グループ研究「ポストモダニティの条件」論文

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      「ものかなしい世の中」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                          国際文科学部

                          国際文化学科4年

                          f01g0420

                          村石 美羽

 

 

 

 

1、はじめに

          〜3週にわたる研究・議論を振り返って〜

 

今回、「ポストモダニティの条件」を3週にわたって、議論、研究してきたことは私にとってとても有意義であった。それは、ひとつのテーマ(モダニズムとポストモダニズムの関係)を時間をたくさん費やして、研究することが出来たからだ。このテーマはやればやるだけ、知識や意見が深まるからおもしろかった。とはいっても、まだまだ研究したりない部分はたくさんあり、このテーマについて私的に煮え切らない部分も多いのもたしかであるのだが。

 モダニズムは、「神話」、「不易なもの」、「大きな物語」など、本文では多様に表現されていたが、「永遠性をもった何か」を求める動きや考え方がその特徴となっていた。あらゆるものの中にひそむ、共通の「神話」を見つけ出そうとする。だからこそ、そこには矛盾した結合や、不統一からなる結合というものがおこるのである。しかし、ポストモダニズムはそれとは反対に、「分裂症」、「断片化」、「易なるもの」を認める。つまり、あらゆるものを認めようとするわけだ。そこに一貫性がある必要性はない。

モダニズムからポストモダニズムにおいて、世間や社会の存在状況は変わっていないと私たちのグループは考えた。変わったのは、人の物に対する見方、考え方である。

議論でもあったように、モダニズムとポストモダニズムは決して断絶などはしていない。両者には、メタ理論と言うものが存在していたからだ。そのメタ理論こそ、権力と結びついたものだった。つまり、資本主義という私たちが逃れることの出来ない、システムだ。

ポストモダニズムにおいては、その資本主義の力が、さらに強まったものになっているにもかかわらず、私たち生活者(大衆)には、そのことは認識できない。資本主義が生み出した、利己主義的、排他的な考えや、あくどい計画消費に私たちが気付く余地はない。なぜなら、今の現代においては、資本主義は何か特別なものではなく、私のあたりまえの生活の根底になっているからだ。実は企業家や、テクノクラートの権力の支配下にいる私たち。だけれど、私達はそのことに気づくはずもない。ここに資本主義の怖さがある。

 

                〜資本主義の怖さ〜

「資本主義の怖さ」について、詳しく述べたい。なぜなら、今回このグループ研究を通して私が一番に関心を得たことが、資本主義の怖さ、だったからだ。

文献を通して知った資本主義は、「隠蔽」という、悲劇的な作用を引き起こすものであった。ポストモダニズムの「模倣」とあいまって、資本主義はいわゆる他者として認識されやすい、マイノリティの人々を脱権力化するということだった。また、資本主義において「貨幣」という、誰もが同じ土台に立つことのできるシステムが確立してしまったおかげで、貨幣が権力の象徴となってしまい、企業家の絶え間ない利益追求が行われる。その結果、表層において差別化をはかる意味で、ポストモダニズムの美学的介入(表層)が、権力の表象となってしまった。

このように、ポストモダニズムとあいまって、あらゆることに悪循環を及ぼしてしまっている資本主義を、私は「資本主義の怖さ」と言いたい。

そして「ポストモダニティの条件」を研究した後、自分の生活を少し客観的に見たときに、私は自分が今の生活で感じている様々な疑問や、イヤだと思う事柄が、どうも資本主義から、ないし資本主義とポストモダニズムの絡み合った複雑な状態から、起こっているのではないかと、感じ始めた。つまり、「資本主義の怖さ」が私たちの生活の色々なところに転がっているとい感じたのだ。

そこで、今回この論文を「生活に転がる資本主義の怖さ」というテーマで、書き進めていきたいと思う。なお、生活に転がっているという点では、私が日常に感じていることであるので、少し主観が強くなってしまうかもしれないが、そこのところは了承いただきたい。

 

 

2、生活に転がる

 それでは、具体的にどのようなところに、「資本主義の怖さ」が影響した「生活」が転がっているのかを挙げたいと思う。

     隣人に挨拶をしない人々、他者に無関心な私たち(特に東京)

     見かけを妙に気にする若者(残念なことに私も含んでいる)

 

上記の2つの事柄は必ずしも、一つ一つが独立して論じることができる事柄ではないが、混乱をさけるためにも、一つ一つ見ていくのがよいと思われるので、そのようにしていく。その際に、相互に話が重複してしまうかもしれないことをお詫びしたい。また、これらのことを「資本主義の怖さ」と結びつけて論じた後に、最終的な結果として、今の現代はどんな状態にあるかということを結論づけるつもりである。

 

        〜隣人に挨拶をしない人々、他者に無関心な私たち〜

 挨拶は人の基本である。だから人に会ったら挨拶をするのはあたりまえである。と私は思っている。しかし、皆さんも感じているように、挨拶のない世の中が現前にある。就職活動をしていても、「挨拶をしなさい」という注意が促されるときもあるし、私の住むアパートの隣人たちは、私に会うと、目をそらしがちにそそくさと通り過ぎようとする。そんな態度をされると、私も挨拶をしていいのかな?という気にさえなる。

 では、あたりまえに、挨拶が出来なくなったのはいつからか?

大昔は物々交換によって、人々は食料なり物なり、自分の生活に必要なものを手に入れなければならなかったので、否が応でも、隣の人と会って、直接交流しなければいけない社会であった。だからこそ、挨拶はあたりまえに行われるものだったに違いないし、隣人と交流するのも日常であった。また、物々交換社会では、相手の「生活」もある意味、自分の「生活の一部」として考えられる。だから、相手の生活の動きや、状況を、相手と交流することで把握していなければならなかったとも考えられる。つまり相手に関心がなければ、自分たちも生きてはいけない世の中であったということだ。

 私が、挨拶をしない世の中を強く感じはじめたのは、上京してきてからだった。地元の浜松に居たときには、外を歩けば、誰かしら近くに住む人に会うので、「あら、どこどこの何々さん。こんにちは。」から始まって、会話が自然と、生まれる。それが、上京してからは、アパートの住人とすれ違っても、挨拶もしないし、ましてや隣の人が何をやっているかを知っているなんて、ストーカーとというか、プライベートの侵害のようにさえ感じてしまう。

 昔と今、東京と浜松。一体何が違うのか?

 それは、資本主義を軸とした利潤追求のあり方の違いかと思う。東京は流行や情報の発信地であるから、物の移り変わりが本当に速い。これがいわゆる、「ポストモダニティの条件」で述べられていた、「はかないもの」、「うつろいやすいもの」であると私は思っている。企業家や、流行をしかける人たちが、利益を追求するのに、「東京」や「今」はかっこうの場所であり、時であるのだ。利益を追求するために。企業家たちは次から次へと物をもたらしてくる。そして、東京には新しい物が集まりやすい。もしかしたら、集まりやすいことを利用して、企業家たちが物をしかけているのかもしれない。そして、この循環が、人に、自分だけの欲望に関心を持たせるようにしているのではないかと感じる。

 人に頼らなくても、生活をしていける。さらに、物の移り変わりが速いから、自然と自分の物に対する欲望の移り変わりも速くなり、自分の物欲を満たすことだけが自分の関心の対象となってしまうというわけだ。こうして、人は他者に対して、関心がなくなる。他者と交流をもたなくても、やっていける世の中がもっとひどくなることで、他人との交流の第一歩である、挨拶までも失われかけているというわけだ。

 浜松にも確かに、流行の流れはあるし、資本主義のシステムの中にいるわけなのだが、何かが違う。少なくとも、流行の流れや集められる新しいものの度合いも、東京より少ないし、遅い。(東京に追いつけ追い越せといったような風潮もあったが)人が、自分の欲しい物だけを追いかけているという状況ではなかったように思う。

 「東京」、「今」を他人との人間関係の点で、寂しく感じてしまうというのは、上記のような、資本主義のもたらした影響のせいではないかと私は思っている。

 

〜見かけを妙に気にする若者たち〜

 

 今の若者のもっとも重要な関心ごととして上げられるものに、「見かけ」がある。女性もののファッション雑誌では、きれいになるための化粧法や洋服の着こなし方が、男性ものの雑誌においても格好よくなるための着こなしやら、なんやらがよく紹介されている。また、そういった雑誌の量もわずかに1,2冊というわけではなく、驚くほどにたくさんの雑誌が出ており、現代の若者の最高の関心事とといえるのは言うまでもない。

 どうしてこんなにまでも、見かけばかりを気にする風潮が出てきてしまうのか?それは日本が裕福だからといえば、それまでかもしれない。つまり、裕福だからこそ、人間の最低限(衣食住)以上のものに興味をしめしてしまうということだ。それ自体は別に私自身は悪いことだと思わない。日本のような社会状況において、外見を磨きたいと思ってしまうのは当然かもしれない。

 しかし、私が言いたいのは、過度に見かけにこだわりすぎて、内面を磨こうとしない人たちが多いかもしれない、見かけを気にしすぎて本来人間が個々に持っている魅力というものを失っているかもしれないということである。

 そして、この見かけばかりを気にするという行為が私が呼ぶところの「資本主義の怖さ」から生まれているのではないかというのが、私の見解だ。

 では、どのように「資本主義の怖さ」と結びついているのか?

 ここでもう一度資本主義の怖さを振り返りたい。

私が結論的に言いたいことは世の中がすべて表層化してしまったということである。

ここで、ひとつ、人々の考えが内容よりも表層を好む、表層に重きを置く風潮としてアメリカ美術のあり方を紹介したい。

 

 「アメリカ美術はまさしく消費文化の中にあったものだといえる。アメリカン・ドリームを象徴するものとして、1949年にゼネラルモーターズが発表した車に「テールフィン」というものがある。テールフィン(垂直尾翼)はただ単に飛行機の部分をカーデザインに引用したというものではなかった。というのも、テールフィンのその流線形は流体力学上は車の機能にとって何の意味もなさなかったのだ。

では、なぜ何の意味もない流線形のテールフィンができあがったのか。

 このテールフィンは実際には何の機能の役に立たなくても、そのみかけだけで、中身の性質を消費者に伝えるという役割があった。つまり流線形のテールフィンは、高スピードで、実用性のある車だということを示していた。実際にはそうでなくても。だからこそ消費デザイナーと呼ばれる人たちは、消費戦略としてテールフィンを作り上げた。

 また、後に出たテールフィン付き大型乗用車については、誰も(消費者もデザイナーも)が、「機能的には意味のない」テールフィンの存在を知っていたにもかかわらず、消費者はその商品に夢中になった。もはや、人々の関心は車の性能ではなかった。消費者は、テールフィンに象徴される無駄なデザインが、自分の欲望の大きさであり、それをかなえることのできる強い力であり、彼らの経済力を証明していると考えていたのだ。無駄が大きければ大きいほど豊かであり、自分の価値があがるということだ。」

 

 この例のごときことが、日本の社会にも起こっていた。起こった。もしくは起こっているのが私が指摘したいところの、「見かけを妙に気にする若者」である。

 アメリカの美術は消費文化とは切っても切り離せないところにあった。日本の1960年代、資本主義がポストモダンとあいまっていく時期、消費文化は日本の社会状況と切っても切り離せないものになっていたと思う。そして、アメリカのように、資本主義を基盤とした消費社会を発展させるために、人との差別化を図る目的(利潤追求)で、そして自分の権力や力や価値をあらわす手段として、表層重視の世の中が形成されてきた。だからこそ、人は表層でしか人との差別化をはかれないように、また表層でしか自分の価値を表せないようになってしまったのではないだろうか。

 また、この表層だけを気にする風潮というものが、今では比較対照としての内容、中身の概念を失っている気がする。どういうことかというと、今までは中身に対して、表層を重視しろという意味あいで、ことがなされていきていた。中身もあるけれど、表層だと。 しかし、今では中身に関しての関心はあまりない。中身があるという前提すらもなくなっているということだ。表層という言葉自体、中身があるからこそ出てくる言葉だとしたら、もう「表層」とは言えない。それに変わる言葉をなんと言えばいいのかわからないが、とにかく「ものの見える部分」に何かをすることが人々の関心のように思えてならない。

 

 そんな世の中において、若者や人々が、表層を妙に気にしてしまうのも無理のないことなのかもしれない。それが人や物の価値を決める尺度になっているということが前提化しているのだから。しかし、発展的に言えば、それが、自己主張の場であったりするから決して価値のないものとはいえないけれど、私は何かもの悲しさをかんじる。

表層でしか自分や物のの価値や力をあらわせない日本の世の中、表層で物事が決まってしまうような日本の世の中、決してそんなことばかりではないかもしれないが、表層を重視する風潮があることも事実である。そんな世の中は消費社会、物が異常に循環する資本主義が終わらない限り、終わらないのかもしれない。。。

 

〜今の現代〜

 

 人にとって物にとって大切なこととは何なのか?もちろん物事の価値基準というものは人によって違うし、さまざまな見方があると思う。しかし、1960年代から資本主義が基盤となってきた世の中に対して、私がひとつ思うことがある。

それは、人の人や物に対するちょっとした思いやりややさしさ、人のことを本当に考えるという気持ちが足りないのではないかということだ。結局人に関心を示さなくても生きていける世の中では、自分の表層だけに関心を持っていれば、万事がうまくいくのかもしれない。つまり自分の中身ものぞかれることのない世の中であることが、前提となるからだ。

しかし、こんな状態によって人は自己中心化していく。もともと人は自分のことが好きであるし、最終的には自分のためだけに生きればいいのかもしれないが、思いやりのない自分、自分のことだけを気にする自分というものは、実に悲しく心の貧しい人なのではないかと私は思ってしまう。自分のことだけ考えると人と人との交流から生まれる暖かい何かを得ることもなく、人の内面に深く入り込むことによって得られる、おどろきや、うれ、しみ、よろこび、かなしみを得ることはできないであろう。私自身も、上記のことを思うようにできているわけではない。それは、自分に対して、自分勝手だからなのだと思う。

表層は自分の一部であるが、すべてではない。それがすべて化していることは、あまりにも悲しい。もっと、他者に関心を持ち、自分の内面を他者に見せ、人間の交流によってしか得られない、ぼんやりとしたものを、感じたいし、現代の人々は感じるべきだと思う。

よく、日本よりも裕福でない国に訪れた人が、帰ってきたあとに、現地の人々との交流によって何か心の温かさ(良い意味ばかりではなく、悪い意味も含み)を感じたというようなことを言う。それは、その国には人と人同士が心を閉ざした状況がないからのように思う。閉ざすことのできる社会状況がないからであろう。日本にはいくらでも閉ざすことのできる社会状況が、資本主義のおかげで、転がっている。だからこそ、本当に大事な人間の心の交流のあり方を見つめなおし、温かい(人間くさい)人間的経験をするように心がけていく必要があるのではないか。

 

3、感想

 今回の論文は文献の参考量もすくなく、自分本意な意見になってしまった部分もあるかもしれない。しかし、私は、かねてから、このようなことに関心があり、疑問に思っていたことだったのだ。なんだか、ものかなしさを感じる対人関係や、世の中を感じてきた。だから、今回は資本主義をきっかけにこの人間にとって大事なものについて論じたかった。このことは、理想主義的に感じる方も多いかもしれない。私もそのように思う部分もある。でも、理想に思っていてもいいのではないか。理想はいつまでも心がけることができるし、自分の支えになる。

 心の温かさ、と私がいうものは、単に人間のやさしさとか、喜びとか、うれしみとか、プラスに解釈できる感情のことではない。もちろん、怒りや、悲しみ、すべて含まれている人間の本能的なものだ。人間、本能のままにいってしまったら、きっと生活できないであろう。しかし、現代の人々は、ロボットのように思える部分がある。なんだか、言葉では言い表せないかなしさを感じるときがたびたびある。もっと、自分の気持ちや感情をおもいっきり表現して心と心をぶつからせたら、面白い人間くさい世の中になるのではないかと私は思っている。変な計算高いことを考えずに、素直に感情を表現できたらとても面白い世の中になるのではないか。