個人 研究発表レジュメ01 「キッチュと都築響一の間に」
 

●都築響一について●

1956年 東京生まれ。76年から86年までポパイ、ブルータス誌で現代美術、建築、デザイン、都市生活などの記事を担当する。89年から92年にかけて、1980年代の世界芸術の動向を包括的に網羅した全102巻の現代美術全集「アート・ランダム」を刊行。以来、現代美術、建築、写真、デザインなどの分野で執筆活動、書籍編集を続けている。日本各地の奇妙な新興名所を訪ね歩く「ROADSIDE JAPAN−珍日本紀行−」では、23回木村伊兵衛賞を受賞している。                    (TOKYO ATOM 1999年六月号より引用、抜粋)

<編集者、都築響一>

彼が担当した創刊期のポパイは、ヌードグラビア、SEX、車といった、それ以前の雑誌の鉄則を破って、初のメンズライフスタイルマガジンとなった。ポパイ創刊の三年後、ポパイを卒業してく年代を対象として創刊されるのがブルータスである。また、彼は、90年代半ばに「TOKYO ATOM」というフリーペーパの発行、編集、アートワークに携わっている。

<カメラマン、都築響一のリアリティー>

・「TOKYO STLYE」
 ポストモダンもワビサビも関係なく、単なる「和風」という商品名でもない、普通の東京人の暮らしを、イメージオブジャパンがはびこるなかに情報として投げ込むための「安くて居心地のいい部屋」のファイル。(同著より引用)

・「ROADSIDE JAPAN−珍日本紀行−」
 美しい風景でも、ワビサビの空間でもない、むしろ俗悪、軽薄と罵られてもやむをえないような、ときには地元の人間でさえ存在を忘れてしまいたいスポットを集めた、役に立たないガイドブック。(同著より引用)

・「賃貸宇宙」
「TOKYO STYLE」の第二弾

・「Internet Museum of Art」
IMA ( Internet Museum of Art) は、ウェブ上に建築される現代美術館で、彼はその運営に携わるかたわら、自らの作品も発表している。


●「キッチュ」●

「キッチュ」(kitsch 独逸語) 
・まがいもの 俗悪なもの・本来の使用目的から外れた使い方をされるもの(広辞苑より引用)

<「キッチュ」という言葉の始まり>

1860年頃 ミュンヘンで「キッチュ」という言葉が使われ始める
 「かき集める、寄せ集める」
 「古い家具を寄せ集めて新しい家具を作る」
cf 
キッチュの派生語 「フェアキッチン(verkitchen)」 
「ひそかに不良品や贋物をつかませる」
「だましてちがった物を売りつける」
  ドイツにおいて、まがいもの、不良品、贋物、模造品、粗悪品といった意味合いで使われ、次第に広範囲にわたって使われ始め、一般的な概念となった

<ビーダーマイアー様式>

「キッチュ」という言葉とドイツ(当時のプロイセン)を結ぶものの一つとして、「ビー ダーマイアー様式」が挙げられるであろう。

「ビーダーマイアー様式」(ビーダーマイアー:お人よしのマイアーさん、素直なマイアーさん) ウィーン会議(1815年)から三月革命(1848年)までの期間にブルジョアが好んだ生活様式であり、主に、ウィーンを中心に、宰相メッテルニヒの勢力圏内でみられる。壁、床、天井などの室内装飾や、家具類、建築構造、外装、さらにはそういった空間で聞かれた音楽までを指す。 メッテルニヒの反動的復古政治下で、多くの市民は政治に背を向け、自己充足的な生活に逃避していたという当時のウィーンの状況下、小規模な建築に相応するシャンデリアや絵画、そして産業革命にかけて発達した紡績技術によって量産可能になった、ストライプ模様の壁布、落ち着いた色調で統一される内装など、貴族趣味の優美さが市民の生活空間に見合った形で導入されている点が特徴である。また、そういった点が、「キッチュ」的であったとされる。

「キッチュ」という概念と、市民(ブルジョアジー)の美学は関係が深い。

<キッチュと「良い趣味」の相関関係>   

ピーター・ウォードは、「キッチュ・イン・シンク」のなかで、「良い趣味」を「キッチュ」と対比する語として用いている。
「キッチュ」は、「良い趣味」側の人々が「悪い趣味」を称する時に用いた言葉であった。
ヨーロッパでは、鑑定家たちを中心に、上層階級の人々によって、コーヒーハウス、ティールーム、客間、サロンなどの社交場を舞台として、「趣味の問題」、つまり審美的な問題が、論じ合われていた。しかし、産業革命がもたらした大量生産は、あらゆる社会階層を消費者に変え、「趣味の問題」をサロンに留めてはおかなかった。つまり、大衆文化が形成され始めるのだ。そして、審美家たちは、そういった大衆文化に問題意識を感じずに入られなかったのである。

ex 
1851年 アルバート皇子による大博覧会
1852年 ヘンリー・コールによる「恐怖の部屋」
その後、第一次世界大戦ごろの美術批評家が、大衆の嗜好の俗悪さを表するために、ウィーンで使われていた「キッチュ」という言葉を抽出する。
ex 
1925年 オーストリアの美術批評家、フリッツ・カルペンによる「キッチュ」

<キッチュの台頭>

大量生産の拡大、浸透は進み、カウンターカルチャーが盛り上がりをみせる60年代頃から、それまでの「キッチュ」的要素は、社会におけるその地位を上昇させる。  
cf 
ウォホール   

その後70年代から80年代には、商品が「キッチュ」として受け止められるように作られるようになる。
←ピーター・ウォード 「それは詐欺である!!」
彼にとってキッチュは、
「楽しさを履き違えているとしか思えないような邪魔な存在」
「最初魅力的に見えたとだろうか戸惑わせる」
「ほんとうの馬鹿馬鹿しさという感覚がそこに現れていなければならない」

補足
・ボードリヤールは、「消費社会の神話と構造」のなかで、キッチュを以下のように定義 し、さらに、キッチュの氾濫について以下のように述べている。
「キッチュはとくに擬似モノ、つまりシミュレーション、コピー、イミテーション、ステレオタイプとして、あるいは現実の意味作用の貧困、記号と寓意的指示とちぐはぐな共示作用の過剰、デティ−ル礼拝が飽和状態に達した段階などと定義できる」そして、「キッチュの内部構造(記号のわけのわからない過剰)と市場への現れ方(雑多なモノが増殖し、それらのモノが一揃いずつ積み上げられる)とは密着に結びついている。」と述べ、キッチュを文化の一範疇としている。また、そのようなキッチュが氾濫する背景には、「大衆文化」、消費社会の社会的現実、つまり流動的地位移動(その移動という運動は、大衆が上流階級の地位を記号として示してくれるモノを求める身振りでもあるs)があるとしている。

cf
「イデオロギーの終焉」

●最後に ―キッチュと都築響一と私―● 

同時代建築研究会著の「現代建築−ポストモダニズムを超えて−」のなかでは、「キ ッチュ」は、一つの態度、すなわち人が物に対してとる関係のあり方の一パターンでもあるとされ、さらに人々の存在の仕方、人間の精神や心理のあり方とされていた。つまり、「キッチュ」とは、「ビーダーマイアー様式」において見られたような、人々がモノ、商品(或いはそれらが有する記号性)によって自らの生活を充足させようとする欲望に端を発しているのだ。
「キッチュ」を人とモノにまつわる現象として観察すると、おのずと資本主義なるものが浮かんでくる。「ビーダーマイアー様式」と呼ばれたブルジョアジーの様式から、大量生産システムによる大衆社会への推移は、キッチュの担い手の変化、ないし拡大とともに、資本主義システムの様相の変化をも表している。そして、大衆とういう言葉抜きには、現代の「キッチュ」について語りえないのだ。 
 一方で、大衆社会は、ボードリヤールが記した「流動的地位移動の消費社会の現実」であるかもしれない。大量生産の裏返しが、大量消費であるからこそ、そのような事態は人々を押しなべて消費者にし、「イデオロギーの終焉」を迎えたのであろう。また、明確な階級対立構造が可視化されていない状態にも、資本主義の諸矛盾は依然として存在しているからこそ、Frederic Jamesonは「計画消費の官僚社会」や、「テクノクラシー的全体支配」、「商品こそ時代独自のイデオロギー」などといったフレーズを用いたのであろう。
 他方、私の記憶に深く残っている広告のキャッチコピーに、イタリアの洋服会社ベネトンの「YOU ARE WHAT YOU BUY」とパルコの「NO MORE IMAGE」があるのだが、私はこの二つの謳い文句から、タバコ会社の「吸いすぎに注意しましょう」や、金融会社の「借りすぎにご注意ください」を見たときと同じような、何ともいえない苦笑覚える。そしてさらには、前述したJamesonの指摘もひっくるめて、何ともいえない疲れを感じてやるせなくなるのだ。
ピーター・ウォードは、「広告や、メディアや階級意識によって駆り立てられた人々が、欲望をみたすことをごく気ままに求めなかったらキッチュは存在しなかった」と述べているが、つまり、私は以上のような文脈と同じ流れで、「キッチュ」なるものを見たときに、「生産のはけ口の形の一つ」の側面を見てしまった気がして、心のどこかで疲れるのだ。しかし、やはり堪らない魅力も感じるのも確かであり、それは「自らの生活を充足させようとする欲望」の力を感じるからである。そして、都築響一は、それが「キッチュ」的であるか、ないかという前に、人間の「自らの生活を充足させようとする欲望」を見つめて、すくいとっている人物なのである。
彼の作品の中に登場する居住空間、或いはオブジェにまつわる人々、つまりそれらの当事者たちはとかくに自由だ。都築自身は、「いさぎよい」と言っているのだが、例えば、サルによるみかん畑の被害に悩んだ末に、カニの看板を立ち並べた愛媛の田舎町の農協幹部たち、或いは、職にも住居にも縛られず自身の趣味に没頭する住人たちは自由だ。では、一体何からの自由か。その一つとして、イヴァン・イリイチが記した「シャドウワーク」或いはギー・ドゥヴォールの「非―生産」、「無活動」からの開放があるかもしれないが、とにかく、私はそういった「いさぎよさ」に心地良いものを感じるのである。

語句

・「大衆」 
1.多数の人。民衆。特に労働者・農民などの一般勤労階級。
2.属性や背景を異にする多数の人々からなる未組織の集合的存在。

・「大衆社会」
大量生産、大量消費、組織の官僚化、マスコミュニケーションの発達などによって生じた現代産業社会の様態。大衆の政治参加の機会が増大すると同時に、人間の個性の喪失、生活様式の画一化が進行し、政治的無関心や現実からの逃避が顕著となる。                                               (広辞苑より引用)

・「シャドウワーク」
I・イリイチは、「シャドウワーク−生活のあり方を問うー」のなかで、「賃労働を補完するもの」として、女性の家事労働や、試験勉強、通勤などを例に挙げ、「シャドウワーク」という用語を使っている。また、それは、形式的な経済を支えるものとであるとしている。


参考文献 
「ROADSIDE JAPAN」都築響一 ちくま文庫 
「TOKYO STLYE」 都築響一 ちくま文庫
「賃貸宇宙」 都築響一 筑摩書房 ・
「ASAKUSA STLYE」曽木幹太 文藝春秋
「TOKYO ATOM」 
「消費社会の神話と構造」J・ボードリヤール 紀伊国屋書店
「現代建築−ポストモダニズムを超えて−」同時代建築研究会著 新曜社
「トラッシュ・エステティック」 ピーター・ウォード著 遠藤徹訳 (「ユリイカ 悪趣味大全特集」青土社に収録)  
「シャドウワーク−生活のあり方を問うー」 イヴァン・イリイチ 岩波書店