ポストモダニティの条件 論文
「市民から大衆へ」
はじめに
都市は実際には、主に記号とイメージの生産にかかわっていると主張し、社会的差異をしるすものが所有物と外見によっておおまかに与えられる。と、ラバンは著書『ソフトシティ』の中で述べている。またこの意見を受けてハ―ヴェイは「どのようにすればこうした外観に共感と注意を持ってして対処することができるようになるかは必ずしも定かではない。このような作業は、創造的な企業家主義が幻想と欺瞞を生み出す作業に結びついてことによって、二重に困難なものとなったが、記号とファッションとが揺れ動くあらゆる事態の背後には、そうでもしなければ、ファッションの変化によって掘り崩されてしまう価値と意味のヒエラルキーそのものを、新しいやりかたで作り直そうとするある種の「嗜好の帝国主義」が伏在している。」と述べている。
産業革命後の世界は大幅な都市化が促され、さらに労働を求め人口が都市へと流れたために人口増加がさらなる都市化を推し進めた。都市化にと伴う生産形態の変化が市民の価値基準の変化を促した。つまり、資本主義の発達によりより貨幣の価値が大きくなった。貨幣を求めるために人は消費を生み、自分自身もその消費によって貨幣を流す。どれだけの消費を生み出すことができるかということが、自分がどれだけ消費できるかということと密接にかかわってくるのだ。そして、この消費活動は必ず「差異」によって生み出されるものとなった。以前の社会では消費を生み出すのは、生産することであった。人々は消費のために生産をして、消費されるから生産しなければならなかった。しかし、それがある程度の粋に達してしまうと、モノは消費されない。現在の生活を見ても、日本ではモノは溢れかえっている。供給と需要の関係は崩れてしまっている。食生活の変化から、米を生産すれど、米は消費されず。生産されてくるものを、どのように消費すればよいのかが生産者の課題となったのだ。そこで人々は自分の作ったものが他人の作ったものとどれだけの差異があれば消費してもらえるのだろうか。ということを考えるようになったのだ。
もちろん、「生産⇔消費」という構造は崩れていないのであるが、この構造が貨幣を生み出す消費行為に焦点が当てられるようになったのと同時に生産は差異を作り出すことにとって置き換えられてしまう。このモノの差異化が価値基準を生み出し、現代のヒエラルキーを形作ってしまっている。例えば、ブランド品を持っている人は周りから高尚な位置に属しているとみなされ、また自分自身もブランド品を持つことで自分は高尚な位置にいけたかと思ってしまうあたかも幻想を抱くのだ。自分自身はブランド品を持っただけで何も変わっていないのに。つまり、外見上の判断である。確かにそのブランド品を購入するためにお金を作る努力をしたかもしれないが、「消費」したことで自分は社会的差異が得られたという経験はなんとも空虚なものではないだろうか。そして、また、社会、言い換えれば社会を作り出している市民がそう動くことでまた社会もそうなってしまっていることに危機感を覚える。
以前は文化の担い手はブルジョワ階級であった。絵画は権力者のために描かれ、またオペラ座に向かうのも特定の人々であった。市民が権利を獲得し、その市民が貨幣を貯蓄した結果、安定した所得を持つ大衆が生まれたのではないかと考える。参政権を獲得した人々はまた、文化創造・文化消費の参政権をも取得したのだ。よって、今回このいわゆる大衆が生み出される背景となった歴史的事実を追いながら、大衆の出現について考えて行きたい。まず、市民となる人々がどうのように出現したのかということを、ハーバマスの言う、モダニティのプロジェクトと呼ばれるものについて、歴史的な背景を追いながら、検討してみようと思う。
1 「モダニズム」の出現
まず、ハーバマスのいうモダニティのプロジェクトと呼ばれるものが注目されるようになったのは18世紀になってからである。18世紀のヨーロッパ世界の特徴を指すものといえば、フランス市民革命を抜きには考えられない。この革命は従来の「常識」を覆すものとなったからである。なぜ、ヨーロッパ世界に注目するかといえば、20世紀になるまで世界をリードしていたのはヨーロッパであり、彼らはまた自分たちの考えを世界に広めなければとさえ思っていた。実際、西欧近代化という語によって各国に産業革命が広まっていたのは周知の事実である。よって、18世紀世界を語る上でヨーロッパを抜きには考えられないのである。
フランス市民革命がもたらしたものは「自由、平等、博愛」という概念であった。これによってそれまでの教皇から権力を担った王権を駆使した絶対王政の崩壊であった。言い換えれば、権力がひとつに集中することで生まれる、不平等な関係をなくすことが革命理念として目指されたのであった。この市民革命を成立させる援助をしたのが啓蒙思想である。市民革命は啓蒙思想なくしては成立しなかった。啓蒙思想とは「一八世紀フランスを中心としてヨーロッパ全域に広がった革新的思想。キリスト教会などの伝統的権威から解放された理性の使用を公衆に促し、人類の普遍的進歩を図った。フランスではデカルト的体系への批判を伴った。フランスのボルテール・百科全書派、イギリスのロック・ヒュームが代表。啓蒙主義。(三省堂提供「大辞林 第二版」より)」
啓蒙主義者たちは理性によってのみ社会は秩序立てられると信じ、なぜなら、バースタインの言葉を借りれば、人間の本質は理性であるとされるからである。しかし、ニーチェは一方で、この人間の本質そのものを疑った。人間の本質はもっと、野蛮なものであるとした。よって。ニーチェに導かれる社会はよって、常に新しいものを作り出すときには壊さなければならないし、壊すためにはつくりつづけなければならないという一種のディレンマに陥ってしまう。ハーバマスの言うモダニティのプロジェクトもまさにこの両面を持ち備え得る。一方はうつろい易く、もう一方は永遠に変わらないものとして存在するのである。
20世紀になる頃までには、人間の永遠で不変の部分を定式化するにあたって、啓蒙の理性を賞賛することは不可能なこととなった。確かに、18世紀の社会は理性による法秩序や国の整備は市民革命を促して、市民社会を目指す土台を作ることとなった。しかし、王ではない市民が権力を手に入れることによって、個人の利益のために国を動かし始めた。こうなると、もう理性だけでは測れない社会が生まれたのだ。そこで、ニーチェは美学を上位に据えたのである。よって、芸術家や文筆家、建築家、詩人、思想家、そして哲学者などがこの中で特別な地位を得たのである。つまり、それまで宮廷画家としてしか地位を与えられなかった者たちが、地位を得ることで、積極的に社会的な状況を顕著に表す担い手となっていったのである。彼らはさまざまな主義主張を持つ団体を登場させていくのであった。
ロマン主義者たちは上記のような、美学的経験の社会への介入を可能にした。例えばロマン主義者であるディケンズは19世紀イギリスの産業主義の非人道的な部分を非難し、人間の持つ温かい心や豊かな感情といった人間性に焦点を当てた。彼は社会を描き、それを社会に暴露したのだ。つまり、芸術活動をしながら彼らは技術的側面も更新しながら、自らの表現行為によって社会に大きな影響を与えるようになるのである。この意味で芸術家たちの地位は従来とは異なるものとなっていく。
そこで、19世紀末より「モダニズム」といわれる芸術運動が盛んに叫ばれるようになってくる。地位を獲得したいわゆる芸術家たちは、自らの言語を携えて、表現行為によって社会を動かそうとした。彼らは自らの表現行為が正しければ普遍的に通じるものであるとし、のちに国際主義へと変遷していく。これは理性によって支えられた19世紀の社会が権力を持つようになって自らの利益追求のみに陥ってしまった権力者と同様の経緯を辿る。ハーヴェイの言葉を借りれば「社会の鏡よりもむしろ自己言及的な構成物」となってしまったのである。
しかし、この「モダニズム」で注目すべき点は社会的な影響力を持つようになった美学の製造者たちは自分たちの作品はどうのようにしたら受け入れるかということも考慮するようになり、それは作品の商品化をも促すようになる。彼ら自身、商品となるように自らの信念を捨てることすら可能であったようだ。「モダニズム」とは価値構造の変化により生じた社会的地位が芸術家に与えられたことによって、自らの言語を模索した時代のことをさすものである。つまり、誰もが消費される土壌のことを抜きには考えられなくなっていく。しかし、消費される土壌がなくなった場合、生産者はどうのように消費を創出していくのであろうか。
2 ポスト「モダニズム」へ
第二次世界大戦はまさに、消費する場所の喪失によって、誰もが行き先を見失い、陥ってしまった権力崇拝の結果である。私自身、ポスト「モダニズム」と呼ばれる時代を推考するのに、第二次世界大戦はまさに重要な意味を持つものであったことをもう一度、再認識させられる。
戦間期の人間の永遠で不変の部分を定式化する際にシンボル化されたものは明らかである。消費する土壌の権利権をめぐって争われたのが第一次世界大戦であったが、敗戦国は必然的にその土地の所有権を奪われた。消費する場所のない敗戦国は自国内で戦争の痛手により自国で経済を回すことすら困難となり、社会が不安一色となる。そこに現れたのがヒットラーであり、ムッソリーニであった。各国が絶対的権力を賞賛してしまったのは必然的な結果であり、資本主義の生産⇔消費の構造の限界点を顕著に表すものとなる。このシンボルの崩壊はその後の世界に大きな影響を見せる。つまり、価値基準となるものがひとつの権力であったのが、もうそれでは自分の生活を支えることのできない社会になっていく。
ポスト「モダニズム」が現れてくるのは1970年代である。戦後の荒廃した生活の復興を行ったポスト「モダニズム」への準備期間を通り、1960年代という混乱期を経てポスト「モダニズム」が現れるのだ。つまり、ポスト「モダニズム」出現のきっかけとなるのは独裁支配の崩壊によるものであった。進歩史観に基づいたモダンの潮流は戦後の復興事業をと深く結びついたので、効率よく経済を立て直すのには誰もが合理的判断を選択した。実際、戦後のフランス社会の動きの中で、誰もが巨大な進歩の中に生きていると思い、自分の子孫は必ず自分の世代よりもよりよい生活ができるであろうと誰もが信じていたのである。よって、20世紀前半では停滞していた人口も自然と増加し、そうなると、消費できる市場も広がり、経済も活発に動くようになった。社会的平穏なフランス社会を覆っていった。しかし、労働の犠牲によって支えられたこの生産によって生み出された復興は一方で成長の代価の部分を徐々に浮き彫りにしていった。
例えば、フランス社会では1968年にまずは、生徒数の増加により大学に収まりきらなくなった学生が暴動を起こし、それが労働者へと火が飛び移り、結局は政府に鎮圧された。この諸事件はいくつかのハードルを飛び越え、絶対自由主義的な個人主義を正当化していく。生活水準が戦前の三倍にも向上し、生活保障も普及した。さらに、風欲の開放も加速させ、新たな自由の息吹を市民に植え付けさせたのであった。そして、ポスト「モダニズム」といわれるような1970年代を迎える。復興という市場がなくなると、今度は消費できるような市場を自ら開拓していかなければならなくなるのである。こうなると、基準となるものは一体なのであるのか。
3 大衆の出現
ポスト「モダニズム」の代表的な建築家であるベンチューリは「ヴァナキュラーな建築を」と述べた。(1970年代)統一的なデザインによって進められていた都市計画に対して、もっと大衆の必要性を考えた建築が必要であると彼は考えた。大衆の存在を通り過ぎてしまうことができないくらい大衆の存在は大きなものとなっていることが彼の発言からも想像できる。つまり、社会の秩序を保とうとするとき指標になるものが大衆となる。商品を消費するのも大衆、その商品を生産するのも大衆、国家生産の担い手が一般市民へとなる。資本家階級と労働者階級の間の決定的な対立構造は弱まって資本家階級でもなく労働者階級でもない中間層が急速に増大してくるのである。いわゆるサラリーマンの存在である。例えば、小津安二郎監督(1903-63)の映画は平凡で典型的なサラリーマンの生活を描いている。『早春(1956 松竹)』は戦後の高度成長前の、サラリーマンたちの孤独感や夫婦の倦怠感を冷静に描いた作品である。このようなメディアによってもサラリーリーマンがひとつの形式のように社会全体に広がっていく。
「大衆とは心理的事実として定義されるものである。必ずしも個々人が集団となって現れる必要性はない。われわれは一人の人間を前にして、彼が大衆であるか否かを識別することができる。大衆とはよい意味でも悪い意味でも自分自身に特別な価値を認めようとはぜず、自分はすべての人と同じであるというふうに感じ、そのことに苦痛を感じるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているようなすべての人のことである。」(オルテガ『大衆の反逆(1930)』)
オルテガは20世紀初頭の新しい層の人々の出現に注目して、大衆とは何者であるかと定義した。自分が特別でないことに喜びを覚え、そして、その自分が特別ではないところにこそ価値があって、この凡庸な意見こそが反映されるべきものなのであるとした。つまり、誰もが成り得る大衆をひとつの価値基準として、行動してゆく。よって、例えば政治家の中にも主婦の感覚を持っていることを自分の魅力として政治活動を行う人も出てくる。社会をリードしていく指導者が、自分が大衆であることを提示するようになるのである。以前は「指導者⇔指導されるもの」あきらかであったのに、大衆の存在の大きさゆえに、「指導者⇔大衆⇔指導されるもの」と判りにくくなってしまっている。
おわりに(考察に変えて)
「モダニズム」からポスト「モダニズム」への以降はまさに美学という価値基準の構造の更新といってよいのではないかと考える。なぜなら、新しい基準として考えられた美学を基準とした「モダニズム」は美学を絶対的なものであると捉え、またそれを個人の利益への道具としてしまったために、その限界をきたし、崩れてしまう。そして、社会の安定の中で、ポスト「モダニズム」として価値基準を美学に求めるようになる。しかしながら、大きな違いは基準とされるものが明らかであった「モダニズム」期に対してポスト「モダニズム」においては、その基準がわかりにくいようになってしまったことにポストという意味が付属する。そして、一方で価値の判断材料として「大衆」と呼ばれる市民の進化系を無視できなくなったのである。集中権力崩壊した結果、本来の民主主義によって、指導者が選出される手段がとられた。つまり、指導者も一般市民と呼ばれる層から一般市民によって選ばれるのである。一人が権力を持つのではなく、権力は分散されるべきであるとした。つまり、誰もが指導者になれるという規定を社会に作ということは自分の判断によって指導者選出できるということになる。
消費行為も同様のことが言えるのではないかと考える。「生産⇔消費」という構造は消費できる市場が前提に合ってのみ成立する。世界分割の時代は一旦終了したかのように誰の目にも移っている。他の国を自国として経済発展を生産することはできない。となると、自ら消費行為を生産しなければならないということになす。つまりは、消費の生産である。となると、消費するのは大衆であるので、大衆を抜きには考えられない。とは言え、消費を作り出す担い手も大衆である。とすると、誰が大衆を作り上げるのだろうか。また、大衆と呼ばれる層の境界線はどこからどこになるのか、どう考えても曖昧のままである。大衆の価値が認められているとはいったいどういったことか。
大衆によって大衆は作り出されるということになるのではないだろうか。オルテガの言葉にもあったように大衆は平凡であることに安堵を求め、特別でないことに喜びを覚え、そういった精神状態のことを大衆とすると述べている。必ず、人々は何かを基準として行動してしまうようであるが、その基準を生み出すのはもはや大衆となってしまっているようにみえている。確かに中央権力の崩壊によって、社会的平穏によってあたかも社会の担い手を任されているように感じているが、しかし、本当に大衆によって大衆の価値は決められているのであろうか。という疑問は払拭できないが、しかしながら、市民から大衆とへと一般市民を表す言葉が移行した背景には一般市民の存在の大きさを知らしめるものになったのではないかと考える。
参考文献
デヴィッド・ハーヴェイ著『ポストモダニティの条件「第T部」』(青木書店、1997)
佐伯啓思著『20世紀とはなんだったのか』(PHP研究所、2004)
参考サイト
http://www.sanseido.net/
http://www.lcv.ne.jp/~yazaki46/cinema99.htm
http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/R/Roman/Roman.htm