聾者、聴者、

 

 

 

 

 

 

聾者、聴者、

そして音楽の力

 

 

 

 

森村・川村ゼミ 2003年度論文

国際文化学部  01g0112

宮本充

 

 

 

はじめに 〜前期後期の歩み〜

 

前期後期を通して、私がゼミの個人研究として研究してきたこと、それは大まかに言って、「音楽と聾者、そしてその関係」ということである。このテーマで研究をしていくことになったのは、私自身、音楽が好きであり、全く音を感じられない聾者に音楽を伝えられたらどんなに素晴らしいだろう、という考えによるものであり、実際前期の個人発表においては、聴力を上げる機械である補聴器や人工内耳、そして、「身体で聴こう音楽会」というpioneerが主催するイベントについて調査したり、実際に参加したりした事を発表した。

 

その前期の発表では、現段階では聾者に音楽(健常者が楽しむのと全く同じ形で)は伝えられない、ということを事実として認識することになる。補聴器を使っても聴力が上がらない聾者には、その他の聴力増加、回復手段として内耳に直接埋め込む人工機器である人工内耳の手術が選択肢として残される。しかし、これらの機器は極めて高価であり、さらにその手術の際には大きな危険を伴う。手術後に音が必ずしも聞こえるとは限らず、聞こえたとしても、それは人工内耳の中で電気信号として変換されて脳に伝わるために、人の声は機械色を帯びるという。pioneerのイベントに関しても、聴力レベルが比較的健常者に近い人のみが耳から音を拾う事ができ、ほとんど音を耳で感知できない聾者にとっては、ボディソニックという機械からは振動としての音しか感じ取れないということを知ったのであった。自分の中でこの前期発表においては、聾者という存在が音楽というものからは離れた、遠いところにいるという印象を受けていた。

 

その後私は聾者について調べていくこととなる。それは、様々な文献を読んでいく中で、聾者の生きる世界、すなわち「音のない世界」や「手話という言語を話すエスニシティ」という事柄について興味を持ったからである。聾者にとって音楽を鑑賞し楽しむことは必要ないのかもしれない。その他の視覚芸術がその代わりとなって十分に聾者を満足させているのだ。このような考えが頭にはあった。そこには、聾者に音楽を伝える事への諦めも含まれていたかもしれない。いや、本当に諦める事しかできないのかという考えも捨てきれずにいた。いずれにしろ、何かを掴むためにはまず自分の知らない世界、価値観に触れることが必要だと感じたのであった。そして実際、自分自身の固定されていた考えが、少しずつ解体されていくこととなったのである。

 

聾者について調べ、考える事は、健常者と身体障害者、そしてその関係について考えることでもあった。健常者としての自分が今までもっていた偏見にまみれた障害者像、そして彼らに対し無意識的に「劣ったもの」、「不幸な人」としてみるような態度、これら健常者一般(本当に一般的であるかどうかは定かではないが)のイメージと素直に向き合うことが要求されていたのである。聾であることとは一体どういうことであるか。身体障害と共に生きるということとはどういうことであるか。健常者という立場にいる自分には経験することができない世界がそこにはあった。その世界は当初から予期していた通り、辛く苦しいものであるようだった。しかし、そればかりではない。その世界は、それ以上に豊かで、エネルギー溢れるものだったのである。少なくとも私にはそう感じられた。身体的に健常者と比べて、ある何かが「欠けて」いたり、「ない」状態にある身体障害者は、健常者よりも社会的な壁に出くわす回数が多い。しかしその「ない」状態にある彼らには、私達健常者には「ない」何か、そういったものが感じられたのである。それは、知覚的欠損からくる健常者とは異なる知覚の仕方(聾者に関して言えば、音に対する繊細な全身による知覚や、視覚を健常者とは異なる形で活用する仕方など)であったり、それに伴う豊かな感受性であったりした。そして何より生きる上での「強さ」といったものを強く感じさせられたのである。障害をもつこと、それは何かが「ない」ことでもあり、また同時に何かが「ある」ことでもある。これが、聾者の世界観、文化、そして生き方を調べていく中で学んだ重要な事柄の一つであった。

 

聾者の世界、文化について調べることは、もう一度自らの健常者としての価値観について問い直すことを要求しているようであった。それは当然、自らがこの研究のテーマを選んだということさえも見直すことでもある。聾者に音楽を楽しんでもらいたいがために聴者が人工内耳のような最新テクノロジーを開発し、それを一方的に傲慢に薦めていくことは、歴史において帝国主義国家が繰り返した植民活動、文化的統合政策と類似しているのかもしれない。聾者に音楽を押し付けてはならない。その文化の違いが理解されなければならないだろう。そのようなことが頭の中にあった。ろう者は独自の文化をもつ人たちであり、そこには聴者の一方的な押し付けがあってはならない。自分の大好きな音楽であってさえも、である。ろう者のことについて調べれば調べるほど、何故か両者の間に立ちはだかる見えない壁が大きくなっていき、それに伴って音楽が彼らから遠ざかっていくように感じられた。そのような感覚が自分は嫌で仕方がなかった。そしてそのように気持ち悪く、納得いかない感覚を引きずったまま前期を終え、夏休みを迎えることとなったのである。

 

 その夏休みに私は大きな経験をすることとなる。夏休みの期間中に、「dialog in the dark」というイベントにボランティアスタッフとしてお手伝いさせてもらうことになったのである。このイベントは、体育館のように大きなスペースを少しの光も入らないように遮断し、その真暗闇の中を健常者が視覚障害者の誘導者(ガイド)と共に進んでいくといった内容のものであるが、そのイベントの会場設営や運営補助といったことをしばらくの間手伝った。この期間中に様々な視覚障害者の方と知り合い、話す機会があった。それは自分にとってみれば、身体障害者の方と親しくなる、ほとんど初めての機会であったのである。身体に障害を持つ人に関してはそれまで文字や画像といったものを通して触れる方が多かった私としては、大きな経験であった。皆元気で明るい方で、趣味の音楽の話やスポーツの話と、様々な事を話し、共に笑った。そしてあっという間にそのボランティアの期間は過ぎた。そして視覚障害者の人と触れ合うたびに私は、前期発表から続いていた気持ち悪い感覚が少しずつ消えていくのを感じていた。それは多分、実際に面と向かって会話し、お互いに心を開いていくという、その時間、そしてその瞬間を共に過ごしたことからくるものであったように思う。つまり、コミュニケーションをすること、その言葉、そしてそれらの間にある沈黙さえも時間、空間として共有し、相互に理解しあえたことが、それまで自分の頭の中にあった認識上の身体障害者と健常者の間にある見えない壁を少しずつ、取り払っていったのである。頭の中だけで勝手に創り上げられていたイメージは、徐々に薄れていくこととなった。人と人の間には必ず見えない壁が存在するものであって、それには身体に障害があろうとなかろうと、関係ない。そしてそれを解消していく唯一の手段が、コミュニケーションすることであり、お互いを理解しあうというその心、そしてその瞬間、空間を共有する事である。そんな当たり前の事を体験的に感じさせられたのであった。

 

 後期の発表に向けてまず私が取り組んだこと、それは、聾者と音楽の関係についてもう一度考え直すことであった。その際に、以前に聾者のことについて調べた時にずっと気にかかっていたことについて見直すことにした。あるホームページや、文献に、「カラオケが大好きな聾者」「ダンスを愛するろう者」といった内容の文章がのっていたのである。それらによると、音楽嫌いな聾者が多い中で、カラオケが大好きな聾者もいるのだという。身体に触れる振動としての音に合わせて自由に声を出したり、歌詞を手話で表現したり、踊ったりする。彼らはカラオケボックスというある種閉鎖された空間においてなら周囲に気兼ねなく楽しめるので気に入っているのだそうだ。

 聾者にも音楽を楽しむ人がいる。しかも聴者とは少し異なる仕方で。しかしこの事実は私にある引っかかりをもたらしていた。即ち、そのように聾者が楽しんでいるものは、音楽といっていいのだろうか。そのようなことである。ほぼ毎日のように部屋のステレオで音楽を鑑賞している私とは少し異なる楽しみ方であったために、それが果たして本当に音楽を楽しんでいると言えるのか疑問に感じたのである。しかし一方では何か明らかに共通しているものが感じられる事実でもあった。

 私は音楽そのものについて調べることにした。それは、自分自身、音楽が好きだと言っているわりには、「音楽とは何か」ということについてほとんど考えることをしてこなかったし、そのような前提で、何が音楽で何が音楽ではないかなど、言えるはずもないと思ったからであった。さらに、「音楽とは何か」について調べる時に、(健常者として)固定されてしまって気付かないような観念を問い直すことを忘れないようにした。音楽が存在し続ける理由、そしてその役割。そのような事を中心に考えた。

 

 このように、音楽というものについて考えていた時に、ある本と出会うこととなる。それは、佐藤慶子さんという作曲家が書いた『五感の音楽』(ヤマハミュージックメディア

)という本であった。彼女は聾の子供たちから成るワークショップ<響きの(#1)>を率いている人物であり、聾の子供たちとともに新しい音楽の形を模索し続けているという。この本との出会いによって、自分自身の音楽観が大きく変えられることとなった。そして実際に後期の発表においても、音楽とは何か、聾者が楽しむような形での音楽、ということについて『五感の音楽』を取り上げ、自らの思うところを述べた。そして発表の数週間後に開催された<響きの歌>のオープンワークショップに実際に参加し、聾者の子供たちの楽しむ姿を目に焼き付けた。

 

 前置きが長くなってしまったが、このような一年間の一連の研究、そして発表やその他様々の経験で、今自分が考える聾者と音楽、そしてその関係についてまとめたものがこの論文である。まとめとしての自らの考えを述べるために、その前にまず聾者に関する事柄(ろうとは何か、一つの言語としての手話、聾者の音楽観といったこと)を確認し、次に音楽というものについて見直していきたいと思う。

 

※ 「聾者」という言葉は、身体の病理的なもの、つまり耳という感覚器官に重度の障害を持つ人々全般のことを指す。対してひらがなで表記される「ろう者」は、日本手話を話すコミュニティに属す人のことを指す。

 

第一章 ろう者の世界

 

ろうとは何か

 

 ろうとは何か?これまでろうであることが理解される際には、身体における病理的なものとして見る視点、それだけが突出していた。つまり、「聴覚障害」という言葉で括られるエリアの中の枠組みの一つ、という認識である。WHOの分類によれば、聴力レベル健聴者の最小可聴値[ =聴くことができる最小の音圧 ]を基準値として、対象となる人の最小可聴値との比率をdB(デシベル)という単位で表したもの。の値が健聴者と呼ばれる人々のそれから離れるごとに軽度、中等度、準重度、重度、最重度の難聴といった具合に分類されていき、一般に、最重度の聴覚障害者は、聾者とされている。言い換えれば、補聴器を使っても耳から音が聞こえるようにはならない状態の聴覚障害者が、聾とされているのだ。このように、聴者一般の聾の認識は、「聴こえない人」という言葉に集約される。

 聴覚障害はその障害の発生した時期による区別方法によると、後天性と先天性の大きく二つに分類することができるが、この二つに属する人の音に対する価値観、世界観には、お互いに大きな違いが見られる。

 

後天性の聴覚障害は、後天的突発性疾患、薬の副作用、頭部外傷、騒音、高齢化などが原因となって聴覚組織に損傷を受けた場合に起こるものであり、聴力が失われていくまでに「聞こえる」状態を過ごしているため、補聴器によって聴力が補われることで生活に支障をきたすことがない程度の難聴であれば、言葉の理解に関しては問題が比較的少ない事が多いが、それが聾であった場合には、「喪失感」という深刻な心的ダメージを受けることとなる。それらの人は音のない世界に戸惑いを覚え、孤独感に悩まされてしまうのである。かの有名な作曲家、ベートーベンは聴力を失って以後も作曲を続けたと言われるが、このように、かつて音のある世界で生きていた後天性のろう者は、そのかつての世界に執着する。自らを、「聴力を失った聴者」、として捉えているからである。人工内耳の装用手術を望んでいるほとんどが後天性聾者であるのも頷ける。

 先天性の聴覚障害は、先天的聴覚組織の奇形や、妊娠中のウィルス感染(特に風疹)などで聴覚系統がおかされた場合に起こる。このような人は、生まれてから音というものに健聴者と同じような形では触れられないため、健聴者や後天性聾者とは異なる世界観をもつこととなる。成長の過程で健聴者が難なく覚えていく言葉に関しても、それらの人とは異なった教育を受けるのである。先天聾者のコミュニケーション方法は、読話(読唇)、筆話、そして手話がある。ここで重要なことが、「手話」というコミュニケーション方法である。聾者にとって手話は、自分の意見を他者に伝える最も即時的で有効な手段であり、これによって先天性聾者、生後間もなくろう者となった人はそれ以外の人々とは異なる視点、すなわち自らを言語的文化的マイノリティとする自己規定を獲得するのである。言い換えれば、自らの言語、社会組織、歴史、習俗、自分達の生き方、独自の言葉と「文化」を持つエスニシティであるという自己認識の獲得である。

 

ろうであることが病理的なものとしてしか見なされなかったのは、前述したような手話を用いることが聴者にとってはそれほど重要とは認識されてこなかったからであり、実際歴史の上で手話は聴者によって(ろう学校という教育の現場においてさえも)抑圧、禁止されてきた。しかし手話は聴者によって抑圧されはしたものの、ろう者の間では消えることなく、むしろ独自の言語体系(文法、語彙など)を確実に身につけながら存在していた。日本においては、これが「日本手話」と呼ばれる手話なのである。手話という言語は、音声言語が国によって文法、発音、そして語彙に至るまで多種多様なように、国それぞれで大きな違いがある。日本手話は、日本に住むろう者(約3〜4 万人)の母語である。ろう者の約9 割は、手話を話さない健聴の親のもとに生まれ、ろう学校の児童集団の中で事実上の母語である手話を習得する。約1 割のろう者だけが日本手話を話すろうの両親のもとに生まれ、通常の言語と同様、家庭で母語を習得する。日本手話は1993年になって初めて公的に認められるようになり(文部省の「聴覚障害児のコミュニケーション手段に関する調査研究協力者会議報告」)、ろう学校でも教えられるようになった。それ以前、ろう学校では主に、ろう者に音声言語を唇の動きだけで読みとり、その口の形を真似て音声によって日本語を話す読唇法(口話法)を強制してきたが、これによって音声言語を読みとり、声に出して喋られるようになる生徒は、少数であった。

ここで一つ注意しなければならない事が、「日本手話」という言語と、一般に健聴者が理解している「手話」との違いである。日本手話は日本に住むろう者の母語である事は先に述べたが、この日本手話と、街の手話サークル等で使用されている手話とでは、文法や語彙に大きな違いがある。後者は、「日本語対応手話」、あるいは、「シムコム」とよばれ、日本語を手指の形状や位置・動きなどで表現したものであり、文法などは基本的に日本語と同じであるため、日本語を母語として育った聴者や中途失聴者がおぼえるには便利なものである。しかしそれはろう者が独自に使用する日本手話とはまったく別のものである。ろう者もシムコムを解しはするが、それは極めて効率の悪いコミュニケーションとなる。日本語対応手話もシムコムもそれを用い暮らす人(主に中途失聴者)がいる限り大切であることには変わりはないのであるが、どういうわけかほとんどの手話サークルや手話講座では、主にこの二つが教えられ、日本手話については触れられないという状況がある。

 

ろうであることについての認識が病理的な問題としてだけ捉えられるべきではなく、「文化」として捉えられなければならないという考え方は、日本においては、1995年の『現代思想』誌での木村晴美、市田泰弘による「ろう文化宣言、言語的少数者としてのろう者」という宣言によって公になった。「ろう文化」という言葉は日本では比較的新しい言い方であったが、ろう者が自らを文化集団として規定する傾向は国際的な傾向であった。以下がその宣言からの引用である。

 

「ろう者とは日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、言語的少数派である」これが私たちの「ろう者」の定義である。これは「ろう者」=「耳の聞こえない者」つまり「障害者」という病理的視点から、「ろう者」=「日本手話を日常言語として用いる者」、つまり「言語的少数者」という社会的文化的視点への転換である。このような視点の転換は、ろう者の用いる手話が、音声言語と比べて遜色のない、“完全”な言語であるとの認識のもとに、初めて可能になったものだ。

 

この宣言では、この執筆者やろう文化運動の推進者たちが考え出した定義が挙げられているのではなく、ろう者コミュニティの成員皆に昔から共有されていた認識・実感がそのまま文章化されているという。それ故、ろう者にとって「ろう文化宣言」とは、新しい考え方を提起するものではなく、コミュニティの内部にあっては常識である事柄を、それについて知らない外部の人、つまり聴者にむかって発信したものということになる。この宣言で重要な点は、ろう者への自文化への誇りと関心を喚起したこと、そして聴者社会に対し、言語としての手話の独自性をてこに、「障害者」というマイナスのラベルを返上し、自分たちを文化的マイノリティとして定義しなおしたことにある。

 

この宣言を出さなければならなかった理由とは一体何であろうか。私達はそこを考えなければならない。それは言うまでもなく、長年にわたり、聴者によって抑圧されてきたろう者としてのプライドが生んだものであり、聴者社会、その当たり前だと思っている認識がある種の人々を無意識的に疎外し、傷つけているということを気付かせるものであるのだ。

しかしこの宣言にはある落とし穴がある。それは、ろう者が日本手話という言語をてこに、自文化というものを謳ったことそのものにある。すなわち、ろう者独自の中心が存在するとしたら、その周縁に位置づけられる難聴者や中途失聴者はどこに活路を見出せるのか、ということである。病理的な視点から聾の状態にあると判断された人、その誰もが日本手話を話すわけではない。特に中途失聴で聾の状態になった人に関しては、それ以前に習得した日本語が母語となる。この宣言においては、それらの人々の事が忘れられている。

しかしいずれにせよ、健聴者である私達にとってこの宣言の残した意義は重要である。同じ日本に、日本語とは全く異なる言語を扱い、音のない世界に生きる人々がいる、そして聴者はその人々を抑圧している。「ろう者」とはなにか、そして「聾者」とはなにか。それを理解する際に、彼ら独自の言語、文化というものを絶対に忘れてはならないのである。

 

 

「聾者」の視点から

 

 次は、私が聾者について調べていく中で、彼らの、特に印象に残った文章を紹介したい。それらは、彼ら独自の視点によって書かれたものであるため、多くは聴者である私達には気付かないようなことであるかもしれない。しかしそれらを知る事で、私達が聾者の世界について考えるきっかけになり、ほんの少しでもろう者に近づくことができると思うのだ。

 

いま、私は自分の耳が聞こえないことは否定しない。ろうであることを誇りにしている。だから、耳が聞こえないことを病理的だとする見方をなくす必要があると思う。ろう者の多くは、自分たちがハンディキャップを背負っているとか、障害を持っているとは考えていない。なぜなら、最初からなかったものなのに、それが欠けているなんて、どうしたら感じられるだろうか。(中略)ろう者の多くは、最初から音を聞いていないから、聞こえないことを残念には思わない。そこには、ハンディキャップを背負っているなんていう気持ちはない。われわれがハンディキャップを背負っているとか、障害を持っているなんてことを言うのは、聴者世界のほうなんだ。

 

この文章は、ある先天性のろう者によって書かれたものである。ここでは、筆者が生を受けたその世界が、彼にとっては何か不自由なものであることが語られ、その原因は、同じ世界に生きる大多数の聴者によるものだとされている。彼にとっては、自分が「障害者」という言葉で括られること自体に納得がいかないのであり、その言葉自体が聴者主義的であると感じているのだ。ここには、健常者が絶対に経験的には感じる事のできない世界観がある。

 

読唇しようとするとサムはよけい緊張してしまう。読唇を試みるのは「指紋を見抜く」のに似ている。指紋と同じで、人の唇は皆違うし、動かし方も人それぞれである。子供のときには、「ボール」「魚」「てっぺん」、それに「靴」と先生の口の動くのがわかると、それなりの自信を得る。でも、単語がこれらの4つ以外にもあるとわかると、その自信がすぐ消えてしまう。唇の動きから読み取ることのできる単語の70%は、ぼんやりとしか聞こえない。読唇は負担の大きい、残酷な技術で、それを使えるのは習得しているわずかの人だけである。多くの人は試みてもうまくいかず、苦痛を感じるだけなのである。

 

この文章は、あるアメリカ人の先天性聾者が、その彼よりも語彙力のあるろう者に、彼の語った事を代筆してもらった文章である。ここでは、ろう者の使用する言語である手話(アメリカにおいてはASL)が社会一般に認められる以前にろう者に強制された、読唇(唇の動きを見ることで相手が何を喋っているか理解すること)という方法の難しさ、残酷さ、そしてそれがもたらすコミュニケーション一般に対する苦痛、疲労といったものが読みとれる。次に引用する文章も、この人物が語ったことを代筆者が文章に直したものの中から引用したものである。

 

サムはブライアンの年齢のころ(7歳)に恐ろしい経験をしたのを忘れられない。夕食の会話から取り残された、精神的孤立であった。皆は会話を楽しみ、笑い声を上げていた。でもサムは一人ぼっちで残されていた。それは、砂漠に一人で立っているような、地平線の向こうまで人っ子ひとりいないような感じだった。すべてが蜃気楼のごとく、見えるけれど触ることのできないような、仲間にはなれないような感じだった。つながりが欲しかった。息が詰まりそうだったけれど、この恐ろしい気持ちを誰にも伝えられなかった。どうしたらいいのかも分からなかった。誰も分かってくれないし、理解してくれないと感じていた。(中略)彼は、発話と読唇の厳しい訓練を15年も続けるよう周りから期待されていた。彼が期待されていたのは、どう意志疎通するのかではなくて、どう声をまねるかであった。それは自分でどう語るかということではなかった。両親は手話の学習に一日一時間でさえ与えてくれなかった。それは人生さえ帰る一時間であったのに。かわりに、サムにとって一番自然な表現形態は、卑俗だといって禁止されていた。大人たちは、コミュニケーションが方法とか会話以上のものだとは思いもしなかった。コミュニケーションとは所属感であり、相互理解であり、人間として他の人を相互に尊敬しあうことだということを、考えなかったのだ。

 

この文章においてサムは、幼い頃に感じた、聴者である彼の家族との断絶感、そして彼の精神的孤立を語っている。そして一人の人間にとって、意志を伝達する手段としての言語(それがいかなる形式にせよ)というものがいかに重要であり、それを持ちあわせないことがどんなに辛い事であるかを痛感させられる。手話を禁止していた聴者社会は大きな罪を犯していたのだ。サムのこの幼い頃の経験は、自分とは異なる言語圏の国に訪れた際に起こるような現象と似ている。異国において、居合わせた人と意思疎通する手段を持ち合わせないということは、必ずいくらかの孤立感をもたらすものである。しかし、サムはこの文章の最後の部分で、その意思疎通の手段としての言語以上に重要なものがあると言っている。私にとってそれはまさに、コミュニケーションするということの本質であるように思えるのである。コミュニケーションとは、単なる伝達の儀式や、その手段以上のものである。それは所属感、相互理解、そして人間として他の人を相互に尊敬しあうことだというのだ。音声言語を使用し、様々なメディアを通して他人とやり取りをすることに慣れてしまっている私達は、この事を忘れがちになっているのではないか。手段としての言語が重要であることに変わりはないが、本来コミュニケーションは、情報を伝達するということ以上のものではなかっただろうか。人間は、言葉を交わさずとも、目で、あるいは全身で触れ合う事で、他人と何かを共有できるものなのだ。その瞬間、刹那に生まれる相互に働く感覚は、その当事者たちがお互いを認め合い、尊敬することから生まれるのである。

 

これまで引用してきた文章は、主に聾者が感じる疎外感や、孤立感といったもの、言うなれば、聴者社会との非一体感とでも言えるものが著されていた。次に引用するものは、聾者が聴者との壁を超えて、ある種の一体感、所属感とでも呼べるものを共有した、そんな例である。彼女は30歳の時に完全に失聴し、聾の状態になった小学校教諭であり、聾の状態になってからはコミュニケーションの難しさから、何度も先生という職業をやめとうと思ったという。そんな彼女が校内の音楽会、そしてその後の授業において体験した出来事である。

 

これまで、音楽会といえば、ただ様子を見ているだけ、「みんなで一緒に歌おう」の時間は口をパクパク開けていただけで、一緒に楽しむことは出来ませんでした。でも、この時は、音楽の先生が私も一緒に楽しめるようにと、「手話を付けてみんなで歌おう」と提案して下さったのです。

 手話クラブの子ども達に事前指導を行ない、当日を迎えました。舞台の前に立ち、手話を付けて歌い始めるとなんと体育館一杯に手話が広がりました。1年から6年までみんな一緒に手話をつけて歌ってくれています。思わず、今まで止めていた声も出て体中で歌いました。あきらめていた歌がみんなと一緒に楽しめた感動は大きかったです。

その感動を午後の授業で伝えたら、3年生の子どもたちから思わぬ反応が返って来ました。「先生、声を出さないで手話だけで名前を呼んで」と言うのです。そこで、出席番号順に呼ぶと、「つまらない。初めから名前わかってるもん。ごちゃ混ぜにして呼んで」というのです。

「本当にできるの?」と思ったけど、教室がシーンとなり、全員がわたしの口元に注目し、全員が自分の名前を手話で読みとって手話で返事をしてくれました。私と子どもたちの心がぴたっと一つになった瞬間でした。

 聞こえなくなって初めて心が通じ合ったと思いました。他のクラスでも同じことが起きるのか試してみました。すると見事に同じ事が再現されました。特に、授業に集中することが難しい子どもがいるクラスの子どもたちが、一転して集中しました。

声を出さず手話だけでやりとりができたんです。「やった!これだ!やっと見つけた。」と思いました。子どもたちが、聞こえない私をそのまま認めてくれたんですね。

 

彼女が授業において体験したこと、それはサムの言うコミュニケーションそのものなのではないだろうか。生徒の名前を手話で伝達するということ、その行為自体がコミュニケーションなのではなく、先生と生徒一人一人がお互いの違いをそれとして認め合い、相互に理解しあう。そこにあるのは所属感であり、一体感なのである。互いに認め合い、心を開くことがその手段よりも重要であり、そこに存在する感覚を共有すること、それがコミュニケーションの本質なのだとこの例は教えてくれる。それまでほとんどの生徒とは手話で会話することがなかった彼女が、音楽会で思わずそれまで止めていた声を出したのも、そこにおいて手話が共通の言語として使用されたということ以上に、皆が違いをそれとして認めてくれたという嬉しさ、そしてそこで生まれたであろう所属感を考えると納得できる。

しかし私はこの音楽会の例に関して言えば、単に音声言語に代わる手段として手話が使用され、誰もが認めてくれたという所属感、それだけではない何かを感じるのである。それは、音楽の持つ力であり、むしろ、音楽にしかない何か特有の絶対的な力である。

 

 次の次章において音楽というものについて述べるために、次は聾者の音楽に対する一般的なイメージ、音楽観というものを紹介しておきたい。

 

 あなたは多少なりとも聞こえる音もあるから、音楽なんかのんびり、やっているのだろうけれど、でも考えてごらんなさい。音楽なんかやってもしょうがない。年老いればいずれ耳はもっと聞こえなくなるのだから。

 

この文章は、ある聾者が友人の聾者から言われた言葉だという。

 

音楽の話をするなって、あなたはそれでもろう者なのか

 

これも聾者同士の会話の中の一場面である。

 

歌詞の最初に「海」という言葉が出てくる歌の「ウ」の発音をみんなの前で何度やらされたことか!
 みんなの発音する「ウ」と、私の「ウ」はどこが違うのか? 悔しかったです。先生はあきれて「もういい」と言い、私を壇上から引きずり下ろしました。自尊心を傷つけられた私はしばらくふてくされて、この先生を嫌い唱歌にそっぽを向きました。

 

これは、その当時難聴(現在は聾)であった人の文章である。彼は普通校に通っていた。そして次の文章も普通校の音楽の授業における聾者の体験である。

 

苦痛だったのは、ろう学校時代の音楽の授業ではなくて、高校に入ってからの授業でした。ろう学校にいるうちは、ろう者なのだから適当にやっておけばいいやという部分もあったのですが、普通校に行っての音楽の授業というのは、みんなできる中で私一人だけかけはなれているわけでしょ。楽譜も読めないし、フラットだのシャープだの書かれている記号の意味もわからない。高校一年の時には音楽が必須科目になっていたので、なんとか辛抱して、ひたすら耐え忍んだのです。

 

次に紹介する文章は、アメリカのろう者運動の指導者MJ・ビエンヴニュが、日本で行われたろう者のイベントでCODA(Children of Deaf Adults: ろう者の親を持つ聴者)が行った手話歌を批判したものである。

 

彼らはろう者ではないということに気づくべきです。彼らはたしかにろうの両親から生まれ育ち、日本手話を話すこともできますが、大事なのは彼らはろう者ではないということです。音楽はろう者に馴染めないものであると言うべきだったと思います。そもそも聾文化に音楽というものはありませんから。

 

 この文章は、非常にショッキングなものである。なぜならそれは、ろう者運動を率いていく人間が、その所属する文化には音楽は存在しない、と断言しているからである。そして同時に手話歌を批判している。それは、聴者の作った音楽の押し付けであると感じられるというのである。

これまで紹介した聾者の、音楽に対する意見に共通するものはなんであろうか。それは音楽に対する敵対心、そして音楽は聴者のものであるという認識である。音楽の授業では細かい発音や音程の違いを注意され、修正を求められる。聾者にとっては音楽の授業ほど辛く、退屈な時間はないのかもしれない。このように聴者によって押し付けられる音楽を体験した後で、果たして聾者は音楽を好き、と言えるだろうか。聴者に半ば対抗する形で表明しなければならなかった「ろう文化」、そしてそのコミュニティの中においては、聴者のものである音楽は、受け入れられないのも納得できる気がする。しかし、ここで思い出して欲しい。カラオケが大好きな聾者もたくさんいるのだ。これはどういうことなのだろうか。ここにもやはり、聴者の無意識的な抑圧の力が働いているのだ。聾者から音楽を遠ざけているのは聴者である。音楽を聴者のものだけにしないために、私達は音楽について考えてみる必要があるだろう。

 

第二章   音楽とは

 

西欧音楽の変遷、芸術音楽、音楽を聴くこと

 

音楽は人類が文明社会に入る以前の原始時代から存在していたようである。無文字社会においても音楽があったことが確認されている。古代の音楽は、言葉との関係が密接で、声楽が中心であったと推測されるが、楽器も弦楽器、管楽器、打楽器と各種のものが遺跡や彫刻から確認できる。彼らにとって音楽は精神に働きかける魔力を持ったものとされ、宗教儀礼や医療の手段として重要な役割をもっていた。彼らの音楽は、記譜法が未発達であったため現代において再現不可能であるが、その使われ方、役割、特徴は古今東西共通して、祭祀、宗教との密接な結びつきにあり、音楽はその当初において、その社会的相互作用が重要視されていた。

原始時代からはじまり、古代、ギリシャ・ローマ、ロマネスク、ゴシック、ルネサンス〜という風に西欧音楽における時代は区分されているが、ここで大事なことは、音楽が西欧においてだけ存在していたのではないという事である。よく言われるように、音楽のない民族はない、のである。しかしここでは、日本にも多大な影響を及ぼしている西欧音楽を取り上げていく。

 

西欧音楽のその歴史は、音楽の芸術化という現象を生み出すものであった。それには様々な規則、一定の法則が生み出されることが必要不可欠であったといえる。例えばその一つに、「音律」が挙げられる。音律とは、音楽に使われるすべての音の音高関係を、一定の原理に従って厳密に決定したものである。その最も初期のものの一つとされるのが、古代ギリシャの数学者であるピタゴラスが作った「ピタゴラス音律」である。中世のキリスト教音楽はこの音律に依拠しているのであるが、この他にも時代や民族によって様々な方法が存在したといわれる。音が数学と密接に関連しているという事実は、古代の人間が突き止めた画期的な発見でもあった。私達が学校の授業で教えられ、そして慣れ親しんでいるものは「平均律」と呼ばれ、これは音の世界を12音で切り取るものであり、19世紀頃から始まるピアノ、そしてその他の楽器の大量生産に伴い全世界に普及した。それまでに使われた音律は、近代の西欧人の「効率化」「合理化」といった精神のもとに影を潜めることになったのである。西欧近代化の産物である平均律はヨーロッパ、日本だけでなく全世界でなお影響をもっているが、その平均律によって音の世界が切り取られる事に疑問を投げかけ、その他のかつて存在した音律、例えば「純正律」に新しい音楽の可能性を求める音楽家も存在する。

 

西欧音楽におけるもう一つの重要な革新は、記譜法の発達であった。これも古代ギリシャにおいて発明されたものであった。私達が親しんでいる「五線記譜法」は平均律に基づくものである。記譜法が発達することで、音楽を可視なものにすることができ、それによって一つの曲が何度でも演奏されることが可能となった。これは芸術音楽が誕生することとなった一つの要因である。というのは、記譜法によって音楽が視覚化されることが、作曲することの効率化をももたらしたからである。それまで曲を創るということは、時間のかかることであった。実時間の逐次処理に基づいて音を組み替えていくことでしか作曲は成され得なかった。しかし、記譜法は、音符が構成する連節性の情報構造を、直観的に把握しやすく、操作しやすいグラフィック表示の形で、リニュアリティーの高い時間空間座標の上に描くことを可能にした。ベートーベンは失聴後もなお優れた名曲を生み出した。それは音楽が記譜法によって視覚化されることが必要不可欠であったと考えられるだろう。  

 

このように、現代にあふれる音楽は、過去の歴史における音律や記譜法の発達の上に成り立っている。今私達が触れている音楽のほとんどが平均律、そして五線記譜法といった西欧音楽理論の近代化の産物に基づいており、それが音楽の「基礎」とされているのである。その西欧的な「基礎」が確立され、世界中に伝播することは、西欧的な音楽概念が浸透することでもあった。その際に、西欧のクラシック音楽が芸術音楽とされ、高尚なものとして捉えられるようになっていったのである。

西欧音楽が高尚なものとされていったのは、それが「基礎」に基づいてぎっちりと理論家されていったことが一つの要因でもあったが、それには、「音楽家」「作曲家」そして「演奏家」といった、音楽における専門分化が進んだということが大きく関係している。そして音楽は、時代の流れに伴うメディア機器の発達、音楽の産業化ということに影響され、多様な姿、役割を演じることとなる。

音楽がコンサートホールで演奏されることとなったのは17世紀の後半のことである。それまでは当然そのようなコンサートが音楽生活の主要なあり方ではなかった。17世紀以降、音楽それ自体の在り方が大きく変わったのである。コンサートという形式の定着は、「聴衆」を生み出す事となった。もちろんそれは、「作曲家」「演奏家」という音楽に携わる職業を生み出すことにもつながり、それらの人はそれ以降、聴衆と一線を画す存在となったのである。それら音楽に専門的に携わる人々が生み出されたことは、音楽が高尚なものと認識される第一歩でもあったのだ。そしてさらに音楽はその存在規定を多様なものとしていく。

情報メディア技術の発達は、コンサートの登場で生み出された聴衆に、新しい音楽の楽しみ方を提供していった。LP,カセットテープ、CD、MD、MP3データといったようにアナログからデジタルへ、演奏される音楽は一挙にデータ化されることとなる。これによって音楽はその「一回性」を失い、大量複製されて幅広く民衆に広がるのである。それに伴い、高尚な存在であった音楽とは別に大衆好みの「ポピュラーミュージック」が生まれ、世界における様々な民族音楽がデータ化され、異文化の人々の手もとに届くようになる。音楽産業はこのように新しいタイプの聴衆に支えられて成立することとなったのだ。新しいタイプの聴衆、それはすなわち「音楽を一人で聴く」人々である。音楽を一人きりで聴くということは、それまで不可能なことであった。コンサートにおいて他人の反応を気にしながら演奏を鑑賞することもなく、自分が選んだ音楽に集中し、完全に一人きりで音楽を享受することは聴衆に素直に受け入れられ、浸透していった。誰も音楽会に足を運ぶ必要がなくなったのである。現代の高度な録音技術、ステレオシステムによって、一人きりの聴き手にとっての音楽の重要性は高められた。様々な音楽ジャンルを鑑賞できること、そしてそれを他人にかまわず何度でも楽しめること、そこが魅力であり、現代はこのような音楽ファンが多く存在する。彼らにとっては、音楽は「聴くもの」であるのだ。そしてそれらの人によってこの産業は支えられている。

 

このように「一人で聴くものとしての音楽」という嗜好は、明らかに歴史においては新しいものなのである。かといって、演奏する人が減ったわけではないし、コンサートの回数が減っているとは到底思えない。実際クラシック音楽の生演奏を聴く聴衆の数は20世紀を通じて増え続けてきたのだ。要するに「音楽好き」が増えたということである。彼らは楽器を触って実際に演奏する楽しみも知らないわけではないだろう。しかし明らかに、現代人の音楽観は「聴くこと」に無意識に依っていると考えられるのだ。音楽は楽しむものである、とはよく言ったものであるが、この「楽しみ方」が何か偏ってしまっているような気がするのである

音楽が人間にもたらす影響は、計り知れない。その一つ一つが音楽の力であり、音楽独特のものであると人は考えてきた。音楽は視覚芸術が人間にもたらすいかなるものとも違う影響を人に与える。それは音楽を聴くことで独特の「覚醒」(個人によって多少違いはあるが)の状態を味わえることであったり、あるいはショーペンハウワーが言ったように、「人生の試練や苦悩から私達を解放してくれるもの」であったりするのかもしれない。しかし、音楽の力は、これら音楽を「聴くこと」でもたらされるものだけではないのだ。なぜ音楽が生まれることになったのか想像してみよう。音楽の起源を何らかの実証性をもって立証することは不可能であるが、音楽が生まれる瞬間、それは何らかの理由で人間が「音を発したこと」に由来するのではないだろうか。そしてそれが集団のものとして発展していった。ルソーは、最初に人が言葉を発したのは必要からではなく、その強い「感情」からであり、その「情動を伴った他者への発話」が音楽の起源だとしている。その説が正しいかどうかは私には分からない。しかし、音楽は何かを他者へ「発する」ことから始まったということには納得できる。音楽は「演奏する」こと、「発する」ことから始まるのである。そして、一人で聴くことに慣れてしまっている私達は、忘れている。音楽は歴史においてもっぱら集団行為であったのだ。音楽は感情を伝える手段として、また、集団において個々人の間の絆を強める手段として重要性を保っている。ヴァイオリニストのユーディ・メニューインはこう述べている。「音楽は混沌から秩序を創りだす。なぜなら、リズムは互いに異なるものに完全な一体性を負わせ、メロディーはばらばらなものに連続性を負わせ、ハーモニーは不調和なものに親和性を負わせるからだ」彼のいうような秩序、そこに生まれる一体感、それが音楽の力であり、それはその音楽、その空間にいる人だけが感じる、特別なコミュニケーションなのである。本来音楽は高尚なものではなかったのだ。音楽は人間には欠かせないコミュニケーション形態として、もっと身近な存在であったのだ。いや、今もそれは変わらないはずだ。私は「音楽を一人で聴くこと」を否定しているのではない。実際私も新しいタイプの聴衆の一人である。人間と音楽の関係は多様であり、人間はそこから様々な影響を受けることができるのだ。一人で聴く音楽もいいが、皆で演奏するその瞬間、同じ秩序に身を任せるその感覚、それが私達が忘れてはならない音楽の一つの醍醐味なのである。

 

おわりに 〜音楽する聾者〜

 

 これまでに、聾者についての一般的理解、彼らの音楽観、西欧音楽の歴史、現代の私達の音楽観、そして音楽の様々な力といったことについて述べた。私達が音楽を指す際に、その概念、役割はあまりにも偏ってしまっている。その偏った音楽観が、聾者を音楽から遠ざけてしまい、聾者が「音楽は聴者のもの」といった認識をもってしまう理由の一つであるのだ。音楽は聴者だけのものではない。音は耳だけで聴くものではないのだ。聾者は振動として音に触れることができる。そしてそれは聴者には決して感じることのできない世界なのかもしれない。しかし、そこにある「音」は、間違いなく聴者、聾者が住む共通の世界に在るのであり、感じ方は違えど、同じ秩序をもたらすものであるのだ。聾者が感じる音、世界観を、聴者が違いとして認め、尊敬すること、これが私達には必要である。

音楽という共通の秩序、そこに心を任せることができれば、私達人間は、頭でなく、心で近づくことができるかもしれない。なぜなら音楽は肌の色や文化、障害をも越えることができるコミュニケーション手段であると思うからだ。音楽を聴者だけのものにしないために、聴者が音楽について柔軟に捉えること、音やリズムに敏感になることが大切である。そうすれば、人間が本来、いかに音楽と結びつきのある存在であるか気付くだろうし、音楽はすべての人のためにあるのだということが理解されるはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#1「響きの歌」、それは聾者の子供たちと佐藤慶子さんという音楽家(聴者)からなるワークショップである。彼女は、人間ならば皆が持っている聾者の音楽的感性の芽を、聴者によってつまれてしまう前に育てていくため、このワークショップを1986年に始めたという。それは、聴者と聾者が共に楽しめる音楽を創っていく、全く新しい試みでもあるという。それにはまず、聴者が考える音楽という概念をとっぱらうことが必要なのだという。

 

 参考文献

 

『アメリカのろう文化』/ シャーマン・ウィルコックス編

/ 鈴木清史、酒井信雄、太田憲男 訳/ 明石書店

『障害学への招待』/ 石川准、長瀬修 編/ 明石書店

『障害学の主張』/ 石川准、倉本智明 編/ 明石書店

『現代思想』1995年3月号/ 木村晴美、市田泰弘「ろう文化宣言 言語的少数者としてのろう者」
『五感の音楽』〜音のない音楽への扉〜/ 佐藤慶子/ ヤマハミュージックメディア

『「聴く」ことの力』〜臨床哲学試論〜/ 鷲田清一/ TBSブリタニカ

『音楽する精神』 アンソニー・ストー著

/ 佐藤由紀 大沢忠雄 黒川考文 訳/ 白揚社