Freishwimmer 〜写真との付き合い方〜
法政大学国際文化学部国際文化学科4年E組 01G0412 塚原加奈子
はじめに
わたしが写真というテーマにぶつかった時、ずっと疑問にあったことは、何が写真と定義されるものなのだろう。つまり、わたしが今まで見てきた、アルバムに入ったものではなく、家に飾られてある七五三のような写真でもない、美術館で飾られるようないわゆる、芸術的な写真の定義とはいったい何なのであろうということであった。しかし、では芸術とは何であろうか?という疑問が離れなくなるのである。芸術という意味が知りたいのであれば、辞書を引いて調べればよいだけである。そうではなく、なぜ、写真はは芸術と呼ばれるのであろう。写真を芸術足らしめる、芸術の意味は何であろうか?そこで、写真よりも歴史の長い絵画の芸術性はいったい何なのであろうかと考えた。
しかし、よく考えてみると、私は芸術だから評価される、芸術だからどこにでもあるような風景を撮ってきたとしても、「写真」が評価される。と、どこか芸術という言葉で写真の持つ魅力を代弁してしまおうと思ってしまっていたのかもしれない。それに、今や、芸術とは何か?という問いはもう無意味なものになってしまい、むしろ、何が芸術になるのかということをあらゆる人が模索している。もはや、一つの言葉が一つの意味を代弁できない社会になってきているからではないだろうか。
例えば、デュシャンは1913年に自転車の車輪を台所の椅子に倒立させ回転させたとき、それが芸術作品として成立することに気づき、以後、《瓶乾燥台》(1914)や《泉》(1917)などの作品をつくりだした。従来ファインアートとして成立させていた作家性であるとか、一回性であるとかがデュシャンの作り出した「レディ・メイド」という概念が芸術のあり方に突風を吹き込んだ。なぜなら、それまで、作家の手で作られていない作品はなかったからである。どこにでもある日常的なものを用いる事によって、デュシャン自身が作ったものではないが、デュシャンの作品となったのだ。今まで、作家の内なるものに神秘さを加えて、それを「芸術」と呼んでいたのにもかかわらず、デュシャンに続く美術作品は、アメリカ美術の偶然性や行為、概念性であるとか既成品の使用などといった問題に行き着く。もう、こうなると何が芸術なのか分からなくなる。何によって評価され、何をもってして美術館に入るのだろうか。
写真にはそもそもこのような作家性が欠如されるといわれ、ファインアートの文脈で語られる事がさけられていた。カメラという媒介を通して生み出される写真にはアウラがないと。ならば、もともと、作家自らの手で作り出されていない、カメラという媒体によって作られる、「写真」の芸術性とは何なのであろうか?というより、むしろ、そのような従来の絵画が持っていた芸術性を持たない写真だからこそ、その評価はいったい「何なのか?」ということを知ることができるのかもしれない。それは、また、私自身が、何が今、社会に必要なのかを考え、写真には何を込められるべきなのかということ、撮られるべき写真を追うことにつながる。というのも、デュシャンにはじまった芸術という意味の多様化、形骸化がもたらされたということを最初に確認しておかなければならないだろう。なぜそのような考え方が受け入れられるようになったのか。絵画で証明されていた芸術性の意味が、もうまったく別のものになってしまっていたとしたら、何が美術作品を成り立たせているのだろう。
そして、写真は、その写実さゆえ現実の世界の鏡とであると考えてきたが、写真ももはやそんなレベルの評価ではないのかもしれない。そのままを切り取れる写真、それを踏まえると、むしろ、写真こそ、作家性を見事に表せているのかもしれない。作家性という言葉を使うと上記に述べた絵画の評価されるべき作家性と混同してしまうので、言い換えれば、作家「個人」の視点が示される。それは社会に生きている写真家が何を見て、何を伝えるべきかをきりとってくる媒介物となる。当たり前のことかもしれないが、しかし、この多様化された「個人」が認められつつある現代の社会では重要なことのように考える。「個人」であるのは必然で、その権利も認められている。だからこそ、自由な表現であふれるアート界。誰もが芸術家になれるし、誰もがそんな世界に憧れやすくもなっているのかもしれない。そして、マスメディアを休ませることのない事件・衝突といった情報の洪水。もう、溺れそうなのだ。そんな社会でわたしたちはどうのように生きていくべきかを写真家ヴォルフガンク・ティルマンスが彼の写真を通じて、私に教えてくれた。
よって、この論文では、まず、絵画の芸術性とは何かということを確認した上で、芸術を芸術たらしめた所以を考え、なぜ、現在「芸術」という言葉自体が重要性を帯びなくなったのか。そして、最後に、写真家ヴォルフガンク・ティルマンスを検討していきたい。
第1章 絵画の芸術性
1「藝術」
そもそも、なぜ絵画が「芸術」と呼ばれるのか。「芸」という字は「藝」を簡単にしたもので、「?」は会意で人がかがんで木を土の上に植えているさまにより、「うえる」「いきおい」「わざ」の意味を表したが、のち、「いきおい」の意と区別するため、「艸」または「芸」を増し加えた。つまり、人から優れている能力を発揮したときに用いられる。うえるのが上手であるから、それがわざとなり、すべになる。一方「術」は家と家とを従したがいたどる小道の意を表す。転じて、てだての意に用いる。つまり、すべをたどる道すじとでもいうべきであろうか。まとめると、「藝術」とは、わざをなす過程のことである。人よりも優れているという事を言及する言葉として「藝術」という言葉が用いられた。
しかし、従来使われてきた「芸術」とは何か神々しい、絶対評価のような言葉のように聞こえる。というより、むしろそのように聞かされてきたのか。美術館へ行くと、観衆のほとんどは絵を見る時間よりもその隣にある絵画、もしくは画家の説明書きを読む時間の方が明らかに多い。そんな経験をした事のある人は多いはずである。ならば、図書館へ行けばよいのだ。時間をかけてみなければいけないのは説明書きではなく、かざってある「絵画」そのものであるはずである。
しかし、絵画がもつ魅力とはいったい何なのであろうか。
2.作家性
絵を書くという行為はだれでも無享受にできるものである。文字で表現されているものは文字の取得と教育が必要となる。文明は文字の発達と共に記録をつづった。しかし、古代の人々も洞窟画により記録している。例えば、ラスコーの洞窟画(前15000年)では鳥の頭をした仰向けの人物や傷を追ったバイソン、矢から逃れようとする馬の姿が見られる。ここから、当時の人の生活や文化を読み取ることができる。
実際のものを描くこということは、自分が見た、知覚像を写すということである。そして、記憶によって描くということは、心に蓄えられているイメージを写し、想像によって描くということは、心憶から創り上げられたイメージを写すということである。この写されたものが「似ている」という点から、絵は「表現しているものの再現」と、認識しがちだが、画像はそれが表現しているものについてのある情報を提示しているにすぎない。
ラスコーの洞窟画の場合、バイソンや馬の姿は死への弔いである。エジプト文明のパピルスに記された人物も神官らしき人が多い。ここで、人はまず、「想像によって描くこと」を始める。例えば、わたしの祖父が亡くなるとする。わたしは祖父に決して会えないという現実に悔やみ、悲しむだろう。そして祖父の生きていた日々を思い出し、祖父がいれば、などと想像することがあるかもしれない。なぜなら祖父には二度と会えない現実がそこにあるからだ。この現実は私にはどうすることもできない。逃れられない苦難なのである。人間にとって最大の普遍的事象は「死」である。そこで私は架空の空間を作り上げて想うのだ。完全なる肉体の消滅が現実をより、血肉化し、わたしたちに知らしめる。つまり、彼らにとって受け入れることの困難な目の前の事象を表現することは描くことであった。描くことは「想像」への第一歩であった。
文明も発達したころ、宗教画で知覚像と想像が融合される。それが心憶のイメージを作り出すようになる。例えば、「マリア像」というのはどれも同じ顔・体をしていない。ルネッサンス期の絵画はあれだけ、実際の人物に忠実に描かれているのにどれも異なっている。これは誰も実際にマリア様を見たことがないことを実証している。それがどうどうと教会の壁絵となっているのである。しかしながら、キリスト教を信じ、教会へと通う信者はそれが「マリア様」であるという記憶へと、刻み込まれていく。確かに、宗教的中心力が9割を示すだろうが、やはり、人々というものは未知の世界の表象を信じやすい傾向にあるのかもしれない。
となると、「描く」という行為はそもそも、未知のものへの想像から来た。そこで、技法の進歩により、知覚したものを忠実に伝える機能ももち備えたのであった。しかしながら、これは1839年、写真の登場の登場により、その重要性を失う。そうすると、絵画は想像世界を写すもの、心億を投影するもののみの役割しか担わなくなるのである。こう考えると、わたしの言及してきた絵画に見られる「芸術性」というものは想像することと、個人の持つ記憶を投影するものという定義がおのずと生じてくるだろう。そうなれば、写真の「芸術性」はここで絵画との「芸術性」と大きく別離することとなる。なぜなら、写真とは想像を投影することはできない。写真の映し出すものは誰しもが認識でき得るものなのである。だれもイエス・キリストの写真は見たことがないであろうし、釈迦の写真だって存在し得ないのだから。
3、ミニマルアート
以上のようなことを考えると、戦後アメリカで発生した、ミニマルアートを優しく理解する事ができる。ミニマルアートは40年代に現れた抽象表現主義の結果、必然的に出てきたアートであった。抽象表現主義者としても名高い、フランク・ステラが1958年に発表した「ブラックシリーズ」がミニマルアートの駆け出しと呼ばれる。というのも、抽象表現主義が獲得したオール・オーヴァーな効果をそれとは異なる方法であみ出す。キャンヴァスをオールオーヴァーに埋める方法としてストライプを発見。オールオーヴァーとは英語で「全体をおおう」と言う意味。ステラはキャンヴァス内の空間の広がりをどこまでも続く、一定の感覚で繰りかえすストライプによって表現した。遠近法などの伝統的な三次元空間を否定し、純粋に視覚の表現を追及し、新しい絵画の道を切り開く。つまり、西欧の伝統的なイリュージョニズム、上記に述べてきたような、作家の内なるものの再現性を排除し、「表現」というより「存在」として作品を目指した。
同様に、ドナルド・ジャットは以下のように言う。
“もしあなたが部分を関係付けようとするならば、まずあなたは例えば画面の矩形といったあいまいな全体を想定しなければならない。ところがここにあるのは明確な全体(definite
whole)であって、部分はあってもほんのわずかしか存在しないので、部分を関係付けるという発想は破綻してしまうのである。”
ここで「明確な(specific)」とは作品がその形状のみを呈してそれ以外のなにものも示さない状態を示し、そのような物体をジャットは強調する。つまり、作品それ自体で成立し、作品を目の前にしたときに何らかの関係性を生むような要素をできるだけ最小限に排除する。作品それ自体以外の何かを意味する作品ではなく、存在−つまり、感覚の表明や対応を拒絶するものなのである。
ジャットはこれを特殊な物体と呼び、特殊な物体はそれを通して見るもの感覚に訴え、何らかの表現をなすための手段や道具にはなってはいないとした。
2で示したように、絵画は作家の内なるものの投影なので、もちろん作家の経験から生じるものであるから、見るものの経験を結びつくことはないとは言い切れない。よって、ジャット自身もいかなる外部も参照しないで、絵画を描く事は困難な課題であったのだ。よって彼の理論は絵画という、平面での達成ではなく、立体空間へ表現は必然的に向かっていった。
このようにミニマルアートが現れた1960年代以降、純粋絵画で言われていたような作家性を持ち備えた芸術作品は少なくなる。なぜだろう?それまでの「美術」という言葉では置き換えられないはずであるのに、しかし、「美術」作品以外の言葉が当てはまらない。デュシャンのレディ・メイドは、デュシャンという署名があるから、「美術」作品としてあるのではなく、常に見るものの判断によって、「美術作品」として立ち上がる。つまり、作家の一方的な作品だけではもはや、評価されなくなった。いや、というよりむしろ、作家たち自身が一方向的な、抑圧的な芸術概念の押し売りがいやになったのか。ともかく、従来なかったこの概念を生み出したという成果がレディ・メイドの素晴らしいところである。ということは、作家にも鑑賞者にも一つの概念では捉えなくてもよい、多様化された感覚を持つ社会が背景として存在したのだ。
それでは次にこの多様化された感覚を持つ社会とはどんな社会の事を指すのか考えたい。
第2章 ポストモダニズムと呼ばれる社会
1 モダンな世界から
18世紀になってから、ハーバマスのいうモダニティのプロジェクトと呼ばれるものが注目されるようになった。モダニティのプロジェクトとは“・・合理的な形態の社会組織や合理的な思考様式を発展させることによって、人間は神話、宗教、迷信から解放され、人間の奥に潜む闇の部分から解き放たれるとともに、専横な権力からも解き放たれる。”ものであると
デイビット・ハーヴェイは説明している。
18世紀のヨーロッパ世界の特徴を指すものといえば、フランス市民革命を抜きには考えられない。この革命は従来、絶対視されていた、人間の「神聖性」であるとか「神秘性」であるとかを覆すものとなったからである。なぜ、ヨーロッパ世界に注目するかといえば、20世紀になるまで世界をリードしていたのはヨーロッパであり、彼らはまた自分たちの考えを世界に広めなければとさえ思っていた。実際、西欧近代化という語によって各国に産業革命が広まっていたのは周知の事実である。よって、18世紀世界を語る上でヨーロッパを抜きには考えられない。
この革命は、それまでの教皇から権力を担った王権を駆使した絶対王政の崩壊、言い換えれば、権力がひとつに集中することで生まれる、不平等な関係をなくすことが革命理念として目指された。「自由、平等、博愛」という概念をもたらしたこの市民革命を支えたのは言うまでもなく啓蒙思想である。啓蒙思想とは「18世紀フランスを中心としてヨーロッパ全域に広がった革新的思想。キリスト教会などの伝統的権威から解放された理性の使用を公衆に促し、人類の普遍的進歩を図った。フランスではデカルト的体系への批判を伴った。フランスのボルテール・百科全書派、イギリスのロック・ヒュームが代表。啓蒙主義。(三省堂提供「大辞林
第二版」より)」
啓蒙主義者たちは理性、人間の知性によってのみ社会は秩序立てられると信じ、なぜなら、バースタインの言葉を借りれば、人間の本質は理性であるとされるからである。しかし、このような考え方は一方で矛盾を生み出す。人間の解放を促すはずであった理性の優位は、人間解放の名の下に抑圧的なシステムへと変容する。つまり、例えば、自国の利益追求のみに陥ってしまった帝国主義の国々が生み出したものは被支配国への強制支配という名の、自国の破壊であった。だから、ニーチェはこの理性こそ野蛮なものであるとした。
つまり、理性によって新しく作られるためには何かを壊さなければならない、しかし壊すためにはつくりつづけなければならなく、どうしても、一種のディレンマに陥る。ハーバマスの言うモダニティのプロジェクトもまさにこの両面を持ち備え得え、一方はうつろい易く、もう一方は永遠に変わらないものとして存在する。
20世紀になる頃までには、人間の永遠で不変の部分を定式化するにあたって、啓蒙の理性を賞賛することは不可能なこととなった。確かに、18世紀の社会は理性による法秩序や国の整備は市民革命を促し、市民社会を目指す土台を作ることとなった。しかし、王ではない市民が権力を手に入れることによって、個人の利益のために国を動かし始めた。こうなると、もう理性だけでは測れない社会が生まれてしまう。そこで、ニーチェは美学を上位に据えた。よって、芸術家や文筆家、建築家、詩人、思想家、そして哲学者などがこの中で特別な地位を得たのである。
地位を獲得した芸術家たちは、自らの言語を携えて、社会を動かそうとした。彼らは自らの表現行為が正しければ普遍的に通じるものであるとし、のちに国際主義へと変遷していく。しかし、これもまた啓蒙主義によって支えられた19世紀の社会が権力を持つようになって自らの利益追求のみに陥ってしまった権力者と同様の経緯を辿る。ハーヴェイの言葉を借りれば「社会の鏡よりもむしろ自己言及的な構成物」となってしまったのである。
一つの様式で世界を制御する事ができるという考え方が「モダニズム」の様式をも促進させた。単に、戦前状況下の人々の心配や不安が人間の進歩的普遍主義の立場を強めたのかもしれない。しかし、モダニズムと呼ばれる美学の優位もまた人間の抑圧的なシステムを生む事になった。例えば、バウハウスに代表される機能主義的なモダニズムデザインが戦後のデザインの支配的なモデルになってしまった。というよりも、戦後でもなお、誰もが一つの何にもふさわしいデザインが必要であると考えてしまっていただけなのかもしれない。一つの表現様式で支配される社会こそ、秩序だっていて、そこには理想的な社会が形成されると考えていたのだろうか?
2 ポストモダニズム?!
・・・現代におけるモラルの危機は、啓蒙思想の危機である。というのも、実際に、啓蒙思想は「個人の自由が埋没していた中世の共同体や伝統」から人間を解放させたかもしれないが、「神」なき自己を肯定する啓蒙思想は結局は、自己を否定することになったからである。神の真理が欠如し、精神的な目標やモラルの目的が何もない状態で、理性という一つの手段が残されたがゆえに、もし、欲望や権力が理性の光を見出す必要のない唯一の価値であるなら、理性は他者を支配する単なる道具に違いない(『パルティモア・サン』1987.9.9)。(「モダニティの条件」より)
第二次世界大戦はまさに、消費する場所の喪失によって、誰もが行き先を見失い、陥ってしまった権力崇拝の結果である。消費する土壌の権利権をめぐって争われたのが第一次世界大戦であったが、敗戦国は必然的にその土地の所有権を奪われた。消費する場所のない敗戦国は自国内で戦争の痛手により自国で経済を回すことすら困難となり、社会が不安一色となる。そこに現れたのがヒットラーであり、ムッソリーニであった。各国が絶対的権力を賞賛してしまったのは必然的な結果であり、支配するものが生まれた時、同時に支配されるものが生み出される。もちろん、ここで問題なのは支配されるものの自由はどこに行ってしまうのかということである。啓蒙思想でささえられていたのは人間の生まれながらに持っている「自由」というものである。彼らは自由を理性で掲げながら、自由を奪っていた。上記の引用文にあるように、結局、理性は他者を支配する道具にしかならなかった。
そして、ハーヴェイ引用文の後に次のように続けている。「ポストモダンの神学的プロジェクトは、理性の諸力を放棄せずに神の真理を再肯定することになる。(P66)」ここで出てくる、ポストモダニズム出現のきっかけとなるのは独裁支配の崩壊によるものであったと私は考える。市民革命から始まった啓蒙思想の社会が一旦崩れる。価値の無価値の時代を各国が共有した結果である。
ともかく、一度壊れた。しかしなが、市民が日常生活を取り戻すための復興は新たな物語を生み出してゆく。進歩史観に基づいたモダンの潮流は戦後の復興事業をと深く結びつき、合理的判断に基づき、効率よく経済を立て直す。実際、戦後フランス社会の動きの中で、誰もが巨大な進歩の中に生きていると思い、自分の子孫は必ず自分の世代よりもよりよい生活ができるであろうと信じていた。
このような社会の中でミニマルアートは登場してきた訳であるが、やはり、芸術の分野では、もはや従来のカテゴリーでは「美術」と言えない領域の、しかし「美術」作品としか言えないようなモノが登場する。こうなると、これは新しい潮流と読まざるを得ない。これを人々は「ポストモダニズム」とか「ポストモダン」であるとか、言うのであるが、「モダンの後」というこの意味はどこから始まり、どこから明確な国境線をひけるのが定かではない。一般に1970年前後であるが、確かに、従来日の当たらなかった考えに対してスポットが当てられているのも事実ではある。例えば人間が男と女にしか分かれていなければならないという理論はもはや不用であるように、戦後従来の考えを逸脱した考えが社会に現れてきたのは紛れもない事実である。
しかし、戦後生まれの私からとってみれば、一つの事が全てのことに当てはめることができないのは当然のことであり、これはもう感覚である。団体活動をすれば、多種多様な意見が生まれ、全員が100%納得して一つの物事に突き進むというのは困難を要する。というより、そもそも人の考え方は多種多様なのだからしょうがない。だって、1人として同じ人間は存在するはずがないのだから。その分、異なる考えをそれぞれが持っているのは否定できないのも事実なのだ。そのような個人の考え方を認めることができるようになった啓蒙思想にむしろ感謝しなければならないのであろうか。誰かの経験の中に自分の今存在する世界がある。そして、それは常に不安定で混沌としている。
ハーヴェイはまた次のように言っている。
他方、一時性の喪失と瞬間的影響の探求という事態に対して、深層の喪失という事態が見られる。ジェイムソンは、現代における文化的生産の多くが外見、表層、瞬間的影響にしがみついており、時代を超えて、持続するような力を持たない「深層喪失状態」にあることを特に強調している。(P87)・・・表層を解明して本質的な意味を確認するために、欠かすことのできない共感と真面目さをもってこれらの表層にどのように注意してはらうことができるのか、というものである。ポストモダニズムは、底知れない分裂状態と刹那的性質に一切身を委ねており、概して上記の問題(ここでは表層)を熟慮する事を拒んでいる。(P,88)
モダニズムという権威的システムからの逸脱ともよべるポストモダニズムの登場は何をつかめばよいのか分からない不安定さ、不明瞭さをもたらした。例えば、刹那的といえば、街に溢れかえるフリーター。従来は「これ」に就けばその先安定した生活をおくることができたし、考えるまもなく「これ」が先に存在し、レールは常にひかれてあったし、決められていた。
しかし、そもそも「これ」といったものなどなかったのだ。それはむしろシナリオ通りになるように誰かが考え、実行されていただけなのかもしれない。もともと「安定された」世界などない。いつも秩序立てて、作って、解決していくしかない。もしかすると、今現在もこのように誰かが神のように操作されている状況が起こっているのかもしれない。いや、起こっていないのかもしれない。ただ、ここで私がモダニティの条件を基礎にポストモダニズムという考えを持ち出してきたのは、私たちは不安的な社会の中にいるということを明確にしたかった。それは自由故の不安定さ。戦間期に天皇によって全て決定されていた安定さの裏で、自由へのあくなき憧憬が生じていたのに、今では自由ゆえのもがき、手に取るものの曖昧さ、はかなさとの百戦錬磨である。やはり、どっちをみても世界は一方では永遠で、もう一方では混沌としている。
話を戻してみよう。啓蒙思想のプロセスと私が最初に提示した絵画の芸術性を辿っていくと、啓蒙思想が人間をその鎖から解き放つために、知識や社会組織から神秘性を取り除き、神聖性を排除して、理性でもって社会を支えた。芸術もまた、作家の神秘性から解き放とうとするとき、理性でもって支えられるのか。確かに、アメリカ抽象表現主義以後、美術作品はとてもコンセプチュアルな理論によって支えられるものに移行していく。だから、美術の流れをつくるのはアーティストとではなく、キュレイターになっていった。よって、芸術をめぐり、私がこう考えてしまっている事が自体、もしかすると、芸術を行う作家の行為に何も意味を持たさなくしているのであろうか。いや、むしろ、そうして初めて美術作品を作っている人たちの意味を追求する事ができるのかもしれない。
松井みどりはティルマンスの写真をポストモダニズムの流れを汲むアーティストとして紹介している。混沌とした今の社会にこそ、言われるべき、評価されるべきものの真意があるような気がしてならない。そのように言われるティルマンスを検討していき、ティルマンスのような考え方がどのような意味を持つのであろうかということを考えていきたい。
第3章
ヴォルフガンク・ティルマンス
1 ただのスナップ写真?ベッヒャー派との比較
“プロの工芸的美学の前で、あるいはベッヒャー派のCプリントの美意識にとって、彼の写真はきれいに撮れた素人の「スナップ写真」にすぎないだろう(その言葉を彼が正当に忌避するとしても)。”(清水譲、2002年)
ベッヒャー派とは、ベッヒャー夫妻(ベルトン&ヒラ・ベッヒャー)がデュッセルドルフ美術アカデミーで教師としても才能を大いに発揮し、彼らに学びんだ若手アーティスト、アンドレアス・グルスキー、トーマス・シュトルート、トーマス・ルフ、カンディダ・ヘファーなどが「ベッヒャー派」と呼ばれ、80年代以降の現代写真に新しい流れをつくった。写真を自己の内面の表現に用いるのではなく、外界を探究する分析的手段として用いて作品を発表。
例えば、トーマス・シュトルートは出来るだけ自分の主観を取り除き、写真側から現れてくるものを発見して 見極めようとした。これはベッヒャー夫妻の工業的建造物を撮影していた視点を同様の部分を持つ。
写真を見てみると、確かに、ティルマンスのモチーフとは似て非なるものといったところだろうか。同じドイツ被写体としていることもあってなんとなく、似ている風景があると捉える事もできるかもしれない。連続された作品集を見ると、その違いは絶大である。というのも、ベッヒャー派のような、「派」のテーマとなれるテーマを持っていない。言い換えると、ティルマンスももちろん、テーマを持っているのだが、ベッヒャー派は代弁者の中に写真の魅力を見つけたのに対し、ティルマンスはティルマンスにしか分からないテーマが奥にある。例えば、恋人の死であるとか
上記の作品は「Burg」という写真集の表紙だが、これはエイズで亡くなった最愛の恋人ヨッヘンに捧げたもの。ティルマンスはヨッヘンを「ねずみ」の愛称で呼んでいたとか。この写真など、一見ただのねずみであるし、言われなければ特に「なぜねずみ?」などと意識しないでも過ぎてしまうのではないかとさえ思う。それくらいティルマンの切り取り方は至って普通なのだ。分かり易くて、でも分かりにくい。見たことのアル風景だからこそ、見ていて共感してしまう部分を持つ彼の写真。それでも、ふと客観的になってみると「で?」と思ってしまう。それでもなお、ティルマンスの写真にこんなにも多くの人が魅了されるのはなぜなのだろうか。少なくとも、私はなぜこんなにも魅了されるのだろうか。一度、ティルマンス自身に目を向けて、少し考えていきたいと思う。
2 リアルなものの存在
ヴォルフガンク・ティルマンスは1968年ドイツに生まれる。90年代初め、雑誌「i-D」などに掲載した写真作品が注目を集めて以来、人気も評価も上昇中で、2000年には、若手作家の登竜門「ターナー賞」を受賞し、ロンドンを中心に活動している写真家である。「i-D」時代なぜ彼が注目されたかといえば、従来のような特権的にモデルを写すのではなく、普通の少年少女が野原や路上で戯れる姿を写していったからだ。服もブランド品をさりげなくみせて、たまたま彼らに身につけられているものとして撮られていた。ティルマンスは写真として求められているものをもう一度捉え直し、再構成して、服というものが、単なるモデルをみせる手段としてのみに働くと言う事を、捉え直させた。それはある意味で完成されていない少年・少女を髣髴とさせる。
未成年的な感覚の表現は、ティルマンスの作品の重要な特徴です。・・・未成年の存在は伝統的な主体性に捉われない生成途中の自我の姿という点で、ゲイである彼自身が精神的に共感できるものでした。(2002年、松井みどり)
彼の写真を気にしてみていると、確かに、男の人の写真は多い。しかし、それだけでは彼がゲイであるとか否かは想像つかないし、様々な本を読むまで知らなかった。たまに、男同士の濃厚なキスシーンの写真を見ていると、特権的な世界への入り口を示しているのか、提示されているのかと思ってしまうが、彼の作品はそのような濃厚な写真の隣にフルーツを並べて撮った写真が置いてあるのだから、少し驚いてしまう。ティルマンスの撮りたいものは、何なのかと、?マークはたくさんついてしまうのである。これを単純に性の解放だとか、新しい社会運動の一環の現われとみて、ティルマンスをその文脈において彼の写真を見ることは何か違う。
彼が出てくる以前に、同性愛の写真を社会に出してセンセーショナルを巻き起こした写真家がいる。ナン・ゴールディンである。彼女はそして、学生時代のボストンやニューヨークでの生活のさまざまな場面、セックスとドラッグと暴力にまみれた日々や、エイズ禍の残酷な運命に翻弄される人々を、記録として写真の映像に収めた。彼女は、自分や愛人や友人の身の回りで起こる、けっして戻ってこない出来事を記憶に刻み込もうとする。彼女自身がいうように、肖像写真を撮ろうとしたのではない。生活の複雑さの断片を一つ一つ積み重ねるように映像にとどめたのだ。彼女は写真集『I’ll be your mirror』の中で次のように言う。
“・・I was documenting my life.・・・
・・ There is a glass wall between people, and I want to break it.・・”
彼女は彼らの中に溶け込みたいと、入り込みたいと思って撮影しているのではないと言う。ドキュメントしている、つまりあるがままを写している。だからこそ、見る人と見られるものの壁を取り壊したい。つまり、同性愛とかドラッグであるというアングラな世界をカメラという発信機で共感を求めていたのかもしれない。そして、彼女の作品はこういった一貫したテーマがあり、写真の内容をストレートに表示してくるのだ。松井みどりはナン・ゴールディンのことを次のように言う。
極限状況にいることで特権化された人々を主題とし、対象をフレームの真ん中に納める傾向を持っています。フォトグラファーが対象に肉迫し、それを観客に向かって迫ってくるような強いイメージに作り上げるのです。(P,163)
そう、確かに、ナン・ゴールディンの写真は主題がはっきりしている。彼女の経験や、見ているものがそのまま切り取られ、ストレートに何かを伝えてくる。涙や、死は悲しみと言う言葉では足りない何かを伝えようとしているのかもしれない。ティルマンスとナン・ゴールディンに共通して言える事は、被写体の多くが家族でもなく、他人でもなく、「友人」であるということだ。
1980年代から90年代半ば過ぎぐらいで当時の同時代の写真家は、信じるべきもの、最もリアリティーを感じえるものを政治的なものよりも身近な世界に求めた。1989年にベルリンの壁が崩壊し、以後90年代はまさに冷戦構造の崩壊が加速し、東西の政治の構造が崩壊し、拠り所とするイデオロギーもまた分解してしまった。一方湾岸戦争以降は、国家による報道管制が巧妙になり、映像や写真のイメージが、少なくとも真実を伝えるメディアとしての立場を維持するのがあやしくなったのも事実である。よって、ナン・ゴールディンのように写真に身の回りの友達や家族といった私生活の写真を撮るのは必然であったのかもしれない。リアルなものへの探求。政治的思想が自由ゆえの模索なのかもしれない。そして、そのようなリアルを伝えられるのは写真という手段だからこそ持ち合える技術でもある。
しかしながら、ティルマンスは単にリアルなもののみを目指しているのではないかと考える。確かに、政治的な何かに頼れない、頼らない社会が現代である。それでも絶対政治的何かとは無関係でいる事などできないのもまた事実である。その中で彼が見つめたものは、彼の私生活を通した「日常」。日々繰り返され、消して消える事のない「生」という毎日。生きている以上、見過ごす事のできない呼吸。これが行われる場所は個人の生活空間の中にある。彼らにとって、リアルなものはとはつまり、「生」である。ナン・ゴールディンにとってリアルなものは避けられない同性愛であり、セックス、ドラッグ、エイズであった。自分の呼吸して、「生」を感じる場所にあったものがそれらであったのかもしれない。そして、ティルマンスの場合、それを通り越してもっと、それらが行われている「日々」に近づいた。もちろん、90年代のユースカルチャーの代弁者になることは可能だったし、その場所にいたティルマンスが一方でそう呼ばれているのもまた事実である。しかしながら、ユースカルチャーをユースカルチャーというカテゴリーで捉えない、もっとリアルなものへ、かれの写真は「日々」へとつながるのだ。
よって、次はもっと、彼の「日々」に近づいて彼の写真への姿勢をみようと思う。
3 Freishwimmer
ティルマンスのカラー写真には、初めから毎日の日常生活に対する強い好奇心が表れていた。それは後になっても変っていない。後の作品もとても日常的だが、プライベートな空間には日常性は必ずしも必要でないということを静かに主張している。(写真集「Wolfgang Tillmans(2004年)」より)
ティルマンスの写真には、変わりない日々を切り取った写真が多い。脱ぎ捨てられた服や、自分の通う学校での光景、食べかけのフルーツの残骸、キスをする人々。マスターベーションする人。モノから行為まで、あらゆる部分で見る人とが自分の経験との連結を想像することができる。何か特別なイベントではなく、ごく当たり前に過ぎてゆく日常。そんな中でも、やっぱり、クラブでの光景ややゲイの世界、もしくは彼の友人たちは独特な雰囲気で私たちを包む。それは好奇心をかき立てられるのと同時に自分の住む世界とのギャップを感じてしまう。偏見と言えばそれまでかもしれないが、今現在、日本の教科書ではゲイの恋愛は教えてもらえないし、セックスの方法も教えてはくれない。学校で習わない事はすべて裏の世界の情報というように、私たちを社会と言う網が覆おう。もしかしたら、それこそむしろ「リアル」な自分たちかもしれないのに。それが、上で述べられている必要のない日常性。一般的な日常性なのではないだろうか。そして、ティルマンス自身も、一般の人とかけはなれた生活をしているという自覚があった。彼はなるべく誰もが共感できる何かを探しているとか。
”写真を撮りながら、他の人とつながろうとしてる。誰かが共有できる経験を探していると思うんだ。” (「Esquire」2002 vol.16 No.3より)
“もし僕の作品が自分の目で世の中を見るのに役立ってくれれば嬉しいかな。でも一番嬉しいのは『これどこかで見たことある』って感じる写真を3枚見つけてくれることかな。『こんな感じの生地を前にどこかで見たな』とか『うちも昔こんな風に果物を置いていたっけ』とか。そうすると、好きな音楽を聴いている時みたいに一人じゃないって思えるじゃない。でも2枚か3枚じゃないとだめなんだけれどね”(デイズト&エキサイトホームページより)
共感を得つつ、それでもやはり、自分のカラーは逃したくない。自分の切り取ってくる写真はある種、特殊性があってほしい。なんともアーティストとして魅力的な言葉だろう。
しかしながもう一方で、ティルマンスの写真を倉石信乃は次のように言っている。
「自らの写真世界が私生活の内向的な描写にとどまらず、マイノリティの生存に対する強い共感に裏打ちされている事を証言する」(『世界写真史』P149)
確かに、彼の住むゲイという世界はマイノリティなのかもしれない。しかし、ティルマンスの写真には単に彼らの存在を認めて、気づいてほしいと言うようなメッセージ性は感じられない。むしろ、前項で述べたナン・ゴールディンの写真が倉石さんのいうようなことが当てはまるかもしれない。それはティルマンスよりも15年早く生まれたナン・ゴールディン故の叫びというか、ゲイやレズビアン、人種差別といった社会的な解放運動は1970年前後を中心に叫ばれてきたからなのかもしれない。
そもそも、それを通り過ぎた1980年代生まれの私にとって、ゲイもレズもいて当たり前だという感覚がある。これはもう感覚としか言えない。それに、ティルマンスの写真は単なるマイノリティゆえの美しさではないとも考える。むしろ、そういった世間一般では特殊と言われるような事柄も当たり前に捉えさせてくれる。彼の日常は私たちと変らない日々であって、そこに美しさが常に存在する。というより、「日々」にある美を彼の写真が教えてくれる。アートだとかファッションだとか、そんな言葉で美をカテゴライズしてしまうと、中身のないとてもつまらないものになりかねない。美しさって特別なことではないし、かっこよいことでもない。誰もがふと感じて、ちょっと心が動いて感動してしまう。雪がふった次の日の朝焼けとか、海に落ちているガラスビンのかけらとか、花屋にいつもおいてある季節感のないのバラとか、人が「キレイ」ってちょっと思う事って日々の中に潜まれている。そして、わたしたちはそれを無意識的に気づきながらも、そのまま通り過ぎている。ティルマンスはそうした、瞬間瞬間にある私たちの無意識の感動を写真に閉じ込めてくれているのかもしれない。
しかし、そう私が感じることができるのは全てティルマンスの写真に対する姿勢が全てを物語っている。彼は次のように話す。
“ものの見方って「公式化」しちゃうと「純粋さ」は失われしまう。“
“不条理を拒絶するんじゃなくて、それが受け入れる事ができないとかえって不幸になる”(「Esquire」2002 vol.16 No.3)
わたしはこの彼の言葉にとりとめない希望を抱かずにはいられない。公式化された社会、Xを含む方程式は必ず、Yがどうなるか決まっていて、だからこそ、人も公式化したがる。そして答えをさも単純明快に導きたがる。確かに、一方で物事を合理的に考えていかなければ、経済と言うものは滞ってしまうだろうし、先に進めないのかもしれない。公式化されていなければ私がこまるもかもしれない。しかし、私は数学の公式をすぐに覚える事はできなかった。単なる数式のパズルのように問題を解くのは一方では楽しかったし、点数をとることはできた。それでも、やっぱりなんであんな公式を考えたのだろうと言う疑問は消えなかった。そう、公式などそもそも存在しない。公式とは人が決まりを作って、答えを導きやすくするためのものである。しかし、社会って、人がたくさんいるところって、そんな方程式に当てはまるほど物事は単純ではない。出口の見えない迷路のように不可解なのだ。だからこそ、そこのところを理解できれば私たちはもっともっと「そのモノ」自体を知ることができるし、触れる事ができるはずなのだ。宗教が違うからとか、国が違うからとか、性別が違うからとか、受けた教育が違うからとか、育った環境が違うからとか。そんなこと問題なのではない。そこは違って当たり前。たぶん、ティルマンスが写真を通じて、上の言葉でいったものは不条理な事って当たり前なんだということではないだろうか。例え私たちに違和感のある光景であっても、彼の写すクラブシーンや若者文化は彼にとってごく当たり前のことだったし、ティルマンスにとってはごく普通の日常だった。それは背伸びでも何でもないし、飾っているわけでもないし、ユースカルチャーの代弁者を気取っているわけでもない。ただ彼は自分の生活を自分の好きな写真で撮っているだけなのだ。
“写真の面白さは背後のアイディアだけだとずっと思っている。それはコンセプトと言う意味ではなくて、どのように世界を捉えるかなんだ。オープンで遊び心があって、好奇心もあった上で、写真を撮る事に夢中でほかの事に何の好奇心も持たないかの違いだね。誰かのようにではなくて自分の目を信じるということ。”(『BRUTUS』2004.vol.553より)
以上のようなモノの見方のフラットさに加え、ティルマンスに魅了される理由はもう1点ある。それは彼が切り取る世界、それが全てだとか自分の考えた事を全部伝えたいとか、そんな風にも思っていないとこだ。ティルマンスは次のように話す。
“過去を振り返って、何を重要と感じたかが分かる。とはいっても、おそらく今ここでそんなことに真っ向から直面する事もできないし、そんなことをする必要もないと思うけど。・・
僕にとって何か意味のある写真全部をまとめたかった。とはいえ、最終的には写真は自由なままで、展示の中でその写真がどう読まれなければいけないかなんてことは僕は決して言わない。・・・僕自身がなぜ、その写真をそこにいれるのかを知っていたとしてもね。・・
ものごとをそれ自身あるがままにしておくことは、支配するのをあきらめることで、ものごとを受け入れようと試みることなんだ。そういう経験の中に喜びを見出しながら、さらに単純な答えなんかないんだという事実を証言すること。・・
どんな種類のメディアでも、・・それを利用するために自分の力を行使する場合、大いに責任を感じるよ。・・
本物らしさと妥協なしの関係を持つのはおそらく不可能だ。”
(Freishwimmer(2004)カタログより)
公式化せず、その純粋さを突き詰めれば突き詰めるほど、逃れようもない相違からは逃げる事はできない。国が違えど、心は同じとは思っていても、やっぱり食事の好みは違うであろうし、ライフスタイルは異なるものだ。イギリスに行って、日本とイギリスのハーフの子でさえ、日本の「わび、さび」文化を伝えるのが非常に困難だったことが思い出される。しかし、ティルマンスのいう妥協と言う言葉もすこし強すぎるかもしれない。妥協ではなく、譲歩。どちらか最初に相手とのズレに気づかなくてはならない。そうやって始めて、関係を築くことができる。だから、やっぱり単純な答えなんかないし、むしろそれを模索する事に喜びをみいだすべきなのだ。無重力の水の中は呼吸ができなくて、でも自由に動き回れる開放感がたまらない。そんな世界がティルマンスのFreishwimmer(英語で「free swimmer」=自由に泳ぐ人)の世界なのだ。しかも、Freishwimmerにはドイツ語でもう一つ「初めての水泳テスト」とう意味もあるそうだ。自分がフラットゆえ、見る人にも開放感を与えてくれ、でも、しっかりティルマンス的ナビゲートで今ある世界を教えてくれる。曖昧な社会で、なおかつ曖昧な写真。その中にあったのは曖昧さゆえの強さ。水の中で溺れないように泳ぐ方法を身につけるのはなかなか難しい事なのだ。それでも、やっぱり水は心地よいし、どこまででも無重力の世界がわたしたちを包んでくれる。
おわりに(考察に変えて)
ここまで書き終えて、重要なことに気づいた。ゼミを通してわたしの問題意識とはなんであったのかということだ。今思えば、それはたぶん、浪人時代、初めて生活した東京で感じた「過度の情報たち」であった。多すぎて、勝手に入ってきて、いちいち振り回される自分がいやだった。過度の情報を消化するのにたくさんの時間をかけなくてはならない事に自分のスピードが追いついていくのがやっとで、もっと時間の単位にゆとりを持たせたかった。それでもその裏で、速いスピードで回転したのは、強い好奇心が私を支えていたからかもしれない。だから、イギリスへ行ったとき、美術館に入って、自由に自分の表現をしている作品を見るのはとても楽しかったし、そんな風に時間の単位を自分で作れる空間が気に入った。美術っておもしろいと初めて思った瞬間だった。そんな作品が時代と共に変化していて、いろいろな社会背景をリンクさせて作品を見ることが私のあらたな好奇心となったのだ。しかし、私はそんなことをつい忘れ、芸術って何なのか?なぜ評価されるのか?という人の意見ばかり考えていた。私はどう思うのかということが足りな過ぎた。そのような問題意識に気づけないからこそ、考える楽しさも足りなかったのかもしれない。
しかし、最後の最後でティルマンスの考え方に出会い、私の中にある根本を知ることができた。芸術性と一般的にいわれる評価基準は、言ってしまえば、いかに作家が生きている社会に対して、それの社会を読み解き、すばやい反応ができているかということであった。そんなことにいまさら気づいた。もちろん、技術面であったり、表現の新しさであったりというものも必要だ。新しさとは強いもので見る人をとてもエキサイティングさせてくれる。しかし、新しければよいというわけでもないし、新しさはその瞬間だけで、新しさだけで支えられた基準はすぐに古くなるので、評価されるものにはならない。ティルマンスの撮り方は決して新しい手法ではないし、特殊なフィルムを使っているわけでもなければ、独自の方法でもって写真を焼き付けているわけでもない。従来のプリント方法とカメラ屋さんで買えるフィルムを使っている作品をつくっている。では、何がと考えると、やはり彼の姿勢なのではないだろうか。
「過度の情報たち」で溢れる社会とはそれだけ多様化された考え方を認めてくれる状況なのだ。だからこそ、多くの情報から自分に必要な情報を探して、見つけることができる。これが、北朝鮮のように統一された考え方でもって全ての事を考えなくてはならなければ、選択する手間ははぶけてもやっぱり、苦しいのかもしれない。これがティルマンスの言う、
“ものごとをそれ自身あるがままにしておくことは、支配するのをあきらめることで、ものごとを受け入れようと試みることなんだ。そういう経験の中に喜びを見出しながら、さらに単純な答えなんかないんだという事実を証言すること。”
なのかもしれない。
多様化された価値基準は一方で私を窒息させ、時間の単位を忘れさせる。しかし、だからこそ、あらゆる可能性が表現されている美術というものに魅了され、またギャラリーへ足を運ばせてしまうのかもしれない。当たり前なことではあるが、改めて、それは今の社会はこんなに自由であると教えてくれるからなのだ。自由という言葉は少し強いかもしれないが、とにかく私に余裕をもたらしてくれるものだ。しかし、イデオロギーが明確に一本化されていた時代にあまり面識のない私にとっては、今のこの曖昧ゆえの社会が作り出す、当然とされる公式に身を投じたくなってしまうこともあるし、そうしなければいけないのかとすら思ってしまうこともある。もしかしたら、それが神学的プロジェクトなのだろうか。しかしながら、公式化された、たくさんの情報の波は津波ではないし、塩の渦でもない。わたしの「生」は途切れず存在しているし、その営みも消して止むことはない。この世の中で「時間」だけは嘘もつかないし、絶対である。その中で、向き合っていかなければならない現実は、公式化というよりも、その中にあるティルマンスが出会ったゲイという壁のような他人との「差異」なのかもしれない。写真はそのリアルなものと時間をそのままにしておけるおもちゃなのだ。人と人とが交差する社会で、絶対そのネットワークから自分をはずす事はできない。私は一人で生きていく自信もないし、誰も一人でなんて生きていけないと思うからだ。しかもそのような網目の社会で出会う「差異」というリアルなものが自分というものも存在させ、また無視する。社会でこの「差異」と上手く生きていくにはその不条理を受け入れていく事。本物らしさと妥協しつつ、それでも、自分のきれいと思えるものを探し、自分の単位を常に模索し続けて生きたい。
参考文献
・ デヴィッド・ハーヴェイ著『ポストモダニティの条件「第T部」』(青木書店、1997)
・ レジス・ドブレ著、西垣通監修、島崎正樹訳『イメージの生と死』(NTT出版、2002)
・ 永井隆則編著 『越境する造形』(2003年、晃洋書房)
・ 千葉成夫著 『ミニマルアート』(1987年、リブロボ-ト)
・ 松井みどり著『Art:Art in a New World(アート:“芸術”が終わった後の“アート”)』(2002年、朝日出版社)
・ 清水穣著『永遠に女性的なる現代美術』(2002年、淡交社)
・ 中原佑介監修『現代美術事典』(1984年、美術出版社)
・ 飯沢耕太郎監修『世界写真史』(2004年、美術出版社)
・ 『現代美術第18巻 ステラ』(1993年、講談社)
・ 『美術手帖』1999年6月号、2000年9月号、2002年4月号、2004年2月号
・ 『Esquire』2002 Vol.16 No.3
・ 『Esquire』2004. Vol.19 No.2
・ 『BRUTUS』2004.vol.553
参考図録
・ 『Wolfgang Tillmans』(2004年、TASCHEN GmbH)
・ 『Wolfgang Tillmans|Freishwimmer』展覧会カタログ(2004年、東京オペラシティ)
・ ヴォルフガンク・ティルマンス『Concorde』(1997年)
・ ナン・ゴールディン『I’ll be your mirror』(1996年、SCALO)
参考サイト
http://www.sanseido.net/
http://www.dnp.co.jp/museum/nmp/artscape/topics/9812/n-goldin/ichihara.html
http://livinity.jugem.jp/
http://dazed.excite.co.jp/dazed_people/art/wolfgang_tillmans/