「ポストモダニティの条件」を読み終えて考察
宮本小綾
モダニズムとポストモダニズムをそれぞれ単体として捉え、言い表そうとすると、それは必然的に大きな時間のスパンを伴わずして何も語れないという不本意に陥る。それはローマやギリシャなどの古代建築の再評価によって生まれた新古典主義、ウィリアム・モリスらが中世の職人に理想を求め、古典主義的な価値観にかわる新しいデザイン様式、アールヌーヴォーを生み出したという流れを汲んでモダニズムの由来となっている。そして古典への回帰をやめ、伝統的な建築様式から脱したいわゆる近代建築の動機は、鉄やガラスといった技術革新を経て、大量生産が可能となり工業化する当時真新しい社会、経済だったといえる。私は今改めてこれらが何であったかを捉えようとするとき、その指針を技術革新を取り巻く人間の環境対応の仕方の歴史上特異な変化、変遷である点に据え、「感情構造の深遠な変化」という点に注目したいと思う。現在の私たちが共感することができるほど状況は大きく変化していなくとも、私たちにモダニズムを客観的に見させている心理状況があることは確かだろう。私たちの目はめまぐるしい変化の中で肥やされ、冷静に、もしくは状況をただ呆然と見守っているともいえる。モダニズム運動の神話がほとんど盲目的に信じられていた時代が奇妙に映るのも、私たちの物事に対する感覚、感情が変わったことによるのだと思う。そしてモダニズムの先駆的段階において過去の歴史や伝統を否定したことは、意図して行われたというより、技術革新とそれに伴う工業化のシステムが人々の関心、価値観において過去を振り向かせるほど退屈させるものではなかったと考える方が自然であるように思う。技術開発はそれほどの一大事であったと思う。そして当時は新しいものへの好奇心と希望、期待といった感情が確実に蔓延していたといえるだろう。
現在モダニズムは、大量生産システム、資本の拡大など今日的な問題の原型がつくられたというような認識で非難されることもあるが、モダニズムの目的は単純明快で、徹底した実践ぶりには脱帽してしまう。モダニズム運動の原動力が強固に存在し、そこには人々のよりよい生活と幸福を求める欲望、そして当時高揚していた人間の普遍的な自由獲得が認められるか否かのある種の危機感を伴ったせめぎあいがあった。ここで敢えて言うならば、ポストモダニズムではすっかり落ち着いてしまった。この観点からすれば、ポストモダニズムは生との闘いというよりむしろ、モダニズムの達成されなかった理想郷への不満、モダニズム運動の過程で問題化する神話のうつろいやすく、もろい側面、モダニズム運動自体への不信感に対する打開運動と捉えることもできる。やはりポストモダニズムはモダニズムの後に続くものとしてのみ捉えることができるのではないだろうか。そしてモダニズムとポストモダニズムのどちらかの優劣を強調するようなやり方で違いを見出すのではなく、人々の思考や行動がどのように移ろったかを見る上で違いに着目しようと思う。
建築はテレビや新聞と同様にメディアである。メディアは何かしらのメッセージを持っている。ではモダニズム建築、ポストモダニズム建築からはどんなメッセージが読み取れるだろうか。建築はその社会を映す鏡であると同時に、建築家は先見の目をもち、自らの哲学を込めて建築と向き合い、デザインする。ならば、建築においてモダニズムとポストモダニズムを捉えることができるのではないだろうか。また、モダニズムもポストモダニズムも近代化の過程において生まれた美学的反応である。では実際の建築物を見たときに、それらの間に違いはあるのだろうか。またそれぞれを特徴づけるものはあるのだろうか。ひとつの見方としてあるものであるが、一般的になされている区分でアールデコ、モダン、ポストモダン様式をそれぞれ見ていくと次のようなことがわかってくる。
まずはプレモダンと言われているアールデコ様式は、1925年に装飾美術(アールデコ)エキスポ(第一次世界大戦によって延期されていた)がパリで開催され、この時を期に確立する。しかしパリでは市民間で官能的、享楽的と評されたロココ様式が根強く支持され続けたこともあり、新芸術に対する反発から、実際は独立から100年を経て大国となったアメリカにおいて大成した。歴史的な約束事のしがらみにとらわれることなく、自由に革新的な新様式を大規模に実験することを許されていた時運と場所が重なるめぐりあわせであった。20世紀初頭のニューヨーク・マンハッタンなどに超高層ビルを建てる技術が確立し、富が集中し始め、新時代の都市整備が大がかりにスタートした。そしてフロリダのマイアミビーチなどでは、モータリゼーションの本格化により、ニューヨークを始めとする東部の人口密集地区から南下する高速道路網が開通し、海洋リゾートの観光開発が大規模に進んだ。これら超高層オフィスビルとリゾートホテルを中心に事務所建築、商業建築が当時の流行であった。アールデコ様式は、直線(一点から発する放射線)、円や円弧、それらの連続模様である波模様、イナズマ模様、流線型モチーフといった幾何学模様を特徴としている。建物の内外にアールデコのモチーフが盛り込まれ、「装飾」されている。またリゾート地の建物の外壁はパステルカラーが多く用いられている。
そして装飾重視の建築から、いっきに装飾を取り去った「機能」としての建築へモダン様式では一変する。素材に鉄とガラスを用い、機能に関係のない“装飾のための装飾”を否定し、また特定の地域や時代を連想させるような要素がない。アドルフ・ロース Adolf Loos (1870-1933)はウィーンの王宮前に突如として無地の壁に穴が開いただけの窓を設けたロースハウスを建て、当時の通念を打ち破った。オーギュスト・ペレ Auguste Perret (1874-1954)は、それまでの組積造(石やレンガ)から初めて鉄筋コンクリートを建築に応用した。19世紀末から20世紀初頭にかけて、シカゴで高層建築が盛んに建てられた背景には「シカゴフレーム」と呼ばれる新工法(壁で建物の重さを支えていたそれまでの工法とは異なり、柱と梁という骨組で構成する工法。またの名はラーメン構造)の確立があった。ル・コルビュジェ Le Corbusier (1887-1965)も新しい工法として「ドミノシステム』(鉄筋コンクリートを前提として柱と版(スラブ)とで構成する骨組)を提唱し、1階に壁の無い建築(ピロティ)を作り、世界に衝撃を与えた。また屋上庭園や水平に連続した窓など新しい様式も確立された。歴史的にも外観様式上大転換しており、見た目が圧倒的に軽くなっていることがわかる。また新工法の開発により物理的な面でも革新していることは特出している。
「機能に無関係な装飾は悪である」アドルフ・ロース、
「形態は機能に従う」ルイス・サリバン
「住宅は住むための機械である」ル・コルビュジェ
「Less is
more」ミース・ファン・デル・ローエ
続いてポストモダン建築は、印象としてモダン建築より奇抜といえるかもしれない。しかしビル自体が与えていると思われる圧倒されるスケール感、迫力は、モダン建築にも同様に感じられる。驚きや衝撃といった点では現在見るモダン建築と当時の反応は少なからず違っただろうが、デザイン的要素において、直線の多用の中にポストモダニズムには複雑な技巧があるということが見て取れる。構造的な変化がデザインの飛躍を可能にしたのではないかといったことも今となって比較、考察できる。そして特長を拾い集めるならば、土台は近代、モダニズム建築で、そこに歴史的様式のデフォルメやコラージュがされている。モダン建築からすれば、どこか「余分」な部分が存在している。そのためかモダニズムでいわれる機能主義的なイメージは建築物からはやや薄れているように思う。
ポストモダン建築といわれる建物の多くが80年代以降のレーガン・サッチャー・中曽根時代のバブル経済の中で建てられたことは、ポストモダン建築の新しさが時流の先端をいくステイタスとして捉えられていた面は否定できないだろう。モダニズムが権力者や文化的大衆の意思により動かされていた権力構造の反動とした現れたポストモダニズムもまた、建築が脱権力化するという問題をすべて解決してはいない。ポストモダニズムの革新性には、常に消費システムの内側にあり、保守性に転化するというモダニズムに見られる資本主義の性格も含められていると言わなければならないだろう。モダニズムもポストモダニズムも資本主義のシステムが社会全体を方向づけているものとなっており、ますます加速していった商業化も人々のニーズや黙認によって存在してきたのであるから、あったものをなければよかったというような否定を含んだ批判をすることはあまり意味がないように思われる。資本主義のシステム下にあって、モダニズムとポストモダニズムとで言い分けられているような所以は、本文でも繰り返し言われている人々の「感情の構造」の変化であるのだと考える。
このように見ると、ポストモダニズム時代の建築には徹底した何かがない。先にも述べたように差し迫った緊張感、まじめさのようなものはなく、ポップでどこかゆとり、遊びといったものさえ感じる。ロバート・ヴェンチューリがミースの言葉を文字って「Less is bore」と表現したところにも、ポストモダン的な様相を見ることができる。ポストモダンでは、モダンの時代を嘲る性格があるような気がする。それはモダンの反動なのか。しかしそれは必然的な反動であるように思われる。モダニズム時代の過程で目的は一応の達成を成したという認識と実際の生活からの実感が神話に頼る必要性をなくし、目的の上にあった神話自体が問題に取りざたされるという、目的が神話の実態を暴くこととなるにいたる。モダニズム時代の目的はその過程で次々に転化していったものの、人間の自由解放の普遍なる神話、科学技術や機械生産を合理化する機械的神話、プロレタリアートの神話化、戦後復興や都市開発、住宅供給する上での神話といった神話の先にある目的を不安定な状態から一応の脱出を見て達成させ、人間として生活する上での基盤を整えてしまったといえる。したがって、モダニズムの後には人間という枠組みではなく、それまで時代を動かしてきた権力者、また文化的生産者・文化的生産者と大衆、マイノリティという視点がもたれることになるのではないかと思う。
ポストモダニズムでは、多様性、つまり他者との共存、両義的などと一般に定義されている。しかし共存しているのだろうか。結局、何か選択され、「適するもの」があり、それだけが共存しているような気がする。大衆は本当に文化的生産過程に関わることができたのであろうか。たとえば、住宅生産過程において住まい手(文化的消費者)はつくり手と対話し、満足する家を手にすることができたのだろうか。あくまで消費者は他者であり、生産者は生産者の都合も含めて関わるという意識がどこかにあったのではないだろうか。一緒に協議するような機会はあったといえるにしても、その日その時間限りであったとしても、本当に両者は融合していただろうか。ポストモダニズムでは、主体と他者という二項対立で定義されるような主体や、前提条件として想定されるような主体はない。例えば、女性や少数民族などが他者として捉えられなくなった。では単に主体、他者とは概念的なものとして残っているものなのか。ポストモダニズムで回避され、消失へと向かうのは、主体と他者そのものというよりは、男性と女性の関係や、西欧諸国と少数民族の関係を断絶した主体と他者の関係で捉えてきたある種のイデオロギーであるといえるかもしれない。主体と他者の間の壁を、当然の前提として受け入れるモダニズム的な様相と、それが壊される可能性を夢見つつ、壁のあり方を少しずつでもずらして変化させようとするポストモダニズム的な様相には、大きな違いがあると思う。しかし1960年代頃からのポストモダニズムの他者を取り込もうとする姿勢は、現在の私たちには不完全燃焼と感じられてしまう。私たちのこうした感じ方は、モダニズム、ポストモダニズム時代の新たな反動ということなのだろうか。分裂、断片といった言葉は、ポストモダニズムを性格づける共存と同じ文脈で使われるが一見一致しない意味を持つ。ここにもポストモダニズムが単純明快なモダニズムとは違った複雑な心情を物語っていると思われる。
ポストモダニズムはあらゆる事象を認め、多様化し、生じたズレさえ自らを正当化することによって秩序づけていることは、スペクタクルを幾重にも生み出している。そして面白おかしさの反面、はかなさといったものを付随しており、それらがどこにも氾濫しているといった混乱状態があるように思われる。しかしポストモダニズムは当初から自己矛盾をおかしながら構造を変えていくという脱構築戦略をとっている。ポストモダニズムはどこへ向かっている・いたのだろうか。文化が多元化し、同時に活気づく資本主義経済との関係は、分裂した欲望にまかせ、進むべく方向になるがままになっていくように思われる。それは、完全に自由で魅力的でもあるが、例えば土地管理が困難である状況下に資産としてマンションを建てるという土地活用法の流れは、土地周辺の環境変化や住宅着工数が需要を越すような状況下等を考慮したとき、手放しに喜べる傾向ではないと思う。そしてもはやイデオロギーというかたちはポストモダニズムにおいて取られていないことになっている。つまり、何でもありの文化はあからさまに批判されず、何かを管理しようとする動きはその対象と並立するのでなかなか実際的な効果が得られない。管理という観点では、マスメディアがもたらす消費への動機づけは絶大であるといえる。このように表層上でにぎわっている様々なイメージのスペクタクルは、実は他者とむすびつきづらく、だからこそ疎外や分裂、断片化している様相が浮かび上がるのではないだろうか。
マスメディアは確かに周囲に絶大な影響を与えることになりえてしまったが、並列する他者でこれに対抗する動きもまた多く存在するはずである。ポストモダニズムでは一見して大きな声で発する者はいず、多くの者が各々の方法で発することができる仕組みをとっている。多くの者が発すれば、全体としての個々の声が小さいのは当然のことである。モダニズムで人間のための自由を標榜し、結局文化的大衆や権力者が大衆を支配する原理となったことへの反動として、ポストモダニズムが疎外されていた大衆を取り込むことを目的とした動きとなったと考えるならば、表面的な声の大きさに関わらず大衆も誰もが権力の源泉に近づくことができるようになったことになる。実際、隠れたヒエラルキーがあるにせよ、それは明らかに示さないばかりでなく、明らかにされることもなかった。ただ同じような嗜好の者同士の間というローカルな領域では、自由に疎通が行われ、相互に作用しあえた。フーコーがいう「ローカル化された闘争」はそのような中に、やはりいくつも存在していたはずである。決定的な攻撃にならないのは、やはりローカルを抜け出せないからだろう。あるいはローカルな領域の居心地の良さから抜け出さないからかもしれない。
ポストモダニズムからモダニズムに逆行して遡ると、ポストモダニズムがあらゆる事象を認め、多様化し、生じたズレさえ自らを正当化することによって秩序づけているスペクタクルな社会システムには、問題も問題化しないという問題があるように思われる。モダニズムの熱意や強い意志は、問題解決の実践への原動力としてとても重要な要素として働いていたと思う。最近ではローカルな闘争が非常に盛んになってきているように私には思われる。たとえば、NPO、NGOなどの数は急激に増えている。そして内輪だけの盛り上がりに終わらず、広く社会に対して発信し、またワークショップなど人々が参加できるような体制が一般的にとられるようになっている。海外のNPO、NGOには立派な大企業ほどの規模になっているものもある。他者との共存は個々が自立して存在するだけでは、社会全体として何の利益も不益も生み出さないのではないだろうか。簡単ではないが、他者とのつながりをもつことが今後重要となってくるのではないかと思う。
現代社会を生きながら、モダニズム、そしてポストモダニズムの流れをくむ現代の社会を考えるとき、やはり完全に社会の外に立って客観的に捉えることは不可能である。そして確かなものがない状況で、混沌とする現代には、可能性としてしか求めることができない。しかし、ユートピアを実現できないというモダニズムを想起させるような虚無感に陥ることはないと思う。技術革新から人間はそれをコントロールする力を持たずして、モダニズムの行き詰まりを見た。そしてポストモダニズムでは大衆に目が向けられるにいたって、大衆も社会に働きかける声を持ち、合理的一辺倒では幸せになれない人間らしさについて問題化してきている。判断しきれない社会で、何を基準にどのように判断したらよいのかを考えたとしてももはや行き詰るだけだろう。先がわからないからこそ、何らかの意思表示をし、働きかけていくべきなのではないだろうかと思う。