水曜5限

川村・森村ゼミナール

 

 

 

 

 

 

 

「人生の結末に」

 

 

 

 

 

 

 

 

                          国際文化学部国際文化学科3年

                             01G0420

                              村石 美羽

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1、はじめに

 後期の個人研究として、私のポスターに対する興味から商業的広告を扱った。しかし、様々な議論を通し、色々なことを指摘され、私が興味を持つポスターというものが必ずしも、商業的広告には結びつかないということを知らされたり、再び広告、広告の目的とは何なのだろう?といった疑問にもかられた。後に思ったことは正直自分が何に興味を持っているのかわからなくなってきたということであった。確かにポスターそれ自体に興味はあるし、他の広告物にも興味がある。しかし、私の興味は商業的消費者広告に使われるポスターでもあり、またメディアとしてポスターを使わない広告でもあり、商業的消費者広告に使われないポスター(映画とか)でもあるのだ。確かに様々にあるメディアの中で「ポスター」というメディアは一番に好きである。しかし、自分の興味は必ずしも、どこどこの分類に属するこれこれのポスターではないというところに行き着いた。決まっていないのだ。本当にポスターとして好きだと思えたものは横尾忠則のポスターくらいでそれ以外は実際のところ格好いいとか、なかなかいいくらいのものであったようにも思えた。個人研究でもあったように、ポスターにおいて好きなところは、そのインパクトであり、その構成がどうだとか、そんなことはどうでもいいのかもしれないとさえまで思ってしまった。

 そこで、今回ゼミ論を書くにあたって、本当に何をテーマとして書いていいのかわからなくて文献や資料もどういったものをあつめればいいのかわからなくなっていた。ただ一つ自分が思っていたのは、自分には情報がなさすぎるのではないかということだった。コレだ!という決定的な何か好きなものを仮定せずに、もっと様々な種類の広告なりポスターの存在なりを知り、何が自分にとって面白いものかということを探ったり、広告やポスターをもっと様々な視点から見ていくことが重要なのかもしれないと思った。そして、手当たり次第ポスターに関するものを調べてみたり、広告に関するものを見ていくうちに、「黒枠広告」という広告の種類に出会った。「黒枠広告」というのは単純に言えば死亡告知のお知らせである。今まで、死亡告知をというものを「広告」として考えたことがなく私には新鮮であった。また兼ねてから思っていた「広告」の新しい視点の発見にもつながってくるのではないかと思ったのだ。そこで、今回はこの「黒枠広告」というものについて調べ、そこから黒枠広告からうかがいしれるものや、先に述べたように広告の新たな視点を発見できたらよいと思い、この研究をレポートとして提出しようと思った次第である。

2、「黒枠広告」とは

 「黒枠広告」というのは、よく新聞の社会面下にある「死亡広告」のことである。黒い枠で囲まれたタテ2段の小さな広告である。黒枠広告は単なる死亡記事とは違う。死亡記事というのは、例えば故人の氏名をロゴチック活字にして、右側に黒い罫線を付したもので、時には顔写真が掲載されるし、さらに大物になると一面や社会面の上の方で大きく扱われたりする。死亡記事は編集局の社会部などが「社会的に知名度があり、かつ、多くの読者に知らせるべきかどうか」といったような判断基準で掲載内容を判断して原稿を書くので、誰かが死亡しても、実際新聞に掲載されるかどうかは編集局次第ということになる。またあくまでもこれはニュースの一つなので編集局なりに客観的に事実を書いており無料なのだ。それに対し死亡広告もとい「黒枠広告」は、依頼者の意思を必要とし、掲載料金もかかる。現在では横5センチのサイズで東京本社版だと、朝日新聞では百万円、毎日新聞では六十五万円、読売新聞では百十五万五千円である。これが全国版になると同サイズで朝日新聞では百七十六万円、毎日新聞には百十九万円、読売新聞には百七十九万三千円といった具合にものすごく高い。だから誰もが黒枠広告を出すというわけにはいかないというのはあたりまえだ。葬儀費用などに多額の出費がともなう中で、それでも死亡広告を重視するのは、(あとにも詳しくふれるつもりだが)故人や家族、会社関係者等にとってこの黒枠広告によって別れの挨拶をすることに重要な意味を見出しているからにちがいない。 

また、どんなマスメディアも広告という営業部門がなければ経営は成り立たないのは明らかであるが、黒枠という死亡広告欄を設けているのは「新聞」だけなのだ。つまり、社会的信頼度を活用して、なぜかその人の「死」を世間に公表する媒体としてはやはり新聞をおいてないということになる(後の歴史でふれる)。新聞社が他の商品広告などと比べてもこの「黒枠広告」を重視しているのは新聞そのものの社会的信頼度を問われるからなのだ。紙面に「黒枠広告」が何本並んでいるのかが、そのバロメーターとなる。「黒枠広告」は依頼者側にとってのものというだけでなく、その媒体社である新聞社にも大きな影響を与えている広告なのだ。

では、「黒枠広告」には何が書かれているのか。その内容を少し見てみたい。だいたいパターンとしては3つのことを書いている。一つ目は別れの挨拶。二つ目は通夜・告別式の日時や場所、三つ目は喪主の名前だ。一つ目の別れの挨拶は、だいたいこんなかんじである。「○○○○ 儀 老衰により ○月○日午前○時○分急逝致しました ここに生前のご厚誼を深謝し謹んでご通知申し上げます」。この文章は喪主(喪主関係者)によって考えられる。しかし、この黒枠広告にはこの別れの挨拶、喪主の名前、故人の「黒枠広告」の数などにおいて様々に個人差がある。そこに黒枠広告のおもしろさがひそんでいる。そこについてはまた後にふれたいと思う。では、次に黒枠広告の形態について、その歴史を辿ってみたい。

3、「黒枠広告」在り方の歴史 〜過去の黒枠広告〜

日本で一番最初に創刊された新聞というのは「横濱毎日新聞」で、明治三年十二月のことである。そのあとも、様々な新聞の出現・消失があり、残っていく新聞は決まってくるのだが、明治六年になり新聞の広告取次業が出現し、新聞の広告欄が始まるのが明治十年だ。その頃の広告欄というのは広告編集人の筆による文章となっており、また新聞社は広告欄に対して積極的ではなかった。というのも、お金をとって広告してやるのは卑しいことで、新聞人のなすべき行為ではないという考えが抜け切れなかったからだ。その中で「黒枠広告」は最も嫌がられた広告だった。数ある広告代理店の中でも「黒枠広告」を扱っていたところは少ない。「黒枠広告」には値引きというものがないし利益率がいい代わりに、営業担当のものは新聞の死亡記事や死亡連絡を聞きつけ、すぐに故人の自宅に行き、葬儀準備中の喪主や葬儀委員長に会って「黒枠広告」の話しを切り出し広告費用の相談をするといったようなは急ぎの仕事をし、またなにかと手間もかかるのというが理由だ。何よりも社員が喪家や会社に飛び込んで「広告を出せ、お金を出せ」といったようなやりとりをするのが一番辛いことであった。

そんな嫌われた「黒枠広告」第1号は明治六年一月十四日付けの「日新眞事誌」に出ている、上野景範という人の父親の死を悼んで、友人たちが出したものである。しかし、この「黒枠広告」は黒枠とは呼べない。なんと意外なことに黒枠では囲まれていなかったのだ。第2号の明治八年十月七日付けに出された「死亡」広告もまだ細ケイで囲んだもので「黒枠」ではない。第3号の明治九年九月二十七日付けのものもそうだ。初期の頃は、まだ新聞へのメディアとしての信頼度や期待度がなかったので、死亡広告も少なく、また特に目立った様子もない。なんといっても黒枠で囲まれていないのでわかりにくい。「東京日日新聞」に死亡広告が頻繁に登場するようになったのは、明治十年に入ってからである。この年には合計十本あった。江戸にはうわさどおり火事が多かったらしく、犠牲者の数も大変な数で、火事現場で見失った子供などを探し求める「黒枠」広告などもあった。この黒枠は人の死を知らせる意味でのものではなく、広告として目立つものの意味合いがあったようだ。また、明治十年三月二日付けの死亡広告には、故人の名前がない。喪主の出身地と身分、氏名が明記されていて、肝心の故人の氏名が「増田明道父」としか記されていないのは、おそらく喪主である息子が自分の関係者のみに知らせる目的で掲載された広告だったといえる。もちろん現代では故人の氏名なしに死亡広告を載せるのは不可能だ。明治十年七月七日付けのものは、「山田方谷先生が病没されたので、これを各地の先生を知るものに伝える」といったように、先のものと同じくある特定の人に知らせる目的で死亡広告が掲載されている。このようにある種新聞を掲示板のように活用していた例は多い。

この頃の「黒枠広告」というのは、本文に記載された日付と新聞に掲載された日付が違っていることが多く、これは現代ではありえない。まだ、この種の広告が今で言う「黒枠広告」「死亡広告」として認識されておらずはっきりとしたルールが確立されていなかったということがうかがいしれる。それに当時は一日のみの掲載ではなく二日、三日と同じ原稿を連続で掲載することもあった。それはただ単純に一人でも多くの人に告知したいからという理由であるのだが、ルールが確立されていないことで、なにかと便利な部分もあったにちがいない。

明治十一年十一月二十二日、「東京日日」と「郵便報知」に初の「黒枠」による死亡広告が出現した。新聞の雑多な記事・広告の中では、黒枠で囲むとやはり目立つ。弔事は「目立つべきもの」と考えられるようになったことのあらわれだ。それでも、明治二十年代までの死亡広告は、黒枠で囲んだものと初期からの細ケイで区切っただけのものとが混在している。それが次第に黒い枠へと変わっていったのであるが、同時に、紙面の最終面の雑報の中で掲載場所が上段、中段、下段など一定しなかったものが僅かずつではあるが、下段に定着するようになった。

先の1号のものもそうであったが、この頃の死亡広告は家族を亡くした本人に成り代わって、友人など誰か親しい人物が代表して氏名を出す習慣になっていた。これは、当時、当事者が出すのではあまりに哀れであるというような考えがあり、それがもととなっているのではないだろうか。明治十五年大山巖の妻の黒枠広告がある。出稿者は「親族 西郷從道」だ。この「黒枠広告」には「妻」とだけあるが、名前は書かれていない。ただ「妻」として名前を記載しないでも片付けられるのは、この時代まだ人々の思想に男尊女卑の風潮が色濃く残っていたからなのだ。その当時の日本人の考え方や思想が死亡広告の形態に影響をあたえているのは言うまでもない。

「東京日日新聞附録」というものがあった。明治十六年十二月二十八日に発刊されている。現代で言えば。これは別刷りだろうが、はがきくらいの小さな紙片に「黒枠広告」が一本、「近火御見舞御礼」広告が一本の計二本だけが印刷されていた。こんなふうに別刷りとして「黒枠広告」が印刷されているものも出現してきたのだ。

明治一八年に出た岩崎彌太郎の「黒枠広告」はこれまでの黒枠と違って、本文の中の一部の言葉(故人名、「死去」の文字、会社名)が大活字で表されており強調されている。こういった形式は前年あたりから、あらわれているが、この頃から大小の活字が広告欄をにぎわすようになってきたことをも物語っている。

明治二十三年十二月二十五日付けの大槻文彦の妻いよの死亡広告は黒枠がなく、これまでにない文句を本文中に使っている。「高輪東禪寺までは遠路であり、それも昼の短い時節柄ですから急がなければなりませんので、お見送りや造花の寄贈などはどうかお控えくだいさい」といった文句だ。こうした「お控え」や「お断り」はこの広告以降わりあい見かけられるようになり、伊藤博文の父が亡くなったときに時の総理大臣であった伊藤博文がその「黒枠広告」で「お断り」をしてことがきっかけで、総理大臣もお断りしたということで以後ますますお断りの文句は多くなっていく。明治二十年代では、公爵、候爵、伯爵、子爵、男爵など身分ある爵位のある人物の黒枠広告がひんぱんに出稿されている。不幸があると、死亡広告としてそれを告知するのが習慣となっていた。いわば、この「黒枠広告」が上流階級の社交の場となっていたのだ。明治二十六年に掲載された河竹黙阿彌(吉村新七)の黒枠はごく普通のものであったが、後に「遺言」広告として、黒枠こそないものの表題の頭に、●印を付け、台本作者である黙阿彌らしく自分の旅立ちの台詞を残している。

黒枠の罫線の太さに推移はあるのであろうか。それを少し見てみたい。これまでの、黒枠の太さは2ミリが一般的であった。太くとも3〜4ミリだ。それが急に8〜10ミリになるのは明治二十七年あたりからである。太いものはその分サイズも大きくなるので料金も高くなる。しかし目立つのは請け合いだ。

明治三十二年にはロシア皇太子ゲオルギーアレクサンドロヴィッチが故人となった「黒枠広告」がでるが、これは初めての表題つきの死亡広告だった。

明治三十七年斎藤緑雨の「黒枠広告」は黒枠広告至上、最高の傑作といってもいいもののひとつだ。その本文には「僕、本月本日をもって目出度く死去つかまつり候」という遺言にも似たものである。めでたいというのもとんでもないことだが、書き出しの「僕本月本日をもって・・・」というのは見事に自決したかのような黒枠広告だ。話によるとこの死亡広告は、「口授」によるものだったらしい。緑雨は病床にあり、当時その筆を行った馬場弧蝶が彼に「書いてくれ」と言われて筆をとり、文章を簡略した。新聞社に出すようにと言われていたので、緑雨の死後通夜に来た方々と相談をして出稿したとのことだった。このように自らの死を感じ、それを言葉にして死亡広告を出すという大胆な広告に、当時の人は驚かされた。

明治四十二年伊藤博文暗殺の時に出された「黒枠広告」は本来の「黒枠」の機能である、人の死を告知するという枠をこえた黒枠広告のあり方を示していた。伊藤博文は列車がハルビン停車場に到着するや否や、そのプラットホームに入込める歓迎者の中に混じっていた韓国人数名に狙撃され、亡くなったことは有名であるが、翌日の黒枠は2本出た。1本はごく普通の会葬御礼だったが、もう一つは韓国の農商工部大臣によるものだった。その内容は「伊藤公の死去については深く哀悼、謹慎の気持をあらわすため、公務のほかは東京に伺うことを遠慮させていただきます。よって在京中にお付き合いいただいた皆様に、ご理解とお許しをいただけますようにお願い申し上げます」といったもので、彼が韓日のはざまにあって、つらいという気持をあらわしている。このように葬儀の翌日早々に、日本人に向けて「恭順の意」を表し、なんとか両国の間を取り繕うとして出した「黒枠広告」だったといえる。これは、伊藤博文という大物が亡くなったからということでもあるが、人の死そのものだけではなく、死に関連した世の中の情勢的事柄に関係したことをも、黒枠広告として出してしまうほど、この事件は重大な出来事であり、逆に重大な出来事を載せられる黒枠広告自体も、そのころには、信頼性のあるものとして認識されていたのだ。

大正に入って黒枠広告のあり方は固定されてくる。もちろん文字通り黒枠に囲まれ、太さもほぼ一定となってきた、また大正八年のある「黒枠広告」では、葬列を廃止すると共に、「本広告御通知に代へ申し候」と述べている。新聞に広告することによって、とくに本葬の通知はしていないらしい。このように大正時代になるとますます新聞広告に対する信頼性が高くなり、単なるお遊びの掲示板ではなく、ある種しっかりとした通信手段として、生活の情報源としては欠かせないものとなっていたので、死という真剣なものにおいても、その通知として、新聞を頼っていった。こうした動きから大正十二年におこった大震災時には、罹災広告、黒枠広告の申し込みが殺到した。被災者のことを考え、黒枠広告の値段を考えるといったような配慮もなされるほどであった。

昭和に入り、ますます「黒枠広告」はパターン化する。文面も形態も皆、ほぼ同じだ。しかし、太平洋戦争が激しくなってきた頃、紙資源は節約されて、各新聞はページ数を減らされねばならなくなった。例えば「朝日新聞」は昭和十九年十月頃から1枚表裏の2ページ立てとなり、「黒枠広告」もこれまでのように、二段や三段を使うことが出来ず、一段の小型となった。また幅をとる、太い黒枠を除いたために、「黒枠広告」でたての、明治初期のように、死亡記事と似たものとなった。「東京日日」後の「毎日新聞」も同様に減ページとなり、「黒枠広告」も小型化した。ただし、ここでは黒い枠は取り除かず、細ケイで囲んだものにした。またこの時期の「黒枠広告」には、今まで必須とされてきていた日付が掲載されていない。あまりにスペースが限られているために、わずか一行でも惜しんだのであろうか。

昭和二十三年になると新聞用紙にも余裕が出てきたのであろうか、黒枠が二段のスペースに戻った。昭和三十一年に出された映画監督溝口健二の黒枠広告には、句点「。」が使われており、また、ほとんど慣例的な「御厚誼」に変えて「御交誼」が使われており、「深謝」でなく、「拝謝」が復活している。拝謝にはへりくだるニュアンスがあるのだが、世の時期が安定してきたせいか、わずかな表現上の違いに気を配ることもうかがえる。

昭和四十七年福島交通会長の織田大蔵の風変わりな「黒枠広告」はこれまた、大いに話題を呼んだ。その内容は本人の遺言をそのままかかげたものであるが、「飯より好きな喧嘩して・・戦い抜いて生き続けてまいりました・・閻魔大王がおるとしたなら一戦交えてみたいと楽しみながら・・云々」といったもので生前の自分の生き様をエピソードとして紹介しているのだ。厳粛な雰囲気のない「黒枠広告」。これもこれで一つの黒枠広告のあり方といえるのではないか。

平成元年の年の黒枠広告には何かと大型のものが多かった。バブルとも関係があるのかもしれない。もう一つ平成十三年の沖縄の「琉球新報」の黒枠はおもしろい。全八段に十二本の黒枠が掲載されていた。3日後の同誌には20本ならんでいる。この「黒枠特集」よでも言ってしまいそうなものは、何もそういったものでなく、日常的にこうなのである。本数が多いだけでなく、記載されている人の数もものすごい。なんと近親者の名前で、総勢四十八名もの名前が列をなしている。ところかわれば、「黒枠広告」もかわるものだ。

最期に平成十三年八月二十三日付けのリョーサンという株式会社の創業者である森富士雄という人の黒枠広告はまさに時代を反映している。デジタルなのだ。インターネットの時代ということもあって最後に「なお、経歴等についてはホームページでご覧になれます」のメッセージとアドレスが添えられていたのだ。ホームページを開くと画面に「web葬儀」の文字と、故人が微笑みかける遺影が現れた。その他葬儀の日時や喪主の名前、葬儀委員長なども明記されている。なんと「電子弔問」を受け付けるサイトまでもある。これはサービス業者によって行われているものであったが、これこそまさにあらたな「黒枠」といえるのではないか。

明治初期にはじまった黒枠広告のあり方をその歴史を長々と見てきた。そこで、今度は、様々にある「黒枠広告」をいくつかとりあげて「黒枠広告」からうかがいしれる事象を追っていきたいと思う。

4、「黒枠広告」と人生

 「黒枠広告」には様々な種類のものがある。人間様々な人がいるわけだから、それもそのはずだ。ただ単に「これこれの人がいついつ亡くなった」といったものだけでなく、その人がどういう人だったのか、どんな状況下にいたのかなど様々なことが黒枠広告から読み取れるのだ。そういった意味で「黒枠広告」はその人の人生そのものであるともいえるのではないか。この章では、有名無名様々な人の「黒枠広告」をとりあげて少し、それらを追って見ていこうと思う。

 俳優石原裕次郎は昭和六十二年七月十七日肝臓ガンのために亡くなった。その「黒枠広告」は彼の組織する石原プロモーション、テイチク株式会社、遺族による出稿で、喪主に妻の石原まき子、親戚代表に兄の石原慎太郎、そして渡哲也らの名前が見える。この広告の本文には「皆様の心厚き励ましを力に懸命の闘病加療を続けました。」という文章から始まるのだが、すでに関係者やファンの皆に対する御礼の気持があるように感じる。また彼がどれほどの皆に応援される人間であったかということも表している。また「五十二年の短い生涯を終えました」とある。こういった「黒枠広告」において短い生涯という文句はあまり使われない。こういった場合には例えば若くして亡くなっても「二十歳の生涯を閉じました」とあえてその生涯がどうであるかということはなく、ただありのままの事実を述べたり、故人の死をたたえるために「天寿を全うしました」といった言い方がされる。おそらくこの「短い生涯」という文句の中には「志半ばにして」という無念さがこもるために、故人の気持ちを慮って避けてしまうのだろう。しかし、この石原裕次郎の黒枠広告では、そこをズバリと言い切った。たしかに五十二歳というのも事実として若いが、それだけでなく「石原裕次郎」という人物が亡くなってしまった・・という、遺族そしてものすごい数の彼のファンの悔しさを代弁している。そして、また2枚目の彼の最期を飾るにふさわしく、普通は黒枠広告には使用されないのだが、生前の笑顔の写真がうまく使われているのだ。

 平成四年十一月三日朝日新聞に掲載された黒枠広告にこんなものがある。「私共の最愛の夫であり父である 池谷参郎儀 十一月二日還らぬ宇宙旅行に出発いたしました ここに生前の厚誼を深謝申し上げます」そして後は住所と家族の名前だけが(妻、長女(姓が違う)、次女(姓が違う)、三女)記された「黒枠広告」である。さきほどの石原裕次郎のものとは対照的に、短くて単純な黒枠であるが、その文章の中に女性にかこまれた「夫であり父である」あたたかい故人の姿と家族の団欒が見えてくる。「還らぬ宇宙旅行」というユーモア交じりの悲しい文句がよけいに悲しみと団欒のあたたかさを浮き立たせている。長女の名前と次女の名前は親と違うのですでに結婚している様子である。母親はこれから三女と二人きりの生活を送るのであろうが、きっとこの先もこの家族は娘三人と母で協力し合って生きていくのではないかというような雰囲気がうかがえる。

 昭和四十一年二月四日全日空ボーイング727型機が羽田沖で墜落したときの遺体における「黒枠広告」に、事故にあった昭和化成品戸塚工場次長、管理部長、顧問の3名の社員の氏名がならび、本文によって事故の模様を伝え、社葬の報告をしたものがあった。この黒枠広告に胸を打たれるのは、末尾に遭難者3名の「妻」の名前が並んで掲載されているからだ。一般に「黒枠広告」の末尾は喪主と妻の名前を出したり、会社が出す黒枠の場合は取締役社長が代表者として見送っている。「妻」3名が連名で夫を見送るのは、これまで例がなかった。航空機事故に遭難して突然襲った家族の悲劇、並んで夫の死を見届ける妻の悲しみが読み取れる「黒枠広告」なのではないか。

 平成二年二月六日の政治家赤尾敏の「黒枠広告」も興味深い。彼は銀座の数奇屋橋交差点で、毎日のように「日の丸」を掲げて辻説法の政治時局演説をしている人だった。街宣車の上から、マイクを手に二時間でも三時間でもしゃべり続けており日本を憂えていた。亡くなったときの新聞記事には「右翼団体大日本愛国党総裁」とも掲載された。これだけ政治という面にどっぷりつかっていた彼の黒枠広告はなんと政治活動については一切触れないものであった。一人の夫を見送る、喪主の夫人の名前とお決まりの文章が載っているだけであった。彼は日本社会から見れば、その活動から「愛国家」「政治家」であったのだろう。しかし、そうであったのもただ単に彼が理想に燃える思想家であり、一人の人間の考え方の末に行き着いたところであったというだけだった。妻の夫であり、一人の人間だった。妻も夫を「夫」として見ていた。九十一歳のおじいさんであったのだ。

 5、まとめ・感想

 「黒枠広告」は奥が深い。ただ単に死亡を告知するだけではないのだ。黒枠広告の中には人のドラマ、社会の流れというものがうかがえる。ここには書ききれなかった様々な黒枠広告のあり方はどれ一つとして同じモノはなかった。黒枠広告はたった五センチの枠の中で葬儀と人の死を知らせるという単純な広告であるのと同時に、人間の数分のドラマと彼もしくは彼女を支える人のストーリー、そしてそれらの人々に影響を与えた社会の出来事すべてが絡まって成り立っているといえるのではないか。たった五センチ枠の広告の中にこういったテクストを含むということがすごいと思った。死亡広告は、消費者商業広告と違って、別に商品を売りつけるといったような戦略的なところはない。では、あんな莫大な費用を用いて何を伝えるのか。伝えたいというのか。葬式や通夜の日程といった事務的なことに関する話ではない。有名人や企業的に黒枠広告を出さなければいけないという場合はともかく、無名の人も、その遺族は故人を誇りに思っている。故人はこんな人生を全うしたのですよ、ここまで生きたのですよ、故人は本当はこんな人なのですよということを世間に、というよりも「自分が」知らせたいのではないかと思う。またその延長線上としてそんな故人のお葬式やお通夜に来てくださいといった感じだろう。だから別に世間の人がその広告を分析しテクストを読み取るようなことをしなくてもよいのだ。このように分析すること自体普通はないのだから。これはある意味自分の自己満足的である。しかし、これはアピールするといったようないやらしい感じには思えない。広告に載せることで、人生のひとつの、最後の節目として私の誇りとするこんな人がいましたよと何気なくささやいている。そんな気がする。もちろん好んで黒枠広告を出している人ばかりではない。しかし、自分の意思で広告を出そうと思っている人には少なからずそのような気持ちがあるのだと私は信じたい。

 ただ逆に黒枠広告も広告の一つである。だからこそ、商品広告と、意図においては違う部分がありつつも、商品広告のようにいい意味でも悪い意味でも社会の波とともに変わっていく。広告が社会を映し出す鏡であるといわれるように、黒枠広告も社会を映し出している。それがまた人事に関わることだから、余計にだ。人の動きは社会の動き。社会の動きは人の動きである。

 確かに広告には色々なものがあって、様々に分類される。死亡広告と商業広告なんてまったくかけはなれているものだと思った。しかし変わっていく中でも広告が何かを伝えることに変わりはない。それが商品を買わせるためという目的であれ、人の死を知らせるためのものであれ、映画の内容を知らせるものであれ、「自分が」知らせたいのであれ、「他人に」知らせたいのであれ、両方であれ、どんな形であれ、ある媒体を通して(様々な意図は置いておいて)何かしらの内容を伝える。また勝手に伝わってしまう事柄もある。それはまさに人間が行う基本的なコミュニケーションと一緒だ。広告というと何か大々的なイメージがあるが、それはこの世界で様々に飛び交う人間同士のコミュニケーションと一緒だ。だから意図の誤解があったり、意図が合致されたり様々なのである。法的な定義にとらわれなければ広告と人間のコミュニケーションは同義だ。人間のコミュニケーションにも答えがないように、広告にもこれがいいという答えがない。人間と時代がある限り、変わっていく広告。掴みきれないものでなんだか不安に感じる部分も否めない。何を不安に感じるかもわからないが、ただ足が地につかないような不安感がある。しかし、それだからこそ、そこに人間のような面白みが潜んでいるのではないだろうか。

 

参考文献:「黒枠広告物語」船越健之輔/2002/文春新書

「新聞の歴史」羽島知之/1998/日本図書センター

「死亡広告担当者物語」船越健之輔

http://www.tai-ga.co.jp/johositu/minijoho/sonota/siboukouk1.html

http://www.osoushiki-plaza.com/institut/dw/199005.html

http://www.h5.dion.ne.jp/~yomiuri/mosimo.html