−学校はまち−
2003年9月10日
森村ゼミ 前期個人研究論文
3年B組 01g0110 真中拓美
目次
はじめに …… P.3
第一章 一般的な学校空間
第一節 学校空間の歴史 …… P.3−4
第二節 学校空間の特徴 …… P.4−5
第二章 学校空間の可能性 …… P.5−6
第三章 理想的な学校空間への模索
第一節 フレキシビリティー …… P.6−7
第二節 学校の複合化 …… P.7
まとめ …… P.7−8
はじめに
次世代を担う子供たちの育っていく場である学校。子供たちが抱く夢や希望によって明るく輝いているはずの学校。しかし現実のところ、学校からは重い閉塞感や画一性しか感じられない。社会学者E ・ゴフマンの提唱した概念の中に「トータル・インスティチューション」というものがある。これは、社会から隔絶された空間の中でそのメンバーの社会全般を統率することで社会化・再社会化を図る機関を指すものであり、例えば、修道院、刑務所、精神病院などがこれにあたる。彼らは住み慣れた家や家族から引き離され、集団生活を強いられる。その集団生活においては、社会的存在としての人格や個性はいったん停止される。私には、学校もそういったトータル・インスティチューションの側面を含んでいるように思える。こうした閉塞感の中で一日の約三分の一の時間を過ごさなければならない子供たち。彼らは学校空間についてどう感じているのだろうか。そういった環境が今、学力優秀・しかし自分ではなにも決められない指示待ち人間、学級崩壊や少年犯罪を引き起こす人間を生みだしているのではないだろうか。また、近年、文部科学省が提唱した“ゆとり教育”をうけ、学校は週5日制を採用した。また、普通授業の他に総合的な学習の時間を設けるなど、教育内容の改革は徐々に行われてきている。また、小・中学校の学習指導要領は、少なくとも10年に一度改定される。このように、教育内容は時代に合わせて色々と試みられているのである。しかし、それにも関わらず、校舎・教室の様子は明治時代から約100年以上もほとんど変わらないままなのである。そこで私は、教育内容の多様化に伴い“器”としての学校空間にもより柔軟性が求められているのではないだろうか、と考え、この研究を通して理想的な学校空間とはどのようなものだろうか、ということを探ってみることにした。
第一章 一般的な学校空間
第一節 学校建築の歴史
近代の日本の学校建築の成立は、1972年(明治5年)の「学制」の発布による。この「学制」は、全国合計で53,760の小学校創設を企画するという壮大な構想であった。ちなみに、1990年代の全国公立小学校は約24,000校であり、ほぼ倍数以上の数が構想されていたことになる。この頃の学校の建設は、全て学区民の浄財によってまかなわれており、つまり、学校とはもともと各地域が自ら設立していたものであるということに注目しておきたい。また、当時建設された学校の様式には、大きく分けて「和風」と「擬洋風」の二つの様式がある。「和風」とは、主として住宅のプランニング手法を学校に適用したものであり、学校建築としては間仕切りが十分ではなく、音響面・採光面・教室の換気面についても、いずれも甚だしい欠陥を持つものであった。「擬洋風」とは、地域が勢力を挙げて文明開化のシンボルとして建設したものであり、威風堂々とした外観で、意匠的にも凝ったものであった。しかし、量的生産が最重要課題であった当事、華美で建築費や修繕費が高くつくこういった学校は、短期間で衰退していった。
こういった学校建築の問題点を打開するために、明治中期には学校建築の国家統制の動きが始まった。例えば、文部省による、1890年(明治23年)「小学校設備準則」、1895年(明治28年)「学校建設図説明及び設計大要」などがあげられる。これらは、国家中央から出された法的な位置づけを持ち、また、全体的に問題点の整理が行き届いており、理論的にも整然とした体系が完成しつつあったという点で大きな影響力を持っていた。例えば、採光、通風面の改良を主たる目的として、中廊下方プランは禁止され、片廊下方プランが奨励された。また、グランドへの日照を考え、運動場はなるべく南方、東方の位置を選ぶように規定されている。これらは、長い間、日本の学校は一計画における定型となっている。その後、機能主義を重んじたインターナショナルスタイルの影響を受け、無装飾のコンクリート壁に大きなガラス窓を設ける機能主義的デザインが一世を風靡した。学校建築もその流れに従って鉄筋コンクリートを用いるなど、部分的には変化をとげたところもあるが、明治時代に作られた学校建築の原型は約100年間の基本的なところで変化がなく、受け継がれてきている。こうした歴史的背景を持って、日本の学校建築は次第に標準化、定型化していったのであった。
第二節 学校空間の特徴
今日の日本の学校は、あらゆる面において閉鎖的である。まず、学校と地域社会との関係について考えてみる。第一節で述べたように、明治5年に「学制」が発布された頃には、学校はもともと地域が建設し、運営していたものであった。その頃、学校は地域社会の文化の中心といった位置にあり、また、学校の教師たちも地域社会の人々の尊敬や親近感を集め、地域社会に根づいたさまざまな貢献もしてきた。つまり、学校は地域の人々の交流の場であり、また、学校を地域社会全体が見守り育てていたのであった。しかし今日、学校の閉鎖性はどんどん高まってきている。学校は聖域であり、外部者は立ち入ることが許されないような、独特の雰囲気がある。部外者を拒むように張り巡らされた塀や門の中で、どのような営みがあるのか、一般地域民にはうかがい知れない。むしろ、学校はそこで行われている教育の営みについて地域社会から意見や批評が起きることを恐れ、外部の目が入ることを嫌がる雰囲気さえある。また、教育内容についても、地域社会から閉鎖的である。全国一律の学校指導要領に縛られ、地域社会の特殊性や多様性によらず、全国で均質的な教育が行われている。たしかに、こうした均質性が量的にも、質的にも高いレベルの教育水準をわが国にもたらしてきた。しかし、学校で扱われているさまざまな教材や、題材が、そして教育の具体的な方法が、地域社会の実情とは離れた一般論で進められていることが、学校や教育にたいする生徒の興味を惹き出しえない原因になっているという可能性は否めない。
また、学校内においても閉鎖的な空間が作られている。閉鎖的な教室を廊下に沿って一列に並べる。教室の中を確認できるのは、ドアに取り付けられた小さな窓だけである。したがって、廊下を歩いていても教室の中の様子をつかむ事はなかなか難しい。また、小学校においては一人の教師が固定的なクラス集団を指導するため、より閉鎖的な環境が作られている。こうした環境は、あるクラスが「学級崩壊」の危機に苦しんでいた事実を、隣のクラス、同じ学年の教師も気づかなかった、などという現象も引き起こしている。このように、学校は、教えやすい、管理しやすい、という観点だけで作られており、重い閉塞感によって覆われているのである。
第二章 学校空間の可能性
関東平野のほぼ中央、埼玉県宮代町に笠原小学校という学校がある。1979年に設計が始まり、1982年には竣工した。この学校は象設計集団という建築家たちによって建てられた一風変わった学校である。この学校を設計するにあたり、概説河野工への教員との懇談会、町執行部、教育委員会、議員団、教員とのモデル校への見学会などにおいて、新設校への期待・要望・提案が寄せられた。そのなかには、以下のようなものがあった。たくましくて心豊かな子供たちに育てたい・子供一人一人の個性を伸ばしたい・自然と親しめる環境が欲しい・外では裸足で遊べると良い・クラス同士の交流が欲しい・低層の構造にして欲しい・地域の施設として開放的な空間を作って欲しい、などである。これらのことを受け、設計者である象設計集団は『学校はまち 教室はすまい 学校は思い出』ということを合言葉に設計を行っていった。実際の校舎をみてみると、校舎は一般的な学校に見られるような矩形ではなく、日本の家屋に似た形になっている。教室の壁は全てガラス張りであり、中の様子が外から廊下からよく見えるようになっている。また、教室の廊下に壁はなく、ある意味ベランダのようであり、そこからすぐに校庭に出られるようになっている。屋内の空間が外部空間と連続的に構成されているのである。さらに、生徒たちが裸足で暮らしているという、特徴を持っている。生徒たちは真冬以外は教室の中、廊下、校庭など全てにおいて裸足で行動するのである。つまり、たたみ、板、ベニヤ、モルタル、コンクリート、石、砂、じゃり、土、芝生、雑草、雪、落ち葉、木の実などの素材に足が直接触れるのである。それによって、彼らは自然を大切にする心、そして、自然との共存の方法を学んでいくのである。このように、様々な特徴をもった宮代町笠原小学校、この学校は20年以上も前に建てられた校舎であり、新しい学校とはいえない。しかし、大量生産されてきた矩形の校舎をもち学校とは一味ちがったよさを含んでいる。私が、今回考えて行きたい「理想的な学校空間」とは、今までになかったような「“新しい”学校空間」、という意味だけではない。今まであった学校の中にも、理想的な学校を目指して取り組んできた学校もある。だからこそ、新しいものだけを追い求めるのではなく、今まであった学校も吟味し、そこに足りないものを付け足していく、そういったことを通して理想的な学校空間を探してみたいと考えた。そこで今回はあえて、新しくはないが一風変わった試みをしているという、宮代町笠原小学校を例に挙げてみたのである。
第三章 理想的な学校空間への模索
第一節 フレキシビリティー
学校の閉鎖性を打開するために行われている試みの一つに、“フレキシビリティー”というものがある。これは、1970年から80年にかけて行われた“オープンスクール運動”に端を発する。“オープンスクール運動”とは、教室と廊下を隔てる壁を取り払い、オープンスペースと呼ばれる多目的教室に隣接させることを目指した運動である。この運動はアメリカで1970年代初頭に登場した大規模オープンスペースを、日本の学校建築へと応用していったものである。このオープンスペース運動がこの頃登場したのには、以下のような理念があった。@教育内容、方法の変化・発展に柔軟に追随できる学校建築の仕組みが必要である。A固定的なクラス集団以外のさまざまな学習集団の育成を容易に試みることが出来る空間構造を必要とする。B学校を単に教える場としてではなく、学ぶアクティビティーの場として構築していきたい。これらの理念は、それまでの学校教育を覆い始めた閉塞感・逼塞感を打開する道筋として、学校建築の画一性・一斉的な学校教育のあり方に問題意識や危機感を持ち始めていた人たちから支持され、その後10年の間に、オープンスペース・多目的スペースを有する学校が3000校を越すまでに至ったほどであった。そして、この運動によって、明治以来の片廊下一文字型校舎の定型はすでに破られたかと思わせたし、学習・生活の個別化・個性化のためのみずみずしい教育実践の登場は一斉・画一の日本の学校の授業スタイルを改革するか、とも思われたのであった。しかし、学びの場としてのオープンスペース、というねらいを理解しないで設計・建設されるただ広いだけのスペースが作られ、また、オープンスペースという新たな画一化が始まってしまった。それによって、この運動は90年代には停滞へと進んでいった。しかし、このオープンスペース運動をさらに発展させた試みとして、「フレキシビリティー」という考え方があげられる。大きなスペースを家具や間仕切りの配置を変えて自在に使いこなすことが出来ることを建築の世界ではフレキシビリティー(柔軟性)という。現代のオフィスビルのプランニングではごく当たり前の方法論である。そして、この方法論を学校建築に持ち込んだのである。これは、フレキシブルなスペースを置き、教室とこのスペースの間を開いた関係に保つところまでは「オープンスペース」と多少似ているのだが、必要に応じて、このスペースと教室の間を区切れるような可動間仕切りのしくみを導入したことに違いがある。これによって、ティームティーチングなどによって、学年を基軸にして指導を行いたいときにはこの仕切りを取り外し、また、教室ごとに集中した指導を行いたいときには間仕切りを利用するなど、教育目的にあわせた空間の構成が可能になったのである。
第二節 学校の複合化
第一章の第二節で述べたような学校の閉鎖感。この閉鎖性を打開するために、私たちに出来ることは、学校のなかにもっと地域の風を入れていくことである。例えば、公立小・中学校と生涯学習施設、または高齢者施設などが一体的に建設される「学校の複合化」である。学校施設と生涯学習施設の機能が連帯・複合化されていくことの意義として、生徒と地域の人々が「学校」を舞台として自然に触れ合える環境を作ることが出来るということがあげられる。また、学校と高齢者施設の連帯・複合化は、生徒と高齢者が触れ合いや交流する機会を与え、それによって生徒たちのお年寄りを敬い、学ぶ姿勢を育てていくことが出来る。現在、核家族が進む日本社会において、子供たちがお年寄りと接触する機会はほとんどない。そういった子供たちにとって、障害や痴呆を抱えながらも懸命に生きていこうとするお年寄りの姿を間近に見ることは、それ自体が貴重な社会学習のチャンスであり、いたわりの心、尊厳の心を自然に醸成できる環境といえる。また、お年寄りにとっても、はつらつとした子供と同じ屋根の下で生活していけることは、ずいぶんと勇気づけられることに違いない。また、少子化によって余裕の生じた学校施設の一部を、高齢化施設として再生・活用していくことは理にかなっている。現在、約500校以上の小・中学校が複合を行っている。これらの学校は、社会教育施設との複合化事例が中心となるが、特別養護老人ホームや高齢者デイサービスセンタなどの複合化事例もある。こうした複合化された学校では、幼児から高齢者までの広範な階層が、朝早くから夜遅くまで随時訪れ、自然な形で交流が起こる。もともと、街や社会には、様々な属性や価値観の人々が混在しながら共同体を形成している。この価値観を学校に持ち込み、学校をさまざまなコミュニティー活動の場として機能させることが、未来の学校に求められている姿なのかもしれない。
まとめ
第二章で紹介したように、埼玉県宮代町笠原小学校を設計した象設計集団が考えた設計理念のなかに「学校はまち 教室はすまい 学校は思い出」というものがあった。私は、理想的な学校を考えていく上で、まずは学校のもつ意味をもう一度考えてみる必要性を感じた。そして、私はこの「学校はまち 教室はすまい 学校は思い出」という言葉が、学校を表象するのに適していると感じたので、彼らの言葉を引用しながら、私なりの解釈をつけてみることにした。「学校はまち」―まちには、さまざまな人間がいて、さまざまに結びつく。機能、空間、素材などさまざまな要素が混ざり合っている。まちとは、多様性、出会い、成長変化のことである。まちが学校の内に入り込み、学校はまちにはみ出る。つまり、学校と地域社会を区別し、閉鎖的な空間を造るのではなく、様々な人が出会い、そして学びあう場所と変容を遂げる時期にあるのではないだろうか。「教室はすまい」―生徒たちは学校の中で一日の三分の一以上を過ごす。学校は生徒にとっては単なる部屋ではない。交流・勉強・遊び・食事・くつろぎなど、全てを行うための生活空間なのである。単に矩形の箱を一直線の廊下に沿って並べていくだけでは、快適な生活空間は作れない。教えやすい、管理しやすいという観点だけで作られていた無味乾燥で、頑丈だが何の潤いもない空間。こういった空間を少しでも生活しやすい空間へと変えていく必要があるのではないか。「学校は思い出」―生徒は小・中・高を合計すると12年間も学校の中で暮らすことになる。人生の最も多感な時期を学校で過ごすのである。その間に、たくさんの人に出会い、たくさんの事を考え、そして成長していく。泣いたり、笑ったり、様々な経験をつむだろう。学校とは、そういった素敵な場所なのである。
このように、学校とはただの矩形の箱なのではない。生徒も、先生も、親も、高齢者も、地域の人たちみんなが“生きる”場所なのである。だからこそ、そこで生活する人たちみんなにとって過ごしやすい、心地よい、と感じられるような空間を考えていくことが必要となってくるのだろう。また、私が今回、理想的な学校空間への模索として、「フレキシビリティー」と「学校の複合化」をあげ、また実際の例として埼玉県宮代町笠原小学校を取り上げて来た。しかし、注意しておきたいことは、“これらが理想的な学校空間である”ということを示したいのではない、ということである。これらは単なる“提案”なのである。これらにしばられてしまうと、そこからまた新たな画一化が始まってしまう。そうしたら、以前オープンスペース運動が停滞してしまったように、また今回の試みも無駄になってしまう。それぞれの地域がそれぞれの特徴をもっている。だからこそ、北から南まで校舎の形も、そして教育内容もそっくり同じ学校を何千校も作るのではなく、一つ一つの学校がそれぞれの地域に根ざした特徴をもっているような学校を目指していくべきなのではないだろうか。学校がまちであり、まちが学校であるような学校は、きっと生徒たちだけでなく、地域社会で暮らす人々すべてにとってふさわしい場所になるであろう。これが、最初に感じていた理想的な学校とはどのようなものか、という疑問に対する私なりの答えである。