モダニズムに見られる抽象絵画
〜モンドリアンを追って〜                                                     

はじめに

20世紀に入り、芸術家と呼ばれる人々は新たな表現の模索をし始める。従来の透視画法などの肉眼に入る視界と同様の空間を作り出すこととは異なった現実の捉え方をしようと試みる。それは必然的に抽象的なものへと向かう傾向が見られた。ハーバード・リーは『芸術の意味』の中で「本来あらゆる美術は抽象的である」と述べている。

ポール・グリーンハルジュは『モダニズムのデザイン』の中で先駆的段階におけるモダニズムの要素として、12個の基本概念を挙げている。しかしながら、これらすべてを統合的に考えていくと12個の中それら自体に矛盾を感じる。反細分化、社会倫理、真実、総合芸術、技術、機能、進歩、反歴史主義、抽象性、国際主義/普遍性、意識変革、神学。この12個の基本概念は1930年代初めまでに現れた各運動・作品(絵画のみだけでなく、建築、デザイン、彫刻、写真のあらゆる分野のことを指す)をそれぞれにみていったとき、それぞれに考えうる基本概念なのだ。よって、モダニズム期とよばれる時代に作成されたすべての分野の作品に当てはまるというわけではない。例えば、モダニズムに代表される「機能主義」だが、これは絵画や彫刻には当てはまらない。従来から表現方法として使用されてきたこの両者はもともと鑑賞するためだけに作成されるものであった。よって、実際の実用性などとは全く関係の無いものなのだ。絵画の実用性とはおそらくどの程度の金額価値がつけられるか否かと言う問題であり、それ自身を使用して不都合が生じるわけでない。つまり、都市における公共性などの問題を引き起こす原因にはならない。それが、例えば広告デザインやポスターとして使用された時にのみ公共性の問題と関わってくるのであるが、実際の絵画のみで社会に機能主義をもたらすことはできない。といっても、このような実用性と関係の無いこれらの純粋美術はモダニズムの影響を全く受けていないわではない。機能主義に付随された合理主義。抽象性。普遍性といった概念は絵画においても往々にして考えることができる。そこで、モダニズムといわれる時代に描かれた絵画、特に抽象画を追ってみたいと思う。ポール・グリーンハルジュが本文において例として挙げたオランダの「デ・ステイル」の中心者であったピート・モンドリアンを中心に絵画の側面からモダニズムを考えてゆこうと思っている。まずは、『デザインのモダニズム 序章』に述べられているモダニズムについて検討した後に、具体的な例をみていきたい。

 

1 モダニズムとは?

 

機能主義・合理主義に代表される20世紀におけるモダニズム運動のいくつかの概念は、時期によって、不確かなものとなり、消えていったもの、また、時間を経てもなお、存在し続ける概念がある。ポール・グリーンハルジュは、モダニズムと呼ばれる時期を1930年前後までを先駆的段階と呼び、それ以降1960年代までをインターナショナルスタイルと分けている。なぜなら、1930年前後において、世界には第二次世界大戦が各国の国内機関を麻痺させてしまったことで、各国にいたモダンムーブメントを積極的に活動していた団体が解散に追い込まれたからである。同じように「デ・ステイル」も1931年に解散に追い込まれている。よって、世界大戦をはさんだこの二つの段階は多少異なった性質を持つことになる。それほどまでに世界大戦がもたらした影響力は今日となっても強いものであったと言える。例えば、それまで行われていた植民地主義が廃止されたことを見てみても、戦前は当たり前となっていたことが逆転するような現象が多く起こった。そして、都市部における建物の崩壊は戦後の復興を目指して多くの建物が再建されたことも見逃してはならない。

 

 「モダン」とは何であり(あるいはなんであったか)、そしていつ始まったかについてさえ完全な一致はない。一般的な社会用語としては、ヨーロッパの啓蒙主義移行の時代をさすものとして用いられた。18世紀とそれに続く時代にはさまざまな分野で新しい動きをみせる。国家機関としては絶対的な権力を誇示した絶対王政はその力が限界に達し、国民が国家の核となる市民社会へと時代は流れる。個人の自由や平等などといった民主主義が登場した。これらの変化に伴い、また産業革命による技術の飛躍や人口の増加が都市化を促し、いわゆる西欧近代化は世界規模で伝染してゆく。当時「モダン」には歴史的な概念がなく、その意味ではまだ捉えどころがなく、この用語は「曖昧かつ融通が利く」ものであることをニューヨーク近代美術館館長となったアルフレッド・H.バー・ジュニアは考えた。(1934、”Modern and `modern`”)

そもそも、「モダン」とはそれが深い意味をあらわし始めた19世紀半ばのフランスでは単純に「現代」を指し、これを芸術界に還元して用いれば「素敵な当世風」が「過去の価値観や権威への反逆ないし決別」としばしば結びつくのだった。現代に置き換えて考えてみても「今っぽい」などと言われる流行のものは次から次へと新しいものに塗り替えられていくものであり、そうでないと新しいものにならないからである。つまり、斬新さとイノベーションが重要ということになる。この意味ではバーが考えたように捉えどころの無いものとして考えられるのは必然的なことにように見える。つまり、基準が成り立つ頃には次の新しいものが搭乗してくるからだ。当時の人々は先ほど述べたような社会変化に伴う社会の機運に乗じてさらなる飛躍となるであろう新しい「モダン」を必死で追い求めていた。この進取の精神から生まれたものはモダン・アートとして今日受け入れられているが、さらにこれがどうして上に述べた「・・反逆・・」の言葉と結びつくのかと考えると、西欧近代の社会変化に基づいたものが行動の本質と自立性を探るものであったために批判主義へと陥るのもまたやむを得なかったように感じる。

 

つまり、「モダン」を目指していた彼らにとってもそれ自体が何であるのかと言うことに明確な答えを持っていなかった。それは、社会のめまぐるしい変化とあいまって自分たちがおかれた時代精神への問題意識の高揚を促したのだ。この理念をまた絵画の分野でリードしていくこととなるのがキュビズムや抽象主義などの前衛と言われる運動家たちであった。彼らはまたグリーンハルジュの言う先駆的段階を生きた。

 

本文の中で先駆的段階と呼ばれるのは1910年代から1929〜33年のことである。この時期の運動家たちが求めたものはまさに、今ある、自分たちが置かれている社会状況の「進歩」であった。彼らは産業化し、荒廃してしまった生活環境に問題意識を募らせ、今の状態よりも、さらにもっと高次な社会段階を目指したのだ。それはまさに細分化される社会と進歩確信へのあくなき戦いであり、時代の批判精神に基づくものであった。彼らは産業社会に組み込まれ、形骸化されてしまった社会倫理の見直しを根源として自分たちの表現活動として目指すべき目的の明確化を図ったのだ。モダニストたちは社会とかかわっていく自分たちの表現活動においてそこに存在すべき本当の真実を追求した。本文ではモダニズムの特徴として技術革新による新たな素材の出現が作家として表現の可能性の広がり従来の鑑賞するだけの芸術から総合芸術へと広げていくことになり、その従来とは異なる総合芸術は他方で機能主義を軸としているが、はじめにも述べたように、今回は絵画に限って述べたいので機能主義についての言及は避けたいと思う。

 

彼らは、自らの表現活動で市民の意識変革ができると信じていた。それは貧富の差がある階級にも富の創出をささえる推進力に自らの表現が貢献できると思っていたのだ。また、その表現を追及することはその要素における美的な本質をも明確にする。つまり、産業化社会によって持ち込まれた貧富の差を平等化するということが、万人に受け入れられる表現、どこにおいても成立する表現を成立させることを根本の目的とした。それは地域性や固有性を持つ装飾を嫌ったので、装飾を核としてきた従来の歴史主義の芸術から離脱することでもあったので、当然反歴史主義に陥ってしまうことは避けられなかった。この万人に受け入れられるという普遍性は作家たちの表現行為を抽象化へと導くのであった。なぜなら全ての人が理解可能のものとは単純明快な形、例えば四角や三角、円といったものになるからである。これはモンドリアンが提唱した造形主義で顕著に提示されている。

 

それでは次に具体的なピート・モンドリアン(1872−1944)の活動とその周辺を見ていきたいと思う。

2  抽象性の追及

 

                         「花の咲くリンゴの樹」1912年頃          「ブロード・ウェイ・ブギ・ウギ」1942-43年

 

上記二つの作品はどちらもモンドリアンの作品で、左は初期のものであり、右はニューヨークに移ってからの、彼の晩年の作品である。

 

モンドリアンはカンディンスキーと同様に戦前、ヨーロッパにおいて抽象絵画の確立に大いに貢献した。当初、モンドリアンは「花の咲くリンゴの樹」の作品のように自然を描写することから出発する。初期の作品には風景画が多かったが、描写対象をかなり正確に写すことから本質的な部分の構成を単純化する描写へと移行していく。モンドリアンにとって対象物の外観を真似ることは目的ではなくなり、より洗練された本質への回帰へを探求するようになった。これはキュビズムの影響を強く受けた結果だった。キュビズムの画家たちは静物、街景、肖像、風景といって主題を異なる視点から同時に見て、これを分析し、支持体であるカンヴァスの平面性を明かす四角の断片と分割された断片によって構成しなおした。

 

1920年モンドリアンは「新造形主義」を提唱し、垂直と水平の直線、三原色と無彩色の組み合わせから(「純粋な線と色彩の純粋な関係」)すべての形態を造形し、幾何学的に純粋抽象造形にいたることを主張して諸芸術ジャンルを統合する普遍的造形原理の獲得を目指した。このモンドリアンの幾何学的な表現は戦後のモダニズム建築にも大いに影響することとなった。しかし、このモンドリアンの新造形主義はオランダの近代運動「デ・ステイル」を擁護したが、モンドリアンのあまりにも観念論的な厳格さが対立を起こし、モンドリアンは「デ・ステイル」を脱退することとなってしまう。これはモンドリアンがカルヴァン派の伝統の中で育ってきたことと深く関わってきているのではないかと考える。カルヴァン派はプロテスタントの中でも最も厳格な宗派で、カルヴァン派の教会では目を楽しませる装飾は排除され、鼻孔をもてなす香が焚かれることもなく、耳に快い音楽も流れない。彼の作品の中にもこのような厳密な規則が見られる。(図参照)最大の自由は最大の抑制から生じるとする信念に裏付けられている。

 

また、1942年になされた発言の中で、彼は生涯の探究を要約する2つの言葉「造形」と「リアリティ」を強調した。彼にとって、「造形表現」とは単純に形態と色彩の作用を意味した。「リアリティ」あるいは「新しいリアリティ」とは、造形表現のリアリティであり、絵画における形態と色彩のリアリティであった。したがって、新しいリアリティとは絵画自体に実在するリアリティであり、自然の模倣や物語的な、あるいは表現的な連想に基づく錯覚のリアリティに対立するものである。モンドリアンは次第に次のことに気づき始める。

A)  造形芸術において、リアリティは形態と色彩の「ダイナミックな運動」の均衡によってのみ表現されうる。

B)  純粋な手段は、これを獲得する最も効果的な方法となる。

 モドリアンは常にその「対価的対立」を通して統一の表現を探し求め、そしてそれが人間と宇宙の中に彼が感じ取っていた、より高次の神秘的な調和を表現することを求めていた。これが彼の最終的な目標であり、それとわかる主題を排除することによって、抽象的構造を生み出すことではなかった。

「ブロード・ウェイ・ブギ・ウギ」では彼の基本要素である黒の線は姿を消している。それまでの厳格で禁欲的な構成のイメージは全く陰をひそめ、ニューヨークのヴィヴィッドな熱気に感応した楽しげで明るい画面になっている。この時点でモンドリアンは彼の造形に負わせた厳格な意味付けを捨て去り、自由で軽快な制作の楽しみを選んだに違いない。そのために、この絵は抽象画でありながら、上空から見た市街、縦横に結ぶ道路、行き交う車、建物を連想することができる。また側面図としてみれば、ビルの内部を図式化したようにも見えるのだ。彼の共感を呼び、かたくなな造形主義を変化させたのは、現代都市ニューヨークの肯定的なエネルギーだったのではないか。ジャズとダンスを好んだ彼は、本来異質なはずの黒人の音楽をも、良いものは良いとしてやすやすと吸収し自らのものとしてしまうこの都市の自由と熱気こそ、新たな時代の姿そのものだと確信していた。後にモンドリアンの手法はバーネット・ニューマンが強い影響を受けることとなる。バーネット自身それを否定しているが、バーネットからモンドリアンの直線的な表現の陰影はぬぐいさることはできない。モンドリアンのこの抽象表現は後に登場する抽象絵画へと組み込まれていく。


あとがき〜考察に変えて〜

 

 モダニズムが求めた抽象性とは普遍的なものを求めた結果であった。20世紀の絵画が形式主義を根本としたのはそういった一つの規定を欲したからであろう。というのも、「モダン」には明確な歴史的定義が無かったためにその定義を作り出すのは芸術家たち自身であった。そのため、モダニズムの絵画はしばしば「イズム主義」とも呼ばれ、表現活動の前に理念の形成に目指しているようにもとられてしまうのでる。実際、キュビズムを代表として、ドイツ表現主義、シュールレアリズム、ダダイズムなど多くの運動が存在し、必ずどれかに部類されなければ社会からの評価を得ることができなかったのだ。モンドリアンの求めた抽象性は晩年認められることとなった。初の古典を開いたのも1942年の彼が70歳になてからのことである。モンドリアンの幾何学的な表現は計算されつくされた抽象絵画と言える。ただ、画家のもつ内なる概念を捉えなおしてキャンヴァスに投影するのではなく、ある一定の規則に従うこと、そして秩序が保たれなければならない点では他の抽象絵画と比べると禁欲的な印象を受ける。この禁欲的なとは平面における合理性を追求した結果の、その規則以外は何も許さないと言うような厳格さがみられると言うことである。この点でモンドリアンはやはり先駆的段階におけるモダニズムの申し子と言ってよいのではないかと考える。なぜなら、先駆的段階においてみられた12個の基本要素はそれを忠実に目指せば目指すほどに矛盾を内包して言ったからである。

 万人に共通する普遍的なものは人々の視覚体験を均質化する。確かにそれが求められるべき目標であったのだ、人々はその中でまた異なるものを探すのである。例えば、T型フォードは1914年にコンベヤ ーシステムで生産される(T型モデルそのものの生産は1908年に開始されていた) ようになった。フォードは、このモデルを変更することなく生産し続けること を言明したが、生産中止を余儀なくされることとなった。それはGM(ジェネラル・ モーターズ)のデザインのほうが市場を獲得してしまったためであった。GMは、フォードとは逆に次々にモデルチェンジするという方法をとったのである。T型フォードはクルマを普及させたが、一度普及してしまうと、消費者は結局、「差異」を求めたのである。差異を求める消費者の欲望に、GMのデザインが 応える形になったということだ。つまり、普遍的なモデルを生産し続けること によって、誰もがそれを手にすることができるようになるのだが、他方では、 均質化した状態に人々は満足しなくなるという現象が引き起こされるのだ。これはある意味で、論理的な矛盾とも言えるだろう。
 モンドリアンも自分の信じた自己世界の中のリアリティを実現することを目指した。これは先駆的モダニズムが抱えていた自分勝手な計算を散在させてしまうこととなる。確かに論理的な矛盾ともいえるかもしれないが、モンドリアンの求めた抽象性は厳格を備えることで当初の普遍性を見失ってしまっていたのではないかと考える。しかし、新しい表現の可能性を確立した彼の実績は現在もなお、グラフィックデザインの世界で生きていることから、モンドリアンの技術の正確さゆえの彼の実績は成し遂げられたと言える。プロテスタントの誠実さが生んだ厳格なデザインは今日、機械の手の正確さへと移り変わってしまった。また、理念を実践できたかと言う点についてはやはり、神秘的観念論を押し進めてしまったことで晩年まで社会に受け入れられなかったのではないかと考える。これまさにはモダニズムが抱えた矛盾ではないかと考える。モダニズムにおいて何が足りなかったかと言えば、「モダン」と言う意味の曖昧ゆえに自己理想の実現へ向かってしまったところであろう。

 

 

 

 

参考文献

・ポール・グリーンハルジュ(『デザインのモダニズム「序章」』、鹿島出版会、1997年)
・MORIARTMUSEUM(『モダンってなに? Modern Means』、2004年)
・フランク・フィットフォード(木下哲夫訳『抽象美術入門』、美術出版社、1991年)

http://www.octkun.com/artistfile/mondorian

http://www.enchanteart.com/week/we172a.htm

http://www.dnp.co.jp/artscape/reference/artwords/k_t/neo_plasticism.html