唯一交易のあったオランダに生まれ育ったゴッホも、日本美術と本格的に接するのはやはりパリに赴いてからの話であった。

5.ウィーンにおけるジャポニズム

 以上、印象派とジャポニズムの関わりとして、特に19世紀パリが大きな存在であったことは述べてきた。しかし、ジャポニズムといった運動はヨーロッパ全域に広まりを見せており、パリ一地域に限定された現象ではないことは、すでに周知の事実である。そこで、次はパリを離れ、ウィーンにおける事例を見て行きたい。
 ウィーンの状況は、美術に対する問題意識が先鋭化していたパリとはまったく異なる状況にあった。アカデミズムと呼ばれた歴史的な様式にとらわれた表現形式が一般的であり、自然主義や印象派といった、革命的な運動はほとんど存在していなかった。そんな中、ウィーンにおける日本美術への関心は、1873年のウィーン万国博覧会が始まりといってもよいだろう。1862年のロンドン万博や1867年のパリ万博と比べても、決して遅くはないのだが、日本美術への関心が近代芸術運動と結びつくことはなかった。パリやロンドンとは別の状況を歩んでいるウィーンにおいて、ジャポニズムへの関心もまた他の地域とは異なっていた。パリやロンドンなどのような、芸術における先進地域では浮世絵やうちわといったものがもてはやされていたが、ウィーンでは陶磁器などの工芸品がコレクションの大半を占めていた。
 陶磁器などの工芸品から、最も影響を受けていた一派として、ナンシー派を挙げることができる。ナンシー派とは、フランスの都市ナンシーにて展開したアール・ヌーヴォーのひとつである。彼らは、ロココ様式の伝統と日本の美的様式を通して、独自の魅惑的な装飾様式を生み出している。日本美術品のほとんどを陶磁器のコレクションとしているウィーンおいても、ジャポニズムはやはり装飾をテーマとしてきた。
 1897年、ウィーン分離派が結成された。過去様式から<分離>し、新たな時代を切り開く芸術を創造することを目標に結成したウィーン分離派は、画家彫刻家の他にも建築家が加わっていた。そんな分離派の建築装飾に対するモットーは、「必要様式」以上にきわめて上質だが、「必要」から遊離した装飾であった。このようなモットーからは、初代会長を務めたグスタフ・クリムトの存在をうかがい知ることができる。
 クリムトの絵画の特徴としては、鮮やかな色彩や平面性を挙げることができるが、もっとも独自性を発揮した部分は、その繰り返される文様である。このクリムトの文様からはエジプト、ギリシア、またはラヴェンナのモザイクが影響しているという指摘もある。確かに、そのようなモチーフを絵の中に取り込んでいる時もあるが、それが全てではない。それよりも多く画中に登場する文様は、唐草文様であったり、鱗文様であったり、家紋をほうふつとさせる角紋であったするのだ。文様一つをとっても、日本では季節といった記号が内在するのだが、クリムトつまり西欧人においてそのような記号を感じ取れることはない。それは一種の分断であり、同じ文様を使用していても、その意味はことなってくるということであった。それは事物が文化の横断を通して抽象化し、中性化してゆくことの証でもありそうだ。

6.バウハウスにおける日本の受容

 アール・ヌーヴォーに見られる極めて装飾性の高いデザインは、ウィーン分離派、ウィーン工房と通して行くうちに必要性から遊離した装飾となって行った。そして、建築家アドルフ・ロースによって装飾は罪悪であるとさえ断罪されてしまうのであった。また、新たな建築素材としての鉄とコンクリートの登場は、新たな建築への可能性を見出すが、産業の発達と共に、機能主義に基づく直線による構成が社会要請へとなってきた。
 1919年、『諸芸術の統合』を呼びかけるウォルター・グロピウスによりバウハウスが設立された。以後、1933年ナチスの台頭により閉鎖を余儀なくされるまで、ワイマール、デッサウ、ベルリンと場所を移しながらも、その「建築」を最終目標に掲げた活動を行ってゆくのである。そんなバウハウスが開校した翌年、1920年に工房の生産活動として重要な建築を設計することとなる。ベルリンに建てられたゾマーフェルト邸Haus Sommerfeldは、ヨーロッパではめずらしい木材を用いて建設された。その容姿は、まさに正倉院を思い起こされるものとなっている。また、グロピウスが設計したデッサウのバウハウス校舎は、38×55センチメートルの寸法に区切られた窓の格子から、障子戸の影響を見て取ることができる。
 構成美を追求するうえで、採寸という作業は重要になる。話しはそれるが、軽く触れておこうと思う。かのル・コルビュジエが建築を人間の為の空間とするために考え出したものとしてモデュロールという比率が存在する。アインシュタインによって「比例に関する言語で、悪を複雑にし、善を簡単ならしめる」と評されたその尺度は、大まかに「人体の寸法」と1:1.618の「黄金比」、そして「フィボナッチ係数」の3つから成立している。コルビュジエは平均的な身長として183センチメートルを「人体の寸法」の基準として、足先また指先までの長さを「黄金比」「フィボナッチ係数」を用いて計測する。実際に、このモデュロールは、建築設計にも用いられた。マルセイユの集合住宅、ユニテ・ダビタシオン、また最小単位の住まいとされるカップ・マルタンの小屋も身長183センチメートルの人間が片腕を伸ばした数字を基準に建てられたのだ。建築材料の経済的効率の面からも、モデュロールを基準にした規格品が一時期生み出されるほどであった。
 バウハウスにおける日本建築の影響、また山脇夫婦のバウハウス留学によるミースやグロピウスとの親交からも、バウハウスにおける日本の影響も少なからず存在したことが伺うことができた。では、西欧における日本建築の興味はどのように形成されていったのだろうか。グロピウスが日本を訪れるのは1954年のことであるが、最も早く日本を訪れた建築家としてブルーノ・タウトを挙げることができる。彼は1933年、亡命という形をとりながらも来日をはたす。そして、桂離宮の"発見者"として西欧に限らず日本国内に対しても、その名声を勝ち得ることとなる。最後に、タウト周辺と桂離宮、モンドリアンにまつわる事情を挙げることにする。

7.桂離宮をめぐる諸問題

 私がまず、個人発表のテーマとして語りたかったもの、それは最後に述べた桂離宮とモンドリアンの奇妙な類似性であった。このめぐり合わせに出会ったとき、私の中ではたいへんな衝撃であった。ここから世界的な構成による共通性が発見されるような、そのような心情に駆られたのである。しかし、実際の事情は若干異なったようだ。それは、日本にもモダニズムが輸入された時に起こった、日本の中のモダニズム的なものへの評価という過程であった。
 タウトは桂離宮の"発見者"として称えられることとなるが、滞日中の『日記』の中に「私は桂離宮の"発見者"だと自負してよさそうだ」と述べている。これはつまり自らが桂離宮を評価した第一人者としての優越感とともに、「"発見者"となることを許されているようだ」といったニュアンスを嗅ぎ取ることができ、ブルーノ・タウトが桂離宮を"発見する"というのは、すでに日本側から作られていたシナリオであったのである。
 このシナリオを用意したのは、ヨーロッパにて近代建築デザインを学んできた建築家グループである。当時は帝冠様式と呼ばれるような、和洋折衷様式が国家様式として罷り通っていた。この折衷様式は、重厚な石作り建築に日本的な屋根をのせるといったような雑ぜあいといった作業となる。このような表面的な西欧モダンの取り入れに反抗し、もっと建築の根源的な折衷、共通性を見出そうとしたのが、このグループである。彼らは、構成上の特性から西洋的なものと日本的なものが似ている、もしくは全く同じであること証明する機会を待っていた。その機会は、タウト来日によって迎えられたのである。
 桂離宮がタウトに"発見"された以降、宮内庁により秘託されていた桂離宮は構成によって解体されてゆく。例えば、写真家石元泰博により撮られた桂離宮は、線と面といったものに関心が集まっており、限りなく抽象化されたものであった。このような抽象化を通してみた桂離宮の画は、モンドリアンの純粋幾何形体の絵画と奇妙に類似性を見せてきたのであった。

参考文献:

馬渕明子 『ジャポニスム−幻想の日本』 ブリュッケ 1997
磯崎新 『建築における「日本的なもの」』 新潮社 2003
矢萩喜従郎 『平面 空間 身体』 誠文堂新光社 2002
阿部公正=監修 『世界デザイン史』 美術出版社 2002
高階秀爾=監修 『西洋美術史』 美術出版社 2001
Claudia Delank
『Das imaginäre Japan in der Kunst : "Japanbilder" vom Jugendstil bis zum Bauhaus』 indicium 1996

参考ウェブサイト:

Art at Dorian http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/
自由研究セミナー http://www.hc.keio.ac.jp/~skazumi/studenten/bauhausemi.htm

(2003/11/14 更新)

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