横尾忠則と「異界」
1、
はじめに
今回はじめての個人研究として、好きな芸術家の一人である、横尾忠則のポスターをとりあげて本当によかったと思った。理由は様々なのだが、一つは自分自身がこの研究を楽しんでできたということだ。何かを一人で研究するにあたっては、確かに色々なことを調べたり、プレゼンテーションの構成を考えたりと大変なことも多いのだが、その研究の果てに自分が楽しさを見出していれば、おのずとそこに自分自身の意見が出るので、自分の言いたいことも現れてくるし、議論も活発になっていくのだということを感じた。この研究をやってよかったと思う理由のもう一つは、今述べたことを少し否定してしまうようなことなのだが、いくら研究が楽しくても、この研究が自分のゼミにおける最終目標につながっていくものでなければならないということを知ることが出来たことだ。この研究を終えて、私は自分の最終的なゼミにおける目標というものがとても曖昧だということに気がついてしまった。確固たる目標がなくてもよいとは思うが、おおまかな目標も曖昧なように思えた。ある一つのポスター研究として、横尾忠則のポスターを取り上げたのであるが、ポスターの持つ機能性や社会とのかかわりなどにはあまり触れずに、ただ横尾忠則とそのポスターとの関係性のみに没頭して、そのことばかりを調べてしまった気がする。こういったことは、議論をしなければ絶対にわからないことであったので、本当に指摘されてよかったと思った。今後は、単なる自分の興味だけで話を終わらせずに、もっと自分の行き着きたい目標を定かにして、話をすすめていけたらよいと思った。
上のようなことを言ってしまったが、今回はせっかく横尾忠則のことを調べたのでそこのこだわり、横尾忠則と彼が深く関わっている、そして私自身もとても興味のある「異界」というものの関係をより深く調べてみようと思う。
2、
横尾忠則が「異界」に惹かれる背景
横尾忠則の芸術の背後に常に存在する本質は「異界」という一言で言い表せる。例えば、山川惣冶や鈴木御水、南洋一郎や江戸川乱歩の絵や物語、ターザン、観光絵はがきと郵便、UFO、インド、オカルティズム、精神世界、神話、滝など、横尾忠則はこの生活世界にあらわれる「異界」への裂け目と思われるものを注意深く見つけ、そこから独自の世界を繰り広げる。彼の芸術にこんなにも「異界」というものが顔をだすのはなぜであろうか?ここには、横尾忠則をとりまく環境が、横尾自身にものすごく大きな影響を与えているという背景が潜んでいる。
<幼い頃の体験>
横尾忠則は、幼い頃西脇(横尾の実家)の蓬莱座という劇場に、よく村芝居を見に行っていた。そこで、彼は、芝居の、とくに色彩的なものや妙にエロティックな感じに惹かれていたという。例えば書き割りに描かれた、霞のかかった山がありその手前に桜の並木があり、というそんな特別でもない風景でも、彼はその山のむこうに何か、自分自身が一番知りたいものがあるように思えたと述べる。その知りたいものとは、永遠性であったり、無限と呼ばれるものであったりするのだ。横尾は書き割りの向こう側に自分の魂のふるさとみたいなものがあるという感覚を持っていた。だから、彼はにとって書き割りとはそれ自体懐かしく、胸がキュンとするものだった。
<1970年ごろの横尾忠則と社会の動向>
1960年代後半から1970年代初めは、横尾の作品中に、「異界」を示すものが多くなってくる年代だ。これは、無意識にせよ、作者が「異界」を求める気持ちが強くなったことを意味するのかもしれない。このころ、日本は60年代の狂騒の雰囲気に終盤を向かえ、70年代の高度情報・消費社会の完成に向かっていくという動きをし始める。こうした中で、横尾忠則自身に大きく影響を与える2つの出来事がおこるのだ。1つめは、横尾がアメリカへ行き、ニューヨークで4ヶ月間過ごしたということ。2つめは、横尾が事故にあい、「休業宣言」をしたことだ。一つ一つ見ていきたい。
横尾がなぜアメリカに渡ったのかということに関しては、自らの作品のパターン化を打ち破るためなどなど色々な見解があるので定かではない。しかしいずれにせよ、横尾忠則はアメリカへ渡った。この頃のアメリカは、ドラッグ・カルチャーやオカルティズムの研究の盛り上がりを見せている時代であった。またこの頃彼の最高のアイドルであるビートルズがインドに興味を移したことから、彼はアメリカでインドの仏画やポスターを膨大に収集したという。
2つめ。1970年1月に横尾忠則はタクシーに乗っていて入院を余儀なくされた。このことが、1960年、デザインセンターに入社したての横尾が車のドアに指をはさんで骨折したときと同じように、高度情報社会に移り変わろうとする社会の喧騒から横尾の身を遠ざけ、またもや自己を見つめなおすきっかけをつくったのだ。自己を見つめなおすことで、横尾の創作の永遠のテーマである「私とは誰なのか?」また、「生とは何なのか?」という問いや、死への恐怖とそこから脱しようとする精神の運動を再び見つめ直したのだ。また、この頃彼の最も親しい人の一人であった三島由紀夫が割腹自殺をする。この事件とこのころの横尾忠則に起こった出来事がきっかけとなって、横尾忠則はさらに精神世界というものへの探求をしようとしていく。
こうしてみていくと横尾忠則が「異界」を追求していく背景というものはすべて偶然の出来事により起こっている。これらの出来事が偶然といえども、そのことによって横尾忠則の作品や考え方、芸術そのものに影響を与えているのは確かである。では、このような背景を踏まえ、次に、実際に作品において、どのような「異界」が飛び出しているのかということを見ていきながら、横尾忠則にとっての「異界」とは何を意味しているのかということを探っていきたいと思う。
3、
作品に見る「異界」
1970年代から横尾忠則の作品には、様々な「異界」表現がのぞいている。それらのいくつかを例にあげてみてみたい。
<空>
1967年の「天井桟敷・定期会員募集」のポスターや状況劇場の「ジョン・シルバー」のポスターなどに見られるようなグラデーションの空である。地平線、あるいは水平線の近くは白く明るく、高く上るにしたがって赤や青の濃さを鮮やかにだんだんと増していく
空である。この手法は翌年の「新宿泥棒日記」、「土方巽と日本人」、「東京国際版画ビエンナーレ」などのポスターをはじめとして多用されていく。このような空は浮世絵の代表者である葛飾北斎が書き始めたものと似ている。北斎の「富獄三十六景」の中には横尾忠則のグラデーション(異界の空)の手法におけるヒントが隠されている。
(富獄三十六景より)当時、富士山は現在よりももっと霊峰としての威厳を持ち、畏怖を与えていた。江戸や相模、駿河や甲州といった周囲の土地の庶民の生活圏から望まれる場合、富士山は生活世界から隔絶された別の世界を体現していたのだ。そのとき、富士を眼前に出現させる空は異界として、日常世界とは別の空間を私たちに予測させていた。ということは、かつて私たちの生活の周囲には常に「異界」があったといえる。現在のように人間の住む宇宙は測定され、認識されつくしていたわけではなく、生活空間の向こうに、またその隣に、死者たちのいる異界があり、私達はその境を越えて出たり入ったりしていたのだ。だからこそ、この異界は怖れとともに懐かしさや親しみを感じさせる。横尾忠則はこの科学的客観性でとらえることのできない空を描くことによって空の本質、つまり「異界」をその作品に投入したといえる。
<ポップコーンのような霊魂>
横尾忠則の作品を「ポップコーンのような霊魂」と評したのは三島由紀夫であった。これは、先に述べた<空>のように実際の作品に登場する手法やモチーフではないが、横尾忠則の作品を特徴づける一つの重要な要素である。では、「ポップコーンのような霊魂」とは一体何なのだろう?三島由紀夫は横尾忠則の作品に対して、戦前の大日本帝国の暗さを感じずにはいられないといっている。横尾忠則は戦後に育った世代にもかかわらず、暗く湿った布団、高い天井、臭いハバカリ(トイレのこと)といった戦前の日本を象徴する、ノスタルジックなものや、そのけばけばしい意匠を潜在意識の底に貯え持っているかのようだった。そのような彼の作品は、あらゆる戦前の日本の非近代的要素を充分にかもしだし、また、大東亜戦争の敗北と大日本帝国の崩壊を肉体的に味わった世代の人間でなければ描くことが出来ないような悲しみを表現する作品をも作り出している。また、三島は横尾がアメリカのポップアートの落とし子でもあるということもしっかり理解している。しかし、三島はこのポップアートの要素も、戦勝国アメリカの「裏側のポカンとした悲しみ」であるといい、横尾の作品を日本の恥部とアメリカの恥部の結合であるという。戦争に負けた日本の土俗の霊の悲しみと、アメリカの機械文明の裏の悲しみが結びつき強度のパワーを生む作品だというのだ。こういった作品の例は横尾のポスター作品に英雄が登場するあたりのものに多くある。例えば横尾忠則の英雄、高倉健は花札の刺青を背中に散らした土俗のアイドルであると同時に、近代都市の映画産業の「メカニズムを通して、深夜興行というもっとも文明的な興行形態の中に生き延びていく幻影である。こうした横尾の作品において重要なことは映画の中の高倉健のように作品はとても土俗的でありながら、しかし現代の様式と技術のうえで成立しているということだ。そしてそこには、何とも言い知れぬような「異界」感覚が植え付けられているのである。
<UFO>
1970年代から横尾といえば、「UFO」モチーフという一般大衆のイメージがある。このころ多く描かれたUFOのイメージについて、荒俣宏が卓抜な意見を述べている。横尾のUFOは「懐かしさ」を感じさせる点で秀逸であり、それはユングの集合無意識などの考え方を基にした、かなり新しいUFO観を摂取した痕跡を示している、というのだ。宇宙や大自然に、宗教的イメージなどを混ぜ合わせたものなどは、みなどこか「懐かしさ」を感じさせる。急激な遠近法の使用、ないしは漠然としたコラージュによって遠近法を破壊させることによって得られる無限感あふれるパースペクティブ、そして、まさにUFOのように私たちの視点を一種の無重力状態に置いてしまうような幻惑するヴィジョンは、「ここ」ではないどこか遠くに私たちの故郷があることを予感させるのだ。「ここ」ではないどこか遠くの懐かしさを感じる、それこそが「異界」感覚の一つといえるのではないだろうか。
<ポートレイト>
横尾忠則の1974年の作品に「よしの髄」という連載ものの挿絵シリーズがある。壇一郎が「夕刊フジ」に連載した文章のための挿絵で、現代の芸能人、作家などから歴史上の偉人まで百人あまりのポートレイトを描いた作品である。これらのポートレイトの特徴としては、人物の顔の皺が線によって細かく描き込まれており、それぞれの人物たちの存在感が肉薄され、その人物の性格や生きざまの様なものまでそれとなく語られているかのようであるというところである。時間を越えた生きざまとしての人間存在へ肉薄することによって、その絵からは永遠の相から流れ出てくるようなある種の普遍的な「懐かしさ」や「ノスタルジー」のようなものを感じる。顔や上半身を画面いっぱいにとり、背後に遠い地平線や水平線を配して、虫や動物を必ず一匹まつわらせるというそういうスタイルのなかにも、人物を永遠の相のなかでみるという態度がうかがえる。こうしたことによって、これらのポートレイトは、日本古来の線描が対象物に肉薄するやり方のエッセンスそのものを引き継いでいるのである。それは、まるで明治・大正時代の挿絵スタイルを真似ているような、また「北斎漫画」やあるいは「鳥獣戯画」にまでさかのぼれるような、日本古来のイラストレーションの雰囲気をうまく伝えているといえるであろう。だからこそ、「ここ」にはない「懐かしさ」「ノスタルジー」、つまり何かしらの「異界」感覚を感じさせてくれるのだと思う。
こうして見てくると、1967年から1970年代にかけての横尾の作品には、先に述べたように、精神世界を求める時代の風潮と横尾の個人体験に起因した、「異界」表現への欲求があらわになっていると言える。作品にあらわれ出る「異界」感覚というとき、必ず横尾の作品には「懐かしさ」「ノスタルジー」というものが絡んできており、「異界」とは切っても切り離せないものになっているのではないだろうか?「異界」と「懐かしさ」「ノスタルジー」との結びつきは一体何なのだろうか?そのようなことを探っていきながら、もう少し「異界」について詳しく追求してみたい。
4、
「異界」「懐かしさ」「ノスタルジー」―異界とは何ぞや―
「異界」、「懐かしさ」一見よくわからないこの二つの概念を結びつけるもの、またそれらを包括するものとは何なのだろう?そんなことを探るために一つの作品を見てみたい。横尾の作品に「江戸川乱歩全集」(1968年)のための挿絵がある。赤、青、灰、緑といった色をグラデーションで使った空や海をバックに、乱歩の登場人物らしき怪しい人物像が大きく画面に配されて、何やら非常に「猟奇」的な雰囲気を醸し出している。面白いのは、そのところどころに日本の古い街並み、蒸気機関車、桜、寺院などのイメージがコラージュされていることである。「猟奇」が「ノスタルジー」と同じ物として考えられているのである。それと同時に、この作品からは、60年代当時の都市の残酷な騒然とした不穏な空気が漠然と想像されてくる。近代都市の表層が破られて「猟奇」の雰囲気が滲み出てきているのである。それらの要素が混然一体となって、浮世絵的なあるいは劇画的な画面の中に統一されているのだ。この作品を含め、この頃の横尾の作品の魅力は、「懐かしさ」「ノスタルジー」と、「猟奇」「残酷」「エロス」が混然と交じり合っている面白さではないだろうか。「猟奇」と「懐かしさ」「ノスタルジー」が結びつく理由には、実は「異界」の概念が関係しているのだ。「異界」とは、死者が住み魑魅魍魎が徘徊する日常から遮断された場所であるが、惨殺、拷問、劣情的エロスといったものは意識を日常から遮断し、非日常的な世界に飛躍させるという意味で「異界」に結びつく。それだからこそ「猟奇」は懐かしく「ノスタルジー」なのだ。さらに横尾の中では「異界」からの誘いかけが「エロス」的なものと結びつき、神から人間への呼びかけも「エロス」的なものとして見られることになる。横尾においては、神への「エロス」も、猟奇的な「エロス」も、等しく「異界」への橋としての重要な位置に置かれているのである。そしてまた「猟奇」、「残酷」、「エロス」が、日常では見ることが出来ない人間の奥底の欲望や本質を呼び覚ますという意味でも、人間の本質が明らかになるのである。横尾の作品に見られるこうした傾向は徹底的に日本的「情念」を問題としている。私たちの心性の古層から「情念」を引きずり出し、それを「異界」との境を開くために爆発させているのだ。「江戸川乱歩全集」の挿絵のみならず、1968年頃から横尾の作品はアメリカのポップアートの影響を脱し、日本的「情念」を全面に出し、「猟奇」と「エロス」を通じた「異界」を強く表出している。
また、横尾の作品における「異界」表現がこんなにも豊かであるのはなぜなのだろうか。横尾の芸術には一貫して流れる強靭な同一性があるからである。つまりそれは、先に述べたように、横尾の作品が結局は「自己」からのみ出発しているということだ。だから横尾のヴィジョンは見る人全てに、懐かしさ含む、自己への回帰を促すことが出来る。そうした横尾の作品には彼が人間的な関心を持つあらゆるものが聖俗取り混ぜて投入されている。そしてこの広大さと求心性、それこそが横尾の作品を成立させ、その奇妙な魅力を説明しているのであろう。また、こうした作品を通して横尾忠則は「異界」と現世を何らかの形でつなぎ、人間の誰しもがもつ根源的な「生」のあり方にせまろうと望んだのではないだろうか?
5、
感想・まとめ
フィードバックシートに森村先生から、一言「異界へのアプローチが足りない」と書かれていたことをきっかけとして、横尾忠則の「異界」を詳しく探ることを決めたのだが、やはり奥が深いと思った。
まず、第一に「異界」という概念を日常で考えるであろうか?それがたとえ横尾の体験したような幼児期や時代の流れがあったとしても、なかなか異界という概念は出てこないように思える。日常世界に住んでいる私たちにとって異界という場所は、一番遠く疎い場所であると言えるからだ。そんな異界を感じたい、表現していきたいと思う人間は少ないように思える。異界には何ともいえない怖さがある。そんな異界を背景として、人間の欲望やエロスといった日常ではタブーとされているものを、あえて自分の作品において表現しようとする、そういった横尾忠則の姿勢が私はすごいと思う。実に人間臭いというか、なまなましいというか。人間に真っ向から向き合っているという印象をうけた。人間が恐れ、日常においては避けようと隠そうとしているモノに素直に向き合うということ、なかなかできないことなのではないか。ただ、横尾忠則は作品において向き合おう、表現しようといった、そんな軽軽しいものではなく、ゼミでの議論でもあったように、作品において表現せずにはいられないといった、そんなかんじなのではないだろうか。それが、横尾忠則という人物だということなのだろう。横尾忠則がエロスだったり、異界というものを感じたりするきっかけというのは彼をとりまく偶然の環境や体験に基づいているであろうが、それが偶然というところがまたおもしろい。横尾忠則はその時代に生まれるべくして生まれ、また彼は彼の体験をするべくしてしてきたように感じるからだ。偶然なのだろうか運命なのだろうか。。。。。
今回この横尾忠則のポスターの研究を通して、横尾忠則のポスターのみというところにとどまらず、一人の芸術家という面から、その芸術に対する思いや考え方を知ることが出来た。きっと、芸術家の中には横尾忠則のように考えない人もいっぱいいる。だからこそ、芸術というのは人それぞれなのだということを感じずにはいられなかった。しかし、芸術において一つだけいえることは、芸術はその人自身であるということだ。芸術がその人自身やその人の考え方を表す。わかりきっていたことのようで、あらためてこのことを感じさせられた。だから、今度は横尾忠則ではなく、また別の芸術家の芸術に対する考え方や思いを研究してみたら、おもしろそうだなと感じた。しかし、ポスター研究にもかかわらず、今述べたように一人の芸術家の研究のようになってしまったのは、私が芸術とポスター、この二つを切り離して考えたくないと思っているからであると感じる。そんなことに気づけたこともよかった。そして、最終的にはこの二つの概念や存在意義を結びつけたかたちで、ポスターを一つの広告のあり方として研究していきたいと思う。そして、自分が満足できる、人が感動してくれるようなポスターなり広告なりを製作できたらよいと思う。
参考文献:「岡本太郎と横尾忠則」倉林靖/白水社
横尾忠則と安藤忠雄のシンポジウム