写真に閉じ込められるもの〜時間という概念をさぐって〜



はじめに

 

“写真とは光と時間の化石である。”と写真家森山大道氏は著書『写真との対話』の中で、写真についてこう述べている。

まず、写真は光によって作られているものであることを確認したい。写真家がシャッターボタンを押した瞬間にフィルムに投影された光によって、作られる。そして、目と同じ構造であるカメラは、わたしたちが電気を消すと何も見えなくなり、物事の差異が認識できなくなるのと同様に、カメラも光が無ければ、何も写すことはできないのだ。そこに在るのは暗闇のみである。もし、それが暗闇の「世界」であれば、視覚以外の感覚をつかって物事を認識できるかもしれないが、写真は目で認識するものであるから、そこには何も意味も成さなくなるのである。よって、目にとって光がとても重要なことと同様に写真にとっても、光はとても重要な存在だ。

しかし、ここで最も取り上げたいのは時間の方である。写真が切り撮る現実は「瞬間」である。写真家がシャッターをきるまさにその時、写真はほぼ完成してしまう。例えば、トリが羽を広げる瞬間を肉眼では認識することができない。しかし、写真が閉じ込めた時間の停止によって、トリが羽をどのように広げているのかわたしたちは確認することができる。そして、シャッターによって、「一瞬」という時間を閉じ込めて、化石を作る。化石とは地質時代の動植物の遺骸・遺物・遺跡などが地層中に保存されていたものであり、多くは石化されたものである。さらに、アンモナイトの化石といったら、それはもう、アンモナイトというよりは、化石としてのアンモナイトという、全く別のものになってしまっている。つまり、化石とは過去の事象を示す道しるべのようなのだ。むかしここに確かにそれが存在したということを示す。過去へと回帰するときの手がかりとなるものである。確かに、写真も長い時間軸の中にあるほんの一瞬を閉じ込めた化石のようなものであるのかもしれない。化石といっても後から発見されるものではなくて、写真の場合、意図的にその中に意味を込めて作り出す。

そこで、写真の中にある「時間」というものを考えていきたい。写真は「時間」という概念によって捉えなおすことができるのではないか。そこで、まず、「時間」とはいったいどんなものであるのかということをふまえ、その時間を写真に閉じ込めるとは一体どういうことなのか。また、それが何をもたらすのか、今回の論文で検討してゆきたいと思う。

 

 

第一章 写真と時間

1 時間とは

じかん【時間】

(1)  時の長さ。時の流れのある一点からある一点まで。

(2)  時の流れのある一点。時刻。

(3)   時間の単位。三六〇〇秒。助数詞的にも用いる。

(4)  学校などで、授業の単位として設けた、一定の長さの時。時限。助数詞的にも用いる。

(5)〔哲〕 空間とともに世界を成立させる基本形式。普通、出来事や意識の継起する流れとして認識され、過去・現在・未来の不可逆な方向をもつ。理念・精神・神など超時間的な永遠の存在を認める立場では、生成変化する現象界(事物)の性質とみなされる。また、先天的な直観形式だとする考え(カント)、物質の根本的な存在形式としての客観的実在だとする考え(唯物論)などがある。

(6)〔物〕 自然現象の経過を記述するための変数。古典力学で用いられる時間(絶対時間)は、二つの事象の間の時間経過の長さが、座標系(観測者)に依らず一定である。相対性理論では、時間は空間とともに四次元時空を形成し、観測者に対して運動する座標系での時間は、ゆっくり経過すると観測される。また一般相対性理論によれば、時間経過の長さは、重力の大きさによっても影響される。

(infoseek国語辞典より)

一般的には空間とともに、事物の存在変化を説明する必須条件で、過去・現在・未来と連続して無限に流れるものとして考えられている。この客観的な時間の概念化に対して、カントが言うような、記憶・直観・期待の精神活動に基づく主観の形式としての主観的な時間の概念が存在する。例えば、仏教でいう輪廻思想のような、人は仏(完成した人間)になるまで生死を繰り返し、自らの不完全性を正す目的で何度も何度もこの世に生まれ変るというようなものである。宗教によって、様々な死後の世界観があるわけだが、この主観的な時間の概念は死を終わりと捉えていないところがある。果たしてそうであろうか。

 

2 時間の定義

 

「時間」とは全てにおいて、絶対的なものである。常に生活をしていると時間がわたしたちを付きまとう。他者と関わる上で最重要事項の共通認識となる。人と待ち合わせをする、学校という多くの人々が集まる場所に行く、目的のために勉強をする、子供が生まれる、人が死ぬ。事象は時間の終息、時間の妥協、時間の生誕ということで言い換えることができるのかもしれない。一年は365日、一日は24時間、一時間は60分、1分は60秒・・・と、わたしたちは決まった時間の中に生き、時間の上で取捨選択をし、今日に至るまで生を行ってきているのである。6歳になれば小学校に行くと教えられ、小学校に行くには、朝何時に登校し、そこでは時間の管理という集団生活に身を委ねるのである。幼い頃、小学校に入ったばかりのわたしは学校に行くと、次から次へとやらなければいけないことがあることにびっくりした。それほど、それまでの生活が時間という枠組みの中で考えられてなかったということになる。なんとなく、お腹がすいたら大抵、昼食や夕飯の時間であったし、好きなときに何をしてもよかった。大学の長期休暇に入ると、「曜日の感覚がなくなった」という声をよく耳にする。曜日ごとに自分のしなければいけないことが決定されて、その中で曜日の認識をすることを長年の教育システムの中で知らず知らず埋め込められて来てしまっているのだ。時間割の存在とはこんなにも実はわたしたちの感覚に影響をおよぼしているのだ。

自分で「時間」を確認することのできるのは、生きているときのみである。つまり、わたしたちに「死」が訪れると共にその個人にとっての「時間」という概念も存在しなくなるとわたしは考える。死後の精神世界の話は誰も実証することはできない。証拠がなければ実証は不可能である。よって、「時間」とは「自分の生」ということができる。わたしたちがこの世に生を受け、社会を形成していく上で、その中にルールが必要となるのである。小学校に入って最初に習ったことは、何時になったら何をするという決まりを守るということだったかもしれない。ならば逆に、「時間」が存在しないということはどういったことを指すのであろうか。

“無人島へ行くときに一つだけ持っていくといったら、何を持っていきますか?”という質問を受けたことがあるかもしれない。この質問に対して時計と答える人ほとんどはいないのではないだろうか。社会組織が発達していない場所において時計は必要ないものとなる。なぜなら、社会とは二人以上の構成員が存在するときに発生し、構成員が増えるほど、お互いの共通のルールが必要となるからである。よって、他者のいない無人島において、時間を共有する相手がいないので、時間を考えることはなくなる。しかし、たとえ、一人で無人島に行ったとしてもその人自身の「時間」はその人が生きている以上は動き続けるものだ。確かに、田舎へ行くと時間の経過がゆっくりしているかのように感じるが、それは管理されていない生活だからということになる。次の次のことが、そのまた次のことが決まっている状況下では時間を気にせずには生きていられない。ここで、わしたちが気にしてしまう時間とわたしが言及したい「時間」を区別する。「時間」とは「生」のことを指す。つまり、生きることをさせられて経過してゆく時間の流れのことを指す。絶え間なく進み行く「時間」にわたしたちは絶対的に逆らうことはできないのだ。

 

3 写真の示す四次元空間

 

“画像の定義とは空間と時間の四つの次元を二次元平面へと縮約されたモノであり、また、の半永久性をも意味する。”(『写真の哲学のために』より)

空間とは縦・横・高さの三次元からなるものとされる。

四次元とはこれに時間の概念が加わり、この三次元空間を時間軸の中で捉えなおすということである。

つまり、四次元空間とはわたしたちがすむ世界のことをさしている。1にあったように、世界は空間と時間によって成り立っているわけだが、写真はこれを二次空間、つまり縦と横のみで存在する空間を作り出すという事になる。そもそも、わたしたちが認識できる世界を切り取るものなのだから、その世界と同じ空間が写真に存在して当然なのだ。もし、違うのであれば、わたしたちは写真に写されているものを理解することは不可能ということになってしまう。世界が成立しなければ、写真も成立しない。さらに半永久というのはそこに閉じ込めてしまった空間の時間はいつまでたっても、写真に写っている物自体が風化してしまわない限り、そこに写っている時間は永久にそのとき切り取られてままの時間を止めることができる。

 ここから、ひとつ、思い出すことがある。2年くらい前、ある韓国人になぜ、あなたは写真とるのですか。と、質問されたことがあった。なんで写真をとっているかなど考えたこともないわたしはとても戸惑ってしまった記憶がある。しかしそこで、わたしが言ったことは「そのとき、そこで、わたしが見たものをそのままにしておきたいという思いにかられるからなのかもしれない。」というものであった。確かにわたしも同じようなことを思って写真を撮っていた。ただ歩いているとき、そのときに自分の視界に入ったその光景。もしくは事象・モノといったものをフレームの中に収めてまた見たいと思って写真をとっていたのだ。だから、わたしのとる写真にはきれいなものという比較的誰が見ても好感が持てる写真が多かったのかもしれない。とは言え、これは特定の記念撮影などは除いて考えている。入学式や卒業式、記念にするためにといった目的を持ってではない。例えば、わたしが初めに、そのような特殊な目的なしに写真を撮ったのは栗である。実家にあった栗の木からとれたばかりの栗はなんとも愛くるしくて、当時一眼レフなど持っていなかった高校生のわたしは、使い捨てカメラを一個使ってしまった。ただの床にころがっている栗なのだが。しかし、そう考えると、子供を撮影する親もまた残しておきたくて何枚も撮るのかもしれない。

そうやって、人は決して止めることのできない「時間」というものを写真のという媒体の中に閉じ込め、停止させているのである。中国歴代皇帝が憧れた不老不死は写真のなかにおいて成立しているのだ。かれらがなぜ不老不死に憧れたかというのは、そこに在る地位に執着したためである。自分が死んだら息子や他の皇帝がこの座に納まることになりそれまで自分の権力が全てであったのに、自分の死は権力の消失を意味したのだ。かつて、古代中国を統一した秦の始皇帝は権力と富をほしいままにしたが、ただひとつの不安は年とともに衰える体力とやがて訪れる死にあった。これを全てふくめたのが明治天皇の「御真影」ではなかっただろうか。つめり権力の誇示という点において、年をとることないその写真はもしかすると永遠の権力を手に入れていたのかもしれない。

 

第2章 写真に閉じ込められる権力

1 見えないものから見えるものへ

 

明治元年(1867)、従来消極的であった天皇の存在は明治維新によって明るみに出される。天皇は宮廷と言う不可視の空間から社会と言う可視の空間へ引き出されることになるのだ。江戸時代、天皇は「雛形」(ひながた)と言えるシステムをとっていた。江戸時代において実質的に政治を運営していたのは徳川家将軍たちであった。徳川将軍は日本の国王、幕府は日本の正統な政府として機能し、海外からも「Tycoon」(タイクーン:日本国大君=日本国王)」と呼ばれ、内外において日本を動かしている人物として将軍は認められていた。しかし、いくら将軍が「事実上の日本国王」であったとしても、名目上はあくまでも「天皇の臣下」であり、例え幕府が次期将軍を選定したとしても、京都の朝廷(つまりは天皇)によって「将軍宣下」(せんげ)を受けられなければ、正式な新将軍とはなれなかった。当時、天皇は政治的権力を一切持っていなかったにも関わらず、その存在意義自体は否定されてはいなかった。

そもそも、古代日本において、天皇を中心とした統一王朝が築かれて以降、日本の政治の担い手は天皇にあった。しかし、荘園制の発達により、武士の台頭が見られ始めた鎌倉時代に大きく区別される。社会の頂点は鎌倉時代からは基本的に武士である征夷大将軍で、天皇は無力で実権を持たないものとなる。軍事的に優位に立つ武士の横で、かつては軍事的統率者だったが、形式的優位者でしかない天皇が江戸まで続いてゆく。武士社会において、あまりにも将軍が偉大であったため、一般市民にとって天皇とは存在はしっているものの、今のようなメディアは発達していないため、まず、天皇のことを知る手段がなかった。よって、彼らが天皇というものをよく理解していなかったのではないだろうか。

しかしながら、当時の明治維新を進めていた政治家たちは「国家」と言う権力は国内的にも対外的にも天皇を戴きながら、機能するメカニズムと捉えていいた。とともに、天皇が存在しなければかれらの存在する基盤がなかったのだ。レジス・ドブレは次のように言っている。

 

“社会組織にはいつも象徴化されるものが存在し、象徴活動は組織形態に影響を及ぼす。”

(メディオロジー宣言)

つまり、人間が多く存在する中では、他人を感化して同じようにしようとするベクトルが働いている。よって、明治という新しい社会にもまた、将軍ではない新しい象徴作用を及ぼす存在が必要となったのである。そこで、江戸幕府を倒した明治維新遂行者たちがその正当性を社会組織に浸透させる事象は天皇であったのだ。従来(江戸において)市民は天皇の存在を知っていても実際の自分たちの生活には全く関係のない存在であったために、彼らに浸透させなければならなかったのである。

さらに、他国より近代化の遅れている日本は立ち遅れないためにもまず軍隊が必要であった。そのためには憲法を定める必要性があったし、富国強兵に伴い、いかに民衆から軍隊を獲得するかであった。いわゆる、西欧で形成されていた国民国家を築かなければ自分の国が支配されてしまいかねないという状況にあった日本は、国民のアイデンティティを確立する必要があった。愛国心の形成である。しかしながら、いかに効率よく普及できるのかというのが、日本政府が抱える当面の課題であった。

 

2 錦絵による「天皇」のイメージの浸透

 

当時、日本社会にもメディアの役割を果たすものが存在した。それは錦絵である。錦絵とはそもそも、明和2年(1765)の鈴木春信から始まった多色摺りの浮世絵を、錦(にしき)のように美しいということから「錦絵(にしきえ)」と言った。錦絵とは浮世絵の一種である。江戸末期や明治初期において黒船来航や天皇巡礼といったような政治的出来事は錦絵により、民衆に広められていた。しかし、ここで、軸となるのは錦絵によって伝えられている事象とは今のような新聞の役割は果たしていない。錦絵によって物語を伝えるということは、政治的事件は錦絵を描くための題材でしかなかった。当時の人にとって、錦絵を描くということはおもしろおおかしく民衆に伝えることであった。ここに天皇も描かれていた。実際見たことはなくても、このように錦絵に描かれていることによって、広められていった。当時の錦絵新聞とは現在のマスメディア媒体のさきがけとなった。

※参考資料↓

http://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/bakumei/12/bakumatsu045hs.jpg

しかしながら、実際の出来事を、過去の史実に擬したり、全く別のものにすり替えてしまうなど、豊かな表現のなかに、かなりの批評精神がうかがえる。民衆の笑いをとる錦絵の滑稽さは、政治的事件において、天皇を物語の主人公にしてしまっていた。よって絵画による伝達はわたしたちに現実性を運ばず、描かれた絵の曖昧性が信じる必要性のないものであることをわたしたちが潜在意識でもってしまっているのである。この点においてまだ、錦絵に描かれる天皇の権力は弱かったように見える。とは言え、天皇の絵については取り締まりが著しかったのもまた事実である。錦絵は言葉も加えられて発行されていたのだが、たとえ、表題であれ、言葉はイメージを拘束する。そこに加えられる言葉は「天皇」という言葉は用いられず、「皇国貴顕」「帝国貴顕」といった曖昧にぼかした言葉の使われることが多かった。そもそも天皇が「天皇」と名指しされることは現実の生活では起こり得なかった。絵の中でも天皇は名指しされないことで、逆に天皇であることを示した。しかしながら、取り締まりはそのことが逆に市民への流通を抑えきれなかったことを示している。1880年代の石版画流行の大波に乗じていたとも言えるかもしれないが、違反者に対して、徹底した処分が下されたわけでもなく、せいぜい関係者が警視庁へ呼びだされたとしても、説教止まりであった。よって、73年に天皇の写真が撮影されると、天皇のイメージ(姿・形)はは民衆の間に確実に浸透して行く。

 

3 写真伝来

 

1848年日本に初めて写真が流入する。長崎の商人上野俊之丞が苦労してオランダから写真器具一式を輸入した。その後、薩摩藩に渡り熱心な蘭学者たちによって研究された。そして、1953年のペリー来航が写真に限らず、西洋の様々なものが長崎を窓に受け取るというシステムを破って流れ込んでくるのである。やはりこのころから、今までは少数の藩に限って行われてきた研究という枠を超えて、写真というものが社会の中に広がり始めていった。

最初に輸入されたダゲレオ・タイプは、今では「銀板写真」と訳されているが、当時の研究者には「印影鏡」と呼ばれた。日本では、ダゲレオ・タイプはまず、人の姿を映し出す道具として受け止められていた。それまで、カメラ・オブスキュラが「写真鏡」と呼ばれていたのに対して、人の姿を意味する「影」が用いられた。鏡のように研がれた金属板の上に人を記録するものとして訳されたのである。よって、唯一現存しているダゲレオ・タイプによる「島津斉彬像」は当時、肖像画にごく普通に見られるポーズをしている。これを撮影した市来四郎らは画家が肖像画を描くようにして、藩主である島津斉彬公を撮影したのだ。写された肖像は次第に薄れて不鮮明なものとなったため、1882年になって湿版写真に複写された。追慕のための肖像として、後世に伝えなければならなかったからだ。そもそも肖像画の大半が、その当時まではまさに追慕のために描かれてきたものなのである。「銀板写真」よりも「印影鏡」の方が当時の人の驚きをずっと示している。つまり、人の姿・形が鮮明に複製できることは驚愕の事実であったのだ。そして、これが国家主導で行われたのが「御真影」である。

 

4 御真影の登場

 

もともと、明治天皇の写真を撮るに至る経緯というのは、大使節団の米欧回覧であった。1871年11月、岩倉具視を特命全権大使とした彼らは一年にわたる長旅となったのだが、72年3月に副使だった大久保利通と伊藤博文らがアメリカからいったん帰国した。これは条約改正の全権委任状を求めるための一時帰国であったが、彼らは日本に戻ったときに宮内省に対して明治天皇の肖像写真を請求している。アメリカに残った岩倉が必要に迫られたためである。しかし、5月の再渡米までに写真はまに間に合わなかったのだが、2ヶ月もあったのになぜ間に合わなかったのであろうか。さらに、なぜ岩倉具視はそんなに明治天皇の写真が必要であったのか。

当時、国家間の関係において各国の人々の来訪時に名刺版写真の交換が流行した。名刺判写真とはカルト・ド・ヴィジットと呼ばれ、フランスで特許が取られた。これは、名刺サイズの厚紙にポートレート写真を貼り付けたものである。厚紙の裏には顧客の名前と住所が印刷されることが多かった。このようにして、写真の製作工程は迅速なものとなり、この方法が商業ベースへとなっていく。この成功は写真の一般の人気、とくにポートレートの人気をうむこととなる。

このような流行に乗った当時の政治家の写真の交換は、さらに自らが属する国家元首の肖像写真が求められたのである。しかも国家同士の関係というものが、しばしば個人間の交際と重ね合わせて理解された。政治体制がまったく異なっていて、国力の強弱はあるにせよ。1850年代半ば、日本はこの外交関係にほとんど強制的に組み込まれた。それまで、アジア各国のみとの交流の中にいた日本はいちはやく、欧米型の世界秩序へと参加していくのだ。1845年と55年にオランダ国王が江戸幕府に本格的に肖像画を送った事は日本に所属する世界の変更を迫る象徴的な出来事であった。よって、日本の新しい元首として天皇はもはや写真から逃れることはできなかったのである。

1870年に一度非公式で写真に収められている明治天皇であったが、公式的な肖像写真を撮ったのは1872年のことであった。撮影は内田九一に命じられた。束帯姿と直衣姿の二種類の肖像写真を宮内省に収めている。翌73年には天皇の軍服姿が定められると、今度は軍服姿を撮影した。『明治天皇記』は子の撮影後すぐに写真がイタリア国王の甥に与えられて、次いで各府県への下賜を許したことなど伝えている。さらに政府は在外公館に天皇の写真を掲げることを決めた。こうして天皇の公式肖像写真が流布し始める。ここで、撮影者の内田九一が1847年になってネガの下付を願い出たが許されなかったように、天皇の肖像写真は政府によって厳しく管理された。天皇の肖像写真の政治に対する認識が、配布する側に次第に出来上がっていったはずで、並行して、その複写写真が出回ることを厳しく禁じた。天皇が身代わりに肖像を与えるという形式は、そして、それをあたかも天皇その人に接するかのように取り扱うという形式は肖像写真をまさしく「御真影」へと変貌させた。

しかしながら、1873年に内田久一が撮影した21歳の天皇はその若さが引き立ってしまい、さらに写真慣れしていなかったため、この写真を国家の象徴としていつもでも使うわけにはいかなかったのである。このため、1888年になって、新たな「御真影」が作られる。この新たな「御真影」は写真ではなくイタリア人画家エドアルド・キョッソーネの描いた絵画であった。生身の人間にポーズをとらせるよりもはるかに容易に、国家元首にふさわしい威厳を演出することができたのである。西洋諸国の帝王像にどうとうと対応できる、理想の帝王像を意図的に出現させたことになった。まだ、現在のようなコンピュータによる写真の加工はあるはずもなく、その技法は絵画との折り合いの中で写真を加工する様々な技法が成されていた。当時の19世紀後半において、写真は絵画のあとを追いかけていたのである。

 

 

5 ピクトリアリズム

 

 写真と絵画の問題は19世紀半ば以来、美術界に激しい論争を巻き起こしてきた。つまり、これは絵画によって認められているような芸術性的評価を写真においても認められようとするもであった。1886年にピーター・ヘンリーエマーソンが書いた論文の中で正当な芸術としての写真を擁護している。この論文がピクトリアリズムの誕生を告げるものであった。ピクトリアリズムとは写真の記録性よりも審美性を重視した点では、史上初めての組織的な芸術運動であった。特に中心的的役割を担ったのが、マニピュレーションといって、写真が絵画と同じように創造的なものであるということを証明しようと、さまざま方法で加工しようとした。彼らはネガやプリントの表面をこすったり、その上に補筆したり、不要な細部を消したりもした。写真を何かの目的にのために使用するときそこには必ず、加工が必要となるのである。ピクトリアリズムの写真家たちが欲しかったものは芸術性という社会価値である。

 

同じように、社会的価値が必要であった「御真影」は写真を加工する必要があった。エフィジー効果という、いかにもそれらしく見せる必要性があったのである。対象化されるもの意味性を強めた。「御真影」において必要とされた目的は「対外的な近代独立国家の主権の象徴」「民衆の礼拝対象物」であった。象徴となるためにはそれなりの威厳を必要とする。伊藤博文らが日本に戻ってきたときに宮内省が写真を渡せなかったのは、象徴とするための写真には十分な時間がなかったのである。つまり、それほど重要に捉えられていたという事になる。いったん撮った「御真影」を撮り直したのは、一国の首相になるには経験も年齢も足りなかった。現実の事象をそのままあらわしてしまう写真故に、事実を色濃く反映してしまったのである。よって、キョッソーネによる本格的な加工をするに至った。そこに表象されるのは作られた明治天皇の姿に他ならない。明治天皇という威厳と驚異を「御真影」の中に閉じ込めた。「御真影」は写真ではないにしても、そのときの明治天皇の「生」をよく表している。この目的を閉じ込めるという行為は社会組織における象徴作用の対象化・実在化をもたらした。「御真影」は錦絵とちがって、生きた身体のとしての図像化になった。よって、市民にとって遠かった天皇という存在がとても近くなったのである。さらに、臣民教育と愛重なって、日本社会におけるあの、空間の全体形成をもたらした。社会において「御真影」を中心とする社会組織が形成されたのである。これは他の地域でも見られることである。例えば、朝鮮民主主義人民共和国において、チェチェ思想を支えるため、金日成の肖像画をあがめている。ナチス・ドイツにおいてもヒットラーの肖像はあらゆるところで見られた。「肖像」とはある社会組織の絶対的存在を示すために重要な位置を占めるのである。

 

 

おわりに

 

今回写真の中にある「時間」という概念を主に取り上げた。そして、写真イメージの利用による、現実の再構成というものを見てきた。そこに、全体としての空間は先行しない。そこに主に現れるのは「時間」であり、「生」である。なぜなら、第一章で示したように、明らかに人の時間への執着というものが、そこには存在するからである。これは、写真の記録的な性格のみを追及しているように見えるのかもしれないが、芸術写真においても、そこにあらわれるのはやはり時間なのではないかと考える。例えば、ピクトグラムの時代に見られる彼らの写真はその時点においては写真という芸術作品を目指していたのかもしれない。今となると、それは現在までの写真の発達としての確かな記録なのである。さらに、当時の町並みだとかは写真の場合、絵画とは違い、鮮明に表しているのだ。これは、また、当時の19世紀の町並みを写真という半永久的な枠の中に閉じ込めてしまったのである。それはダゲレオ・タイプによる「島津斉彬像」はそのままの島津斉彬公を150年後の現代においても彼はは当時の島津斉彬公のままなのである。昔の父の、幼少の頃の写真をみて、おばあちゃんが言っていた。「今はあんなおじさんだけど、おばあちゃんにとってはこのときのまま」と。写真によって、時間の回帰を人は好む。むしろそのための道具であるのかもしれない。芸術写真にも記録写真にも共通して「時間」は存在しているのだ。

仏教で言う、「現世」おいてや、カントのいう観念論の立場などに立ってしか、永遠や不老不死という概念を考えることができなかったのだが、写真という具術は変らない状況という時間停止を生み出したのである。変化し動いていく出来事としてのイメージを「今」というとの瞬間において切り取って、その「今」を再生産していく。この意味において、写真は創造的な芸術作品であるとは言えないのかもしれない。マティスは写真術による記録を「想像力をおおいに掻き乱した。なぜなら、感情を介さずに事物が眺められるようになった」と言っている。絵画という人の手によって描かれたものは、見る人の想像力を増幅させる。例えば、モネの「印象」は一見、夕日のように見えるが、もしかしたら見る人によっては朝日かもしれない。太陽の色といって、思いつく色は国によっても異なるし、個人によっても異なってくる。絵画とは伝えることと受け取ることが半々のようにかんじる。よって、絵画はある程度見る人の感性に委ねられている点で、芸術性があると言うのかもしれない。

18世紀末から19世紀初頭に見られるように写真への創造性としての芸術を批判される。ベンヤミンも写真を「アウラの消失」としている。つまり、再生産可能である写真作品にはオリジナル性が消滅し、そこにあるものは単なるコピーの連続でしかないといういうものである。当時、写真は絵画の後を追っていた。つまり絵画によって示される芸術性という評価がほしかったのである。そこでピクトグラムという動向になってくるのだが、しかし、そのなかでストレートフォトという運動が写真独自の芸術性の道を開拓し始める。

日本においても写真という新たな技術はは錦絵に比べて信憑性を兼ね備えていた。それは、写真は実在するなにかとの接触から直接つくられるイメージであり、そこに実在していることを確かなものとして指し示すのだ。そこで、写真が登場した当時、肖像写真が広まっていくのである。写真を発明した当時のヨーロッパの人々は肖像写真を撮影するというよりも、風景を好んで撮っていた。この頃より、現代にまで、各国のカメラの利点が覗えるのではなか。記念に自分ばかり撮ってしまう日本人と特に意識せず撮影を好む西洋人。しかしながら、肖像画というのは人々を対象化するのである。明治維新遂行者たちは、日本を天皇崇拝国家として民衆の求める理想を再現しなければならなかった。ここにおいて、天皇の視覚化は天皇国家を支える象徴的身体として感じ取らせる仕掛け生み出す技術政策に変容していた。そしてこれは臣民教育とあいまって、天皇崇拝の近代日本の空間を形成していく。よって、「御真影」は人々を対象化することで天皇との差異を認識できたし、何より、その「御真影」は衰えないので、その影響力が増したと言える。

 つまり、中国の皇帝が恋焦がれた「不老不死」とは権力の維持を目指したもののように見える。よって、「御真影」がのちのちにまで、(何せ、うちの母の実家にはあの「御真影」が今でも残っているのだからびっくりである)影響力を及ぼすものとなったのだ。変わらない現実を再生産する写真において、やはり記録という働きは強いのかもしれない。そもそも、絵画の製図というのはもはや写真にとって代わられてしまっている。よって、絵画における機能とはもはや、いわゆる芸術の働きだけしかないといっても過言ではない。写真が求める芸術性とはこの点でも大きく分かれていることが分かる。時間を封じ込める写真はそこに誰に止められない流れを止めることによって、人にもたらす影響も強まってしまうのだ。

 

後期個人発表の際に「視覚によって影響されないものは存在するのか。」という指摘から今回の論文を書くに至った。確かに視覚によって影響されないものはないのである。それは聴覚によって影響されないものがないのと同様なことである。ならば、あまりにも影響があるのではないかと考えた「御真影」の中に込められているものは何なのか。という疑問より、今回「時間」という一つの答えが出たのである。

 

 

 

参考資料

 

多木浩二;天皇の肖像(2002年、岩波書店)

ヴィレム・フルッサー;写真の哲学のために(1999年、勁草書房);

木下直之著;写真画論(1996年、岩波書店)

ジル・ラモ著;写真のキーワード(2001年、昭和堂)

 

http://www.dnp.co.jp/artscape/reference/artwords/k_t/pictoriarism.html

http://www.tsuru.ac.jp/~jhensyu2/home0103/tenou.htm

http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/symbolism.html

http://www.tsukiji-shokan.co.jp/mokuroku/book/2319n.html

http://www10.0038.net/~butto/seminer.html