はじめに

「六十年代は、二十年代の英雄たちの作業が、いずれは<CIAM>という国際的な組織に集約され、インターナショナル・スタイルと機能主義的方法という堅固イデオロギーに収斂していったのにくらべて、全体がひとつの流れに向かうという傾向性を認めることは困難である」と、磯崎新が述べているように、この時代の建築家たちは、近代建築様式の絶対的な力、「テクノロジー」を放棄し、それぞれが新たな道を模索していった。彼らを一くくりにすることは出来ない。彼らは、様々な概念を提案し、実行してきた。では、彼らが目指し、進んだ先には何が待ち受けていたのだろうか、磯崎新が提唱した「建築の解体」そして、「主題の不在」とは、いったい何を表しているのだろうか。

今回はグループ発表で扱った、磯崎新の著書である『建築の解体』についての論文であるということなので、まず始めに第一章において、建築の解体についての磯崎新の見解を著書に沿ってみていくことにする。その後、第二章において、『建築の解体』において触れられた<CIAM>と<アーキグラム>という二つの建築集団に焦点を当てながら建築の解体における実際の活動についてみていくことにする。そして、最後にまとめとして、磯崎新が提示した「主題の不在」という新たな主題についての考察を進めていくことにする。

第一章 《建築の解体》とは

1.アパシィ ―革命はとっくに終わっている

   近代建築においては、過去の建築様式を「モデル」とすることを止め、新しい材料や技術に基づく「新たな様式」を作り出すことを目標に掲げていた。しかし、これらの「新たな様式」を作り出すという近代建築が内包した発展の系譜は、おそらく1960年代を区切りとして、完全に展開を停止してしまった。例えば、鉄とガラスはミースによって、コンクリートはコルビュジェによってそのデザインは開発され、洗い出されてしまった。つまり、この領域において革命は終わってしまったのである。もはや、近代建築の流れのなかで、新たなアイディアをデザインとして開発しても、せいぜい眼前の変化程度で、本質的な革新に到達する見込みがないのである。そうした事を予感しながら、クリストファー・アレグザンダーは『形の合成についてのノート』(1964年)の中で、「革命は二十年前に終わってしまった。」という言葉を用いている。
 では、60年代以降の建築家たちは、「新たな様式」を作り出すのではなく、どのような道をたどることになったのだろうか。彼らにとっては、新しい形態を作り出すことではなく、その中からすぐれたものをみつける作業が重要になった。彼らは20年代の近代建築の先駆者たちの作業を、つねに「参照」していったのである。そして、これらの行為が、建築を新しい文脈において捉えなおすことへとつながっていった。また、こうした革命のスタイルというものは、近代建築の出発点がそうであったような熱狂的なものではなく、跡になってやっと気づくような静かな革命であった。

2.アイリアン ―他領域言語を導入すること、あるいは建築の概念が全環境へ向かって拡張していく

   近代建築は、その初期に抽象的思考をすすめ、工業生産品の純粋形態だけを選択していった。初期の近代建築の指向したのは、機能主義、もしくは機械の美学であったのである。しかし、60年代からは、近代建築のもっていた視覚言語の系とは別の領域の視覚言語が建築の領域に導入されていった。そして、それらの他領域言語が、建築そのものの存在形式の変更を迫っていったのである。他領域言語が建築の領域へ侵入したことによって、建築の概念が拡張された。つまり、環境の決定メディア全てが「建築」と呼ばれるようになったのである。では、「建築」とは、新しい状況の中で、いったいなにを指しているのでろうか。このことについて、ハンス・ホラインは、『すべてが建築である』(1968年)の中で次のように述べている。「・・・いまや、われわれが想像の対象とするところのものは、全体としての環境であり、そして、それを規定するところの全てのメディアである。それはテレヴィであり、人工気候であり、輸送機関であり、服装であり、電話であり、そしてハウジングなのだ。・・・(中略)・・・今日では、あらゆるものが建築となる。『建築』とは、これらのメディアのひとつなのである。」建築はついには定義されるだけのものになってしまった。このように、都市領域へ、宇宙テクノロジーへ、コマーシャル・アートの領域へ、現代美術の領域へと建築の概念はとめどなく拡張し、拡散していくのである。そして、建築は環境に合体していて区別が付かなくなっていく。

3.アドホック ―建築的貯蔵庫から引用されることによって共時性をあらわにした記号の郡が、勝手気ままに建築の可視的世界を支配する

 近代建築においては、建築を素材および構成倫理のレヴェルで純粋化しようとするために、付加的なシンボルを、極力排除する傾向があった。例えば、コルビュジェの作品は、徹頭徹尾、コンクリートの打ちっぱなしだけであった。また、ポール・ルドルフによって建てられた老人ホーム「クロフォード・メナー」のように、広告やサインも極力排除された。彼らは、付加的なシンボルを排除することによって、デザインを成立させていたのである。よって、これらの建築は、「排除(イクスクルーシヴ)」の建築であった。しかし、その後、60年代中期からは、新しい建築の兆候が徐々に顕在化し始めた。それらは、チャールス・ムーアーによって「排除」の建築に対して、「包摂(インクルーシヴ)」の建築である、と表現された。これらの流れは、多様化・輻輳化を求める現代社会の性格によるところが大きい。
この包摂の建築を表現した手法にスーパー・グラフィックスというものがある。近代建築においては、位置と作用の系からうまれるセマンティックの構造を明示することが意図されていたが、スーパー・グラフィックスにおいては、このようなセマンティックの構造のうえに、まったく無関係のセマンティックをもった皮膜が重ねあわされた。例えば、普通の建築的要素で作られた建物の表面に、矢印やストライプなどそれ自体で特定の表象を持つ記号が重ねあわされた。それにより、壁は、ストライプによって天井につながっているように見えたり、ストライプが客に、天井と壁の境界線によって屈折するように見えたりする。このように、この建築を見るものに対して、二重の意味をもった信号を送り始めたのである。このように、これまで異なった文脈をもっていた二つの系がスーパーインポーズされ、複合し、あいまいな文脈が新たに構成されていったのである。
そして、今度は「包摂」の建築から「混成品(ハイブリッド)」へと作業の系は進行していく。これは、メディアの多様化と平行した現象である。単一のメディアでは、それが発信、または処理できる情報は限られてしまうが、二つ以上のメディアが組み合わされることによって、複合的な意味作用が発生するのである。例えば、クリストファー・アレグザンダーは「混成品」としての都市の構造を提示する概念として「セミ・ラティス構造」を提唱している。彼は、『都市はツリーではない』(1965年)の中で、「ツリー構造」は、自然に出来上がった都市の構造を正しく表わさないとして、より複雑ではあるが、秩序を備えている「セミ・ラティス構造」をイメージした。「ツリー構造」においては、全ての構成要素が明確に分離して、決して重複が起こらないような間形が保持されているハイアラーキーのパターンである。これは、近代建築がその美意識の中に内在させた、排除性を持ったイメージが、つねに無意識のうちに志向していた構造である。これに対し、「セミ・ラティス構造」は、おなじような構成要素であっても、それが必ずしも分節化されずに、相互に関連を持ち、重複しながら、全体としてハイアラーキーを構成しているものである。そのため、あれこれ様々な要素が絡み合って、曖昧な象となって現れるのである。

4.アンビギュイティ ―アイロニカルな身振りだけが残されている

  「曖昧な(アンビギュアス)」という言葉は、普通「ぼんやりした」とか、「不決断の」という意味にとりやすいが、今回はむしろ「両義的な」とか「多義的な」という意味で用いられている。そして、この「曖昧」という概念を正当な意図によって導入したのがロバート・ヴェンチューリの『建築の複合と対立』(1966年)であるということが出来る。この中で、ヴェンチューリは、「『排除』することによってえられるやさしい統合よりも、『抱合』するためにうまれる困難な統合の中にこそ、この建築は体現されねばならない。より多いことは、より少ないことではないのだ。」ここでは、機能主義が抱え込んでいた目的性を明確に表示するという意図が放棄されている。しかし、そうした中において曖昧性の追求が果てしなく繰り返されることによって、混沌とした迷宮のような世界に導かれてしまった。建築的貯蔵庫は開放され、多様な引用は可能になった。そして、可能な限り微妙な修辞法も開発され、そこに豊饒な建築的世界が開け始める。しかし、それは現代建築が統括的な主題を放棄したことによって、開発が開始された領域であり、その背後には絶対的な主題の欠如が生み出した領域が広がり続けているのである。「主題の不在」これは、次に探索せねばならない主題である。

5.アブセンス ―あとがきに変えて

  1920年代以来、近代建築は、テクノロジーを究極的に表現するという一点において、社会的コンサンサスを得るべく運動とプロパガンダを続けてきた。そして、半世紀以内で、工業化、技術的表現、大量建設などの初期の目標は達成された。テクノロジーは、この全過程を通して基本的な主題であり続けた。機能表現主義、構造表現主義などのテクノロジーの表現形式も生み出された。60年代の初頭までは、テクノロジーに関わる文脈によって、全てが理解可能であったのである。しかし、その後、近代建築が疑うべくもない究極な主題に設定したテクノロジーが、かならずしもその絶対性を維持できなくなったのである。つまり、主題が消えてしまったのである。個別にテクノロジーを解して視覚言語を開発することがひとつの限界に達したとき、その展開の主導権はテクノクラートに移る。大量生産、大量建設、大量消費という社会的な生産関係への組み込みが完成し、表現の領域は、テクノロジーを正統に表現するという文脈による限りもはや意味をもてなくなる。それにもかかわらず、建築家がいま用いることの出来るのは、テクノロジーだけという矛盾がある。そこには、テクノクラートに味方するか、あるいはデザインを放棄するか、この二者択一しか残されていない。
 今回の《建築の解体》において取り上げられた建築家たちは、このような状況の中において、二者択一ではなく、自らの作業の糸を解体すると同時に、規制の建築という概念をも解体することを、手探りでつづけながら開始した人たちであった。彼らは、テクノロジーという主題を当然のこととして放棄した。そして、テクノロジーという絶対的な主題が空洞化され、表相は見かけ上では多様化し、開発されていく手法も多岐にわたった。しかし、そのことにより、「主題の不在」という主題が新たに生まれてきた。そして、建築家は、このことに向き合っていかなければならなくなるであろう。

第二章 「建築の解体」の担い手たち

第一章において、磯崎新の《建築の解体》に忠実にそって、「建築の解体」とはいったい何を表わしているのかということを見てきた。50年代後半から60年代以降にかけてのテクノロジーの高度化=技術革新によって、巨大な建設需要とそれに見合う巨大な生産組織と技術が生み出される。そしてテクノクラートの主導の下、新しい建築機能や都市機能を実現する大規模で複合的な建築計画が押し進められることになる。一方、テクノクラートに与することを拒否する建築家=デザイナーたちは<テクノロジーを主題とする近代建築の解体>の担い手として登場した。よって、第二章においては、実際に「建築の解体」の担い手として登場した<アーキグラム>と<CIAM X>の活動を参照しながら「建築の解体」そして、「主題の不在」に迫っていくことにする。

1.CIAMの設立から崩壊への流れ

ジュネーブ国際連盟本部のコンペにおいてウ・コルビュジェの計画案が落選したことをきっかけとし、1928年に近代建築国際会議<CIAM>が結成された。カール・モーザーや、ギーディオン、リフェルトら12カ国24人の建築家が参加して「建築の合理化と標準化」「経済的視点の重視」を訴える「ラ・サラ宣言」を採択した。
1933年、CIAMの第四回会議<CIAM W>がアテネからマルセイユまでの船上で行われ、「居住・労働・余暇・交通」を主軸とした都市計画の原則としてのアテネ憲章が採択された。この憲章は、「住宅」「余暇」「労働」「交通」「歴史的建築」の5項目、95項の考察と提言から成り立っている。ここで、この憲章の重要な部分を、いくつか取り出してみることにする。

住宅 27項 交通路に沿った住宅の配置は禁止されなければならない。
    29項 高層建築物は互いに広い間隔で建てられ、広大な緑に地面を開放すべきである。
余暇 36項 非衛生的な街区は取り壊して緑地に変えること。隣接地区は清潔になるだろう。
37項 新しい緑地帯は、幼稚園、学校、青年のセンター、または住居と密接な関係のあるすべての公共建築などを含む、目的のはっきりした施設に役立つこと。
労働 47項 工業地帯は住居地区から独立しなければならない。そして緑地帯によって一つ一つ隔てられていなければならない。
交通 61項 交通の流れの混雑する交差点は、立体交差によって、交通が途切れないように整備されるべきである。
62項 歩行者は、自動車とは別の道路を通れるようになること。

 このように、この憲章では、都市の機能は基本的に「住む、働く、憩う、移動する」にあり、都市計画は住居を中心にこれらの各機能の関係を決定すべきだとされた。また、「太陽、緑、空間」が重視されていた。また、この憲章においては、普遍性のある一般論が展開されていた。しかし、現実的な問題に対しては不明瞭であったことや、昨日郵政のゾーニングの考え方や単一的な住宅団地の強調という点で、後に様々な批判にさらされるようになった。
 そして、1953年、第九回CIAMにおいて、この官僚主義的で決定論的なアテネ憲章を批判するような作品が数多く現れた。その中でもスミッソン夫妻の「都市の再認識」というテーマでは、ル・コルビュジェの建築形態を継承しながらも、アテネ憲章の機能的なヒエラルキーを批判し、人間のコミュニティのヒエラルキー「住宅・通り・地区・都市」を提案した。そして、1956年、スミッソン夫妻は第十回CIAM<チーム X>で、「変化と成長、クラスター、モビリティ」という用語を使い、変化するコミュニティにはアテネ憲章では対応できないことを指摘し、CIAMを崩壊に導いた。

2.<チームX>がもたらしたもの

第十回CIAM<チームX>で「変化と成長」という用語が使われたことからも分かるように、チームXがCIAMの方法に加えた批判のうち、もっとも核心をついたものは、建築や都市に対する動態的視点の導入であった。
彼らはなぜ「変化と成長」という動態的視点に着目したのだろうか。それは、このころの時代背景が大きく関わってきている。彼らは、廃墟と化した第二次世界大戦後の大都市のまっただなかに生活し、そこで物質が強制的に変質するありさまを日常の一部として体験してきたのである。都市は破壊され、再建される。あるいは、より以上に激しく不連続な成長をする。つまり、彼らの意識の背後にあったのは、戦後の破壊された都市の再建であったのだ。こうした実感に裏付けられながら、<チームX>は建築・都市を変化と成長の相のもとにとらえなおすという方法を提起することによって、<CIAM>の静的な方法の転覆をはかったのである。

3.時間概念の導入

さらに、<メタボリズム>が、<チームX>がいだいた時間概念を技術化した。そこでは、時間が計画の主要軸とされ、時間軸にそった変化が先験的に予測され、透視されて、計画にくりこむことが考えられていた。そして、発生する全ての事件の予測が可能であるという認識のもとで、時間軸にそって変化するものと変化しないものという、単純な分類がされていた。ここでは、連続した時間が流れ続けるという「時間」の認識の上にたって、全体の思考がつらぬかれていた。
しかし、ここで磯崎新は疑問を投げかけている。「『時間』を、技術的に克服可能な、単純な連続的な流れとしてとらえるだけで充分なのか。『時間』とは不連続で、つねに不確定に現象している、もっと存在そのものの内側にひそむものではないのか。未来が単純な連続線上に出現するものであったら、あらゆるカタストロフィーは回避されるはずなのに、目前に横たわる破壊と汚染と剥落と消失をどのように説明すべきなのか。建築が時間におかされる光景をどのように説明したらいいのか。」

4.アーキグラム
<アーキグラム>とは、1961年に雑誌『アーキグラム(Archigram)』1号を創刊し、60年代に活躍したイギリスの建築グループである。メンバーは、ウォーレン・チョーク、ピーター・クック、ロン・ヘロン、マイケル・ウェブ、デニス・クロンプトン、デビット・グリーら六人から成る。これまでの建築にはない大胆でポップな表現方法、社会状況や技術の直接的な引用を試み、さらに次々に発表された楽観的なテクノロジーのユートピア計画によって建築界の注目を集めた。彼らは、現実の建築よりもむしろ、自分たちで編集・発行した雑誌メディアを通じて様々なプロジェクトの提案を行い、既成の建築に対する痛烈な批判と都市イメージの徹底的な組み換えに挑戦していった。彼らのコンセプトは、「可動的」「仮設的」「ノマド的」というキーワードに集約することが出来る。それは、「ポータブル・ビルディング」の試みであり、メディアや情報を駆使する「建築のソフトウェア的アプローチ」であった。ここで、彼らの作品の一つである「インスタント・シティ」に着目してみることにする。
「インスタント・シティ」は、ピーター・クックを中心としてまとめられた作品である。これは、必要最小限のエレメントだけをポータブルな形に凝縮し、既存の空間にそれを導入していくことで、まさにインスタントに都市を構築していこうという画期的な試みだった。インスタント・シティは、大都市に比べていろいろな面で刺激に欠けている地方の小都市や集落に、大都市の持つダイナミックな雰囲気を伝えることを目的としていた。
 このように、<アーキグラム>は、既存の建築の枠を超えたあらたな概念を提唱した。つまり、建築の概念の拡張を担った建築家であるということが出来る。

まとめ ―主題の不在をめぐって―

第一章、第二章で見てきたように、60年代以降の建築家たちは、近代建築においては、絶対的な主題とされてきた「テクノロジー」という主題を放棄し、新たな道を模索していった。そこでは、新たに「時間概念」の視点が導入されたり、人間と機械、または人間と環境などとの「共生」が考えられたり、装飾や、さまざまなものが「包摂」そして「混成」された建築が作られたりもした。このように、彼らを一とくくりにはできないほど、様々な手法が生み出され、建築の形態は多様化していった。しかし、実際には「テクノロジー」という絶対的な主題が放棄された後、そこに残ったものは「主題の不在」という新たな主題であった。そして、「主題の不在」を考えたとき、ここで考えていかなければならないのは、建築家の「作家性」についてであろう。
絶対的な主題がない現在の状況において、必要なのは何なのだろうか。クライアントの数だけ存在するその時その時の状況に合わせた主題なのか。もし、クライアントに合わせて建築を作っていくとしたら、建築家のもつ「作家性」はなくなってしまうのだろうか。建築を作るにあたり大切なことはいったいなんだろうか。建築家である山本理顕は、ある公演の中で、次のようなことを述べていた。「建築をつくる場合、どうしても建築家の固有性は出てきてしまいます。しかし、それだけではなく、地域の固有性とどう関わりあうか、どう貢献できるかを、私は問われるのだと思います。・・・(中略)・・・コミュニケーションを誘発するための装置が建築だと思うのです。だから、出来上がったものだけが建築じゃなくて、建築のプロセスがすでに建築なのです。」
これから先の建築に求められていくもの、それは建築家とクライアントの対話なのかもしれない。クライアントの意見を建築に取り入れることにより、建築家としての「作家性」が消えてしまうのではなく、むしろ対話を通して「作家性」が生かされていくような、そんな建築が作られていって欲しいと感じずにはいられない。

参考文献


  磯崎新「建築の解体」美術出版社