2003年度後期論文

グローバリゼーションと表象日本

1.はじめに

 1991年にソ連が解体してから、資本主義対社会主義という第二次大戦以降の世界を形成していた構造は崩壊し、世界はアメリカを中心に据えた単一なものとなって行くはずであった。しかし、アメリカ自身が唯一であることを避けるかのように次の対立軸を見つけ出す。1996年1月、アメリカニューヨーク・タイムズの紙面に以下のような見出しを付けた記事が掲載された。
 「赤い脅威は去った。しかしイスラムがいる。」
 このように、近代的に二項対立を見つけ出すためのような行動は、メディアの「不安」を煽るような増幅作用ともあいまって、私達の知りえるアフガニスタンやイラクでのような事態が起こっているのである。
 このような、対立してゆく世界を描いた論文に、サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』が挙げることができる。実際に、『文明の衝突』の中では、西欧側、イスラム側双方の言論を引き合いに出し、将来に西欧社会とイスラム社会による対決が起こりえるだろうことを指示していた。この指摘は、今の情勢を見る限りだと適切なものであったと言うことができるだろう。しかし、なぜこのような二項を求めるような運動が起こってしまうのだろうか。そこで姜尚中の『オリエンタリズムの彼方へ−近代文化批判』の冒頭を見ることにする。
 『オリエンタリズムの彼方へ−近代文化批判』の冒頭での指摘では、ナショナルな文化の本質主義や排他性によって、自文化とは隔絶される<他者>という既定が必要となってくる。逆に、<他者>を既定することによって、自らの文化を明確に表すこともできるのである。文化を明確に表すことが必要となるのも、自分がどこに所属しているのか、自分は誰なのかといったアイデンティティーの帰属する場所を、明確に示さなければならないからなのである。文化の中で既定されえないものは、つまり<他者>として理解されえないもの、奇異なものとして受け止められる。文化は<他者>によって侵食されない場でもあるのだ。1989年2月に『ウォール・ストリート・ジャーナル』に掲載されたルイスのコラムについて、エドワード・サイードは『文化と帝国主義』の中でふれている。その内容は以下のように、『オリエンタリズムの彼方へ−近代文化批判』の中で紹介されている。

 スタンフォード大学で非ヨーロッパ系の人々や女性たちによるテクストをより多く採用するためにカリキュラムの変更に賛成した教授や学生に対して、ルイスは、そんなことをすれば西洋文化が失われ、それ以外のものが西洋文化にとってかわることになると警告を発しているのだ。つまり、大学におけるリーディング・リストの変更は、西洋の文化の消滅と同じであり、その結果、西洋ではとっく廃絶されたはずの奴隷制が復活し、多重婚や未成年者の婚姻がはびこることになるというわけである。そして驚くべきことに、ルイスは、欧米に固有の「違う文化に対する好奇心」がなくなってしまうと説いているのだ。

 このような指摘は、『オリエンタリズム』において、東方への関心は、揺らぎのない西欧中心主義に則った思考の上に成り立っていたと述べているエドワード・サイードらしい指摘である。西欧の文化は、まず確立されたもの、最も先んじたものとして君臨してなければならい。他の文化は西欧文化に追従するものであり、対等な立場、まして追い越すことはありえない。つまりこれは、西欧におけるエスノセントリズムである。
 しかし、上で紹介した抜粋は変えがたい事実をも伝えている。アメリカの大学においても、リーディング・リストの改編が行われる程に、非ヨーロッパ系の学生が目立ってきたということだ。これは、もっとも端的に表れたグローバリゼーションの一例である。世界がグローバル化するに至った要因としては、運輸・交通機関の近代以降の劇的な発展があったことは言うまでにない。運輸・交通機関の発展によって、ヒトとモノは国境を越え、自在に移動できるようになった。それに伴い、ヒト・モノの移動によって利益を産み出す企業活動、つまり資本主義自体がグローバル化したのだ。地球規模での移動は、様々なアイデンティティーの帰属先をもった人々を、同じ場所に集うこととなる。結果、その場所の独自の文化、「土着」の文化が薄まってくるはずであった。
 グローバリゼーションは、確かに企業活動、つまり資本主義活動の上では、マクドナルドが世界中のあらゆる所に展開し、メーカー名が世界的なブランドとなりえている諸所を見る限りだと達成している。しかし、グローバリゼーションが各々に存在する文化を単一のものとし、世界中が全て共通のもので動いているのではない。逆に、他の文化と接することが増えたことにより、よりその文化の独自性を打ち出してきている。その最たる例が、ツーリズムであろう。ツーリズムもまた、旅行代理店、航空会社などによる資本主義活動の一環である。しかし、旅行者に提案する企画、パッケージツアーはその場所のいろ、つまり文化的独自性がないと成立しない。どの場所へ行っても同じであれば、別に出かける必要もないので、ツーリズムは成立しないものとなる。
 よって、ここで今回の論文としての命題が見えてきた。グローバリゼーションとは世界を全て等しくする運動とした場合、近年以上に各文化の独自性が主張されている事態は、どのように証明されるのであろうか。今回は、特に「日本」を扱うことによって、文化が主張する瞬間を論じてみようと思う。

2.グローバリゼーションと日本文化論

 まず、グローバル化の進行する中にあって日本の文化が注目を集め、「日本文化論」が成立してきた背景には、モダンの終焉とポストモダンの到来という世界の流れが存在した。モダンからポストモダンへと価値観が変容してゆく中で、欧米中心主義が揺らぎ、そこへ「戦後」意識の終焉を向かえ高度成長へと向かう日本の姿があった。しかし、ここで注意しておかなければならないことは、日本の「戦後」意識の終焉は、決してモダンの終焉ではなかったことである。かえって、明治維新に次ぐ飛躍としての受け止められ方により、近代化への復帰としての位置を得ているのである。つまりは保守化への反動であった。この保守への反動は、日本における「日本的」なものへのねつ造に見ることができる。この戦後、「日本的」なものの成立と日本におけるサブカルチャーの成り立ちは時を同じくするところがある。この日本のサブカルチャーの成立、つまりオタク文化の成り立ちについては、のちに触れることにする。
 ここで注目すべきは、ポストモダンの中に日本というキーワードを見出し、それについて語ったアレクサンドル・コジェーヴである。彼は『ヘーゲル読解入門』の中において、ヘーゲルが近代社会の誕生する時に唱えた「歴史の終わり」が終わった後、人々には二つの生存様式しか残っていないと述べている。ひとつはアメリカ的生活様式の追求、「動物への回帰」であり、もうひとつは日本的スノビズムであった。
 アメリカ的生活様式の追求による「動物への回帰」とは、人々は欲求を満たす商品に囲まれ、メディアが要求する流行のままに消費することである。ヘーゲル哲学における「人間」とは、人間が人間的であるために、与えられた環境を否定する行動がなければならない。言うなれば、自然との闘争がなければ人間は人間として既定されないのである。自然にあるがままに、または調和して生きてゆくことは「人間」ではなく「動物」でしかない。そこで流行に流されるままの戦後アメリカの消費者の姿は「動物」でしかないのだ。
 他方でスノビズムとは、与えられた環境を否定する実質的理由がないにも関わらず、「形式化された価値に基づいて」それを否定する行動様式である。否定の契機が何もないにもかかわらず、あえて否定する。形式的な対立を作り、それを愛でるのがスノビズムである。コジェーヴによる究極のスノビズムは、切腹である。死ぬ理由がないのも関わらず、形式的な価値観に基づいて自殺が行われる切腹は、まさに究極の否定であるだろう。否定が行われる時点で、決して動物的ではない。しかし、その対立が何の意味も成さない時点で歴史を動かす契機にはならないのである。
 この「動物への回帰」と日本的スノビズムは、一見異なるものであるようでいて、同一の根源を抱いている。それはつまり、モダン以来の大きなものへと統合しようとする力が失われ、統合への意志が失われていることである。意志が失われた今、人間はただ「人間的なものを何ももたぬ生ける存在者」である。これが、ポストモダンにおける人間像であり、コジェーヴによって指摘される「日本化される」ポストモダンなのである。
 以上が、グローバリゼーションの中で展開される「日本文化論」の核心を構成する言説である。この時、日本の文化と対峙して想定される<他者>は、コジェーヴがポストモダンの生存様式のひとつとしても取り上げたアメリカである。戦後は特に、アメリカが欧米中心主義の核をなしていたが、ポストアメリカの動向は、60年代から80年代前半にかけて顕著に表れ始める。これはベトナム戦争と時を一緒にしており、それにともなって行われた反戦活動、小野リサやジョン・レノンによるラヴ&ピースもまた、ポストアメリカを表象する一例と捉えることができるだろう。しかし、この章のはじめに述べたように、日本自体はグローバル化のポストモダンの中にあって、近代への復帰を目指していた。日本の世界化あるいは世界の日本化は、日本の近代への標榜とあいまって、複雑な様相を呈することとなるのである。次章からは、実際に近代から見て取ることのできる日本の世界化、世界の日本化の具体的な例を紹介して行くことにする。

3.日本の世界化 〜桂離宮をめぐって

 1933年、日本に亡命したブルーノ・タウトは、桂離宮を「発見」する。この「発見」は世界に、そして日本へも大きな衝撃を与えた。ブルーノ・タウトの桂離宮「発見」以降、著名な人物が日本滞在時には、必ずと言って良いほど桂離宮が案内されるようになる。しかし、ブルーノ・タウトの「発見」以前の桂離宮とは、人々から忘れられた存在であった。それがなぜブルーノ・タウトの目に触れることになったのだろうか。それは、当時の日本建築を取り巻く環境の中で、日本の近代化を伝統の中に見出そうというナショナリスティックな活動がブルーノ・タウトを桂離宮へと導いているのである。
 1900年代に日本の建築様式としてまかり通っていたのは、帝冠様式と呼ばれるものであった。帝冠様式の代表的な建築としてあげることができるのは、1922年フランク・ロイド・ライトによって設計された帝国ホテルであろう。この帝国ホテルは、大谷石とよばれる凝灰石を多く用いられており、施工当初に襲った関東大震災にも耐えたことで有名である。また、フランク・ロイド・ライト自身も、たいへんな日本通として知られている。特に浮世絵に対しては深い感銘を受けたようで、はるばる京都にまで足を伸ばしては浮世絵を大量に買い集め、シカゴ美術館にて広重を中心とした展覧会を開いているほどである。このようなフランク・ロイド・ライトの行動を見てみても、彼がジャポニズムの受容者であることには違いない。だが、彼のジャポニズムは表象の部分に止まってしまい、抽象構成的な部分にまでは落ちて行かなかった。よって、帝国ホテルは西洋の建築と比べれば東洋的であるが、日本人の感覚からすれば全く日本的ではないのである。
 この帝冠様式は、異国趣味的であり、オリエンタリズムに見ることができる西欧中心主義の礎にしかならない。日本の伝統こそが、当時の世界に流布してきたモダン様式を表すものにならなければならない。そこで、ブルーノ・タウトに桂離宮を見せ、構成上の特性から近代と「日本的」の共通点を見出さることで、帝冠様式のような折衷主義を超えようとする。このような計画を立てたのは、上野伊三郎を中心とした「日本インターナショナル建築会」という名称の建築家グループであった。上野伊三郎自身はウィーン工作連盟で学んでいる。このブルーノ・タウトに「発見」させたことによって、桂離宮は近代様式の潮流の中にある<オーセンティック(ほんもの)>であると評される。逆に、日光東照宮が<キッチュ(いかもの)>と烙印されている背景には、当時の王政復古による尊王の社会的、政治的風潮があったことに起因している。
 第二次大戦後も、桂離宮を構成によって解体して行く作業は行われた。特にそれを顕著に表したのは、在米日本人の石元泰博である。彼の撮った桂離宮の姿は、極端なまでに線と面のみに解体されていた。その対象を単純な構成にまで解体するその手法は、まさにモダニズムの手法であり、石元泰博自身ニューバウハウスで学んだ方法論を忠実に表している。その結果、カメラのフレームに収められた桂離宮は、まるでデ・スティルや構成主義の平面作品のようになった。その結果、モンドリアンの平面分割法と桂離宮の線と面の構成が、全くもって似ていることが挙げられてきたのであった。
 以上のように、ブルーノ・タウト以来、桂離宮をめぐる運動は、「日本的なもの」がいかに世界的な流れと同じであるかの表現である。それは、日本をグローバリゼーションのグローヴの中に挿入してゆく作業であった。日本は、西欧における<他者>となってはいけない。西欧と同列のところへ、掲げる必要があった。その結果が、バウハウスやミースの建築に見られるような、直線と線によって構成される建築へと、日本建築を解釈し直すことだったのである。しかし、このような活動も、近代における絶対的な中心が存在していたからだと言うこともできる。事実、60年代以降、桂離宮にまつわる言論は弱まってきている。今後も1976年から1982年を通じてなされた桂離宮の解体修理作業よって得られた実証をもとに、様々な考証がなされるであろうが、それは構成とは異なった角度から行われることになるであろう。

4.世界の日本化 〜ジャポニズムの系譜

 美術におけるジャポニズムは、大きく3つの段階に分けることができる。まず、第一段階は、日本のものや日本の雰囲気をもったものを画中に取り入れる作品である。この段階は、ジャポニズム以前のジャポネズリーに見られるような、単なる異国趣味としての色合いが強い。第二段階は、日本美術、特に浮世絵の技法を取り入れていく作品のことを言う。この段階は、西洋絵画との作用の中で、徐々にジャポニズムの画家本人の技法として昇華されていく。第三段階は、日本の思想・宗教を取り入れた作品である。これはジャポニズムの中でも極めて稀な部類になるだろう。
 第一段階、第二段階、第三段階は、決して技能としての発展段階ではない。日本にそうとう精通していても、第一段階の絵画を描くこともあるし、あまり精通はしてなくても、第三段階へと飛んでしまうこともある。例えば、印象派の中心的な人物であるクロード・モネは、日本の美術品や浮世絵版画に深い造詣をもっていた人物であるが、日本的な素材を画中に取り入れているようなことは、あまり行わなかった。その中にあって、パリジャンヌに着物を着せて描いた『ラ・ジャポネーズ』は、特殊な例である。この絵は、明らかに第一段階に属する絵である。技法としても、ルネサンス以来の肉厚な描き方をしており、印象派独特の光の調子や絵の中心点をずらすような構成上の変更などは全く取り入れられていない。これは、ある種作為的である。つまりは、モネが『ラ・ジャポネーズ』の中で描きたかったのは、生地の立派な、武士の刺繍の施された着物なのではないか。それを西洋の女性に着せることによって、そのアンバランス感を楽しんでいるのである。
 このように、段階を横断するものも存在はするが、今回は特に第二段階に注目して行きたい。そこから、「日本的なもの」がどのように世界に対して浸透してゆくのかを、見てみることができるのである。
 では、実際に第二段階に挙げられる作品とは何であろうか。まずは、エデュアール・マネの『笛を吹く少年』を挙げることができよう。この作品は、当時の芸術活動の場であったサロンにて、たいへん物議をかもした作品である。絵の中には、題名の通り笛を吹いている少年が一人立っている。しかし、その絵は「トランプのジャックのように薄っぺら」であったのだ。特に、少年の羽織るジャケットはほぼ黒一色であった。当時は、まだルネサンス以降の人文主義に則った肉厚な人物像が主流であった。そんな中で、『笛を吹く少年』はたいへん奇異な作品だったのである。この『笛を吹く少年』には、浮世絵版画の影響を見て取ることができる。つまり、浮世絵版画の多色刷りをそのまま油絵にて実践して見せたといってもよいのだ。また、奥行きのなさは、遠近感の喪失へとつながる。全てのものが等距離に置かれることで、中心となる対象は曖昧となってしまうのである。
 また、もう一人、ジャポニズムとかかわりが深い画家を紹介する。エドガー・ドガは、主に日本画の構図法に影響を受けた画家である。彼の代表作といえる『ダンス教室』は、中心となるべきバレリーナが、画面に対して隅の方に追いやられている。これは絵のバランス自体を不安定なものにしている。しかし、この不安定感がバレリーナの動性、またその時の情緒をも表現してみせているのだ。
 この二人の画家から指示されることとは、中心が失われつつあることである。ルネサンス以降のヨーロッパ絵画の主体となってきた遠近法が、日本絵画が持つ自然観によって覆されてきているのである。これはモダン的な全ての帰結する中心からの脱却への兆候と見てもよいのではないだろうか。もちろん、この論は突飛もないことである。時代的には、ジャポニズムの画家、つまり印象派の画家が活躍したのは、近代の夜明けである19世紀のことである。近代の黎明期にあって、すでにその崩壊が予見されえるのであろうか。しかし、ポストモダンへの転換期に日本文化論が唱えられたこと、日本は「戦後」意識からの脱却により近代的な「帝国」への復帰を目指していたことを考えると、近代からの日本の関わりは、後のポストモダンにおけるキーワードとなる脱中心、フラット化の苗床として育て上げられてきたことになるのではないだろうか。

5.日本のサブカルチャーと「帝国」への野望

 第二章にて、戦後「日本的」なものの成立と日本におけるサブカルチャーの成り立ちは時を同じくするところがある、と述べた。それは、戦争による大きな断絶が日本に存在するのと深く関係がある。敗戦直後の日本は、社会、経済、政治そして思想においても全てリセットされた。そして、その後の復興と高度成長により、戦後は明治維新以来の大きな飛躍として捉えられるのである。この時、第二次大戦の記憶は一時的な逸脱として、また経験的なものではなく、ひとつの歴史的事実にしかならないのだ。よって、戦争の記憶を省いた、近代日本の成り立ちは、変革の余地のない、栄光となってしまうのである。そこで再び台頭してくるのは、帝国の経営への野望である。事実、戦後の政治家としてサンフランシスコ講和条約などの歴史的な転換点に携わった吉田茂は、講和条約にて成立したサンフランシスコ体制を「協調的帝国主義」の実践と結び付けて理解していたふしがある。
 しかし、世界は列強の植民地より解放されつつあった。近代の帝国的な植民地経営は、終焉を迎えていたのである。時代はポストコロニアルへと変化した。以前のような軍事的支配による植民地経営は、消滅したのであった。
 そこで、新たな帝国の携帯が誕生してくる。つまり、経済活動による世界への拡張である。日本は高度成長期以来、特に東南アジア方面への進出を計っていった。これは、グローバリゼーションという「帝国」の拡延作業と位置づけることもできる。しかし、全時代的な植民地支配を標榜する日本にあって、この東南アジアへの日本資本の投下は、いささか抑圧的であったようだ。実際、東南アジアの人々の反日感情は、戦争による侵略ではなく、むしろ戦後の日系企業の進出による搾取によるところが大きいという指摘もある。
 そのころ日本では一種独特な文化が花開こうとしていた。今日では、この文化も世界的な広まり、また芸術に引用されることにより、現代日本を表象するひとつとなっている。それは、オタクと呼ばれる人たちによって作り上げられた文化であった。
 オタクとは、もともと70年代に台頭した新たなサブカルチャーの担い手のことを指していた。しかし、オタクという言葉に「人間本来のコミュニケーションが苦手で、自分の世界に閉じこもりやすい」といった負のイメージが伴っているのは、88年から89年にかけて宮崎勤が起こした連続幼女誘拐殺人事件によって、オタクが世間一般に認知されてしまったからである。この結果、オタクに対する偏見や差別が生成されていったのは言うまでもない。逆にオタクたちは、その偏見や差別によって、過剰なまでにオタクであることを意識するようになる。そして、自らのオタクの囲い込みを行ったのである。つまり、オタクのことはオタクしか語れないといった所有排他主義である。
 90年代には『新世紀エヴァンゲリオン』のヒットもあって、オタク文化に対する社会的注目が集まり、多少なりとも世間一般の偏見の目は緩んできている。そして、オタク文化が世界へと浸透して行く中で、オタクの作り出すサブカルチャーは「日本的」であるという、ある種肯定的な言説が付け加えられるのであった。
 オタク文化が、日本の伝統的文化との系譜の中で語られることは多い。例えば、大塚英志の『物語消費論』のなかでは、80年代に急増した同人誌など二次創作の存在意義を、歌舞伎や人形浄瑠璃で用いられる「世界」や「趣向」という概念を用いて説明されていて、岡田斗司夫の『オタク学入門』では、メッセージよりも「趣向」を読み取るオタク作品は、江戸時代の「粋」と直結し、「オタクは日本文化の正統継承者である」と主張している。また、より内容に即して見てみても、スーパーフラットの提唱者でもある村上隆によって、アニメーター金田伊功の独特の画面構成は、狩野山雪や伊藤若冲らの「奇想」に連なり、90年代に造型師のボーメや谷明が先導したフィギュア造形の進化は、仏像彫刻の歴史を反復していると主張されている。もっと、単純に見てみても、アニメーションの中には必ず「日本的」なイメージを持ったキャラクター、ないし設定が加えられている。
 このようにして、オタク文化は、世界的な浸透の中にあっても、「日本的」であることを主張することを忘れない。その必要なまでに主張する理由は、オタク文化の源流が実はアメリカであることに起因しているからである。アニメーションにしろ、特撮にしろ、コンピュータ・ゲームにしろ、またそれら全てを支える雑誌文化にしても、戦後にアメリカから輸入されたサブカルチャーだった。この事実は、戦争による全ての断絶を彷彿とさせる。日本は、敗戦によって全てがリセットされたはずであった。しかし、戦後復興と高度成長によって再び得られた栄光は、戦争の存在自体を打ち消すことになり、明治維新以来の輝かしい成長の連続性の中で語られるようになったのである。そこで、断絶以降に新たに生まれた日本のサブカルチャーも、同様の連続性の中で語られる必要があった。だが、結局は擬似的なものにしかすぎず、それがかえってオタク文化に向けられる過剰な賞賛と過剰な敵意として表れてくるのである。そんな、擬似的ながらも純粋に「日本的」な文化であると主張したいオタク文化は、しばしば明治維新以前の江戸時代まで遡り、自らのアイデンティティーを見出そうとする。それは、上に挙げた大塚英志や岡田斗司夫、村上隆の例を見ても明らかであろう。
 今日では、過剰なまでに「日本的」を主張しなくても、日本独自の文化であるという理解が浸透してきた。そして、特に日本国内では、世界をリードしているものとしての幻想が蔓延している。そこで、台頭してくるのは日本のグローバリゼーションに則った文化的「帝国」への野望である。ジャポニズムは意図しないところからの発生であったかもしれないが、オタク文化の世界的侵延は、擬似的日本文化を用いた「帝国」への野望として図られるであろう。

6.スーパーフラット

 日本の「帝国」への野望はしかし、モダンの時代にあったヒエラルヒーの頂点へは決して届かないだろう。なぜなら、コジェーヴによる指摘がポストモダンを捉えた上で成されていたように、時代はポストモダンとなっているからである。ポストモダンでは、モダンの時代のような究極の事物が存在するわけではない。大量におかれた選択肢のひとつにすぎないのである。モダンの頃は、オリエンタリズムに見られるような、欧米を中心としたヒエラルヒーが確かに存在しただろう。だが、ポストモダンではそのヒエラルヒーが崩壊した。60年代からはじまるポストアメリカの動向も、ヒエラルヒーの頂点から崩壊に伴ってアメリカが下野したからである。そして、その隣には日本が存在した。こうして、アメリカと日本は<他者>として対峙することになる。ここで注意しなければならないのは、この時日本はアメリカ製の擬似文化を、自らのオリジナルへと昇華していたことだ。つまりは、「戦後」意識の終焉を迎えていたということである。
 モダンの終焉とポストモダンの到来は、全てのものを、全ての文化を等価へと変えた。それは、横一線に飛び出ているもののない、真っ平な状況である。マネの『笛を吹く少年』より、フラット化の暗示を受けることができた。そのフラット化という現象は、モダンの時代に養われ、ポストモダンにおいて花開いたのである。そして、フラットという現象を、イズムとして宣言した人物が村上隆であり、その宣言がスーパーフラットであったのだ。
 スーパーフラットは、同名の図集本『スーパーフラット』にて宣言された。ここに収められた村上自身のエッセイ『スーパーフラット日本文化論』で、江戸の絵画から現代のアニメーションへとつながる脈絡とした系譜について述べ、日本の芸術界への鼓舞と日本文化芸術の「前衛」としての活躍を提唱している。この論自体は、前章で述べた状況と同じであり、擬似日本文化を拠り所とした文化帝国拡張を目指すものである。しかし、このスーパーフラットは、様々な方面に流布し、思想や建築などの各分野において様々に解釈されている。これが、スーパーフラットが独りよがりにならないで、世間に認知されている理由であろう。もとより村上隆は、自身のオタクからインスパイアされたアートよりも、マネージメントや企画開発に卓越した才をもっている芸術家である。グローバリゼーションによって世界の横断への抵抗が外され、ポストモダンな社会による脱中心、等価に並んだ選択肢を見越してスーパーフラットを唱える先見の明は、まさに秀逸である。
 では、スーパーフラットとは、どのように解釈されるだろうか。スーパーフラットはただ真っ平というわけではない。ただ平なだけなら、アメリカの抽象表現主義のほうが平であるだろう。スーパーフラットの概念は、村上隆がそのアートにも取り入れている「オタク」を再び取り上げてみた方が、分かり易い。
 オタク文化におけるアニメーションは、キャラクターの配置や画面の構成といったものがまるでバラバラである。一般的な映画に見られるカメラアイやフレームといったものに対する考慮は弱い。そんな画面の中では、キャラクターはただ居るだけで、他のキャラクターとの相関も何もない。これは、東浩紀が『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』で述べているデータベース消費と関わりがある。
 データベース消費とは、「萌え要素」と呼ばれる要素を含んだキャラクター、またはその関連の商品を消費していく行動をさす。この時の消費行動は、決して作品自体の物語観や作者性といったところに興味を向けられることはなく、ただその作品に登場するキャラクターないし、そのキャラクターの一部に「萌え」る。よって、オタク文化のアニメーションは、そのアニメーションの作品性といった部分は無視される。キャラクターのみが個々にバラバラに置かれているのである。結果、画面には中心点がなくなり、複数の点が散りばめられているのである。それは、遠近法の時代、見る側の視線は一つであったのに対し、アニメーションでは複数の視線のやり場を与えられているのである。
 この複数の視線の配置は、村上隆の作品にも言える。例えば『ふしぎの森のDOB君』に掲載されている作品は、中心となる点が存在しない。逆に、変形した多様な目から向けられる混然とした複数の点がある。この脱中心的な面と等価に並ぶ複数の点は、何度も言ったポストモダンを特徴付けるものであり、スーパーフラットによって鮮明に打ち出されているのである。スーパーフラットのコンセンプトとは、ポストモダンの条件を、よりはっきりと指し示すことであるのだ。
 スーパーフラットの指し示すものは、もう一つある。それは、例に見たようなアニメーションを映し出す世界、つまり電脳世界をも指し示している。これは、村上隆が将来アニメーターになりたかったこととも関係するかもしれない。つまり、モニターを通して見る電脳世界、電子メディアの世界は、モニターの反対側に物理的な積み重なりがあるわけでもないので、真っ平である。しかし、電子データとしての積み重なりは、インターネットなどを考えてみても膨大に存在するのである。表象的に平な世界を構築する電子メディア、インターネットの世界は、フラットを超えたところにある、まさにスーパーフラットの世界と言うことができるであろう。

参考文献:

・ サミュエル・ハンチントン=著、鈴木主税=訳 『文明の衝突』 集英社 1998
・ 姜尚中 『オリエンタリズムの彼方へ−近代文化批判』 岩波書店 1996
・ 磯崎新 『建築における「日本的なもの」』 新潮社 2003
・ 児玉実英 『アメリカのジャポニズム』 中公新書 1995
・ 東浩紀 『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』 講談社現代新書 2001
・ 村上隆=編 『スーパーフラット』 マドラ出版 2000

参考ウェブサイト:

・ 存在論的、広告的、スーパーフラット的 http://www.hirokiazuma.com//texts/superflat.html

(2004/1/18 更新)

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