目次

はじめに

第一章 予習、授業、復習という学習習慣

第一節 「学習」とはどういう行為か

第二節 予習、授業、復習の相関性

第二章 ステップ型学習

第一節 新しいことを知るためのステップ学習

第二節 ステップ学習のメリットとデメリット

第三節 デメリットの影響を受ける生徒

第三章 サイクル型学習

第一節 知ったことを身につけるためのサイクル学習

第二節 サイクル学習のメリットとデメリット

第四章 二つの学習の両立

第一節 二つの学習の組み合わせ

第二節 予習と授業が中心の授業の構築

第三節 「わからない」がわかるということ

おわりに

引用一覧

参考文献一覧

はじめに

本論文の目的は「予習、授業、復習」からなる一般的な学習習慣を考察し、それに代わる新しい学習習慣を提案することである。考察を進めるにあたってまず「学習」という行為を新しいことを学ぶ「ステップ型学習」と、学んだことを身に付ける「サイクル型学習」という二つの学習タイプに分類する。そしてその二つを軸として見えてくる予習と授業を中心とした復習をしなくてもよい新しい学習習慣を提案する。この提案によって学習に遅れてしまう可能性のある生徒の立て直しを図ることが出来れば幸いである。

本論の目的を以上のようにしたきっかけは、2009年にベネッセ教育研究開発センターが行った第二回子ども生活実態基本調査の中で、中高生の勉強に対する意識に対する調査結果に対して興味を持ったことである。

この報告書によると、勉強の取り組みに関する「勉強しようという気持ちがわかない(注1)」という項目に、中学生3,917名のうち58.0%、高校生6,319名のうち63.2%の生徒が「とてもそう」「まぁそう」と回答している。また「どうしてこんなことを勉強しなくてはいけないのかと思う(注2)」という項目にも中学生で52.8%、高校生で54.1%の生徒が同じように回答している。

この調査結果から分かることは約半数の生徒が毎日学校で行う勉強に対して意味を見いだせていないということだ。学校が勉強するところであるとはいえ、勉強する理由がわからないのに勉強を強いられることは苦痛である。そういった状況の中で「勉強したくない」と感じたとしても不自然なことではないし、それが理由で勉強が手に付かず放棄してしまう可能性もある。

しかし「受験を目標にして勉強する(注3)」という別の質問項目に対して中学生で49.3%、高校生で47.3%の生徒が同じように「とてもそう」「まぁそう」と回答しているデータもある。この事実も含めると、今やっている勉強が何のためなのかわからないが受験のための勉強ではある、という認識を持っていると考えられる。

平成二四年度の文部省の調査で、過年度の卒業者を含めた高校への進学率は79.3%、大学・短大への進学率は52.6%となっており、多くの生徒が進学を望んでいることが分かる。高校、大学に進学したいとなれば受験という道は必ず通らなければならない。しかし受験対策は決して簡単なものではなく、難関校や難関大学に進学したいとなれば尚更である。そうなると競争率の高い環境の中では勉強についていけない生徒たちが出てくる可能性がある。いわゆる「落ちこぼれ」と呼ばれる生徒たちである。

受験とは試験の点数によって受験者を序列化することに他ならない。そして自分の順位が一定ラインに届かなかった者は「落ちこぼれ」とされてしまう。受験競争によって志望する高校や大学に入ることが出来なければ合格枠から落ちこぼれてしまったと考えられるし、受験にまでの間でも周りの学習レベルに着いて行くことができなかった者は落ちこぼれとされる。受験による競争意識を受けない付属校の生徒だとしても一つの学年の中で成績の順位は付くため、学年で上位の成績を取る者もいればそうでない者も出てくる。順位が下の生徒は落ちこぼれまいと必死に勉強を頑張らざるをえない。

以上からわかることは、中高生の間で学習において周りとの差が生まれかねない二つのパターンが存在しているということだ。一つ目は勉強する理由が見つからずやる気が起きない生徒たちが周りに着いて行くことを放棄してしまうパターン。二つ目が逆に必死に勉強しているのに周りに着いて行くことができないパターンである。

どのような理由であれ、学習が立ち遅れてしまう生徒が出てきてしまうことは良くない。生徒たちは学校ではクラス全員で同じ授業を受けているにも関わらず、なぜそのような意識や学力の差が生まれてきてしまうのだろうか。

この疑問に近づくデータとして、上で紹介したベネッセの調査で「上手な勉強の仕方がわからない」という項目があり、中学生の70.4%、高校生の79.3%が「とてもそう」「まぁそう」と回答している。また「今までにもっときちんと勉強しておけばよかったと思う」という項目には中学生の71.6%、高校生の76.4%が同じように回答している。

この結果は多くの生徒が学校で新しく教わった内容をしっかりと自分の身に付ける方法を知らないということ、そして自分自身でも身に付いている実感がないということを表している。そして何より短期間ではなく長期間その状態が続いているということである。つまり学校では誰もが同じ授業を受けていたとしても、学校以外の場所での勉強に格差が生まれてきている可能性がある。

このことから彼ら自身の中に新しく知ったことを修得するまでの日々の学習習慣がきちんと定着していないのではないかという考えに至った。学習習慣と言うと、予習を行い、授業を受けて、復習をするという王道のような流れがあるが、これらの流れが上手く機能していないのかもしれない。

そこで本論では従来までの予習、授業、復習という学習習慣の流れを改めて考えなおしていきたい。

第一章の予習、授業、復習という学習習慣では「学習」という行為がどういうものなのかということと、予習、授業、復習の三つの相関関係について述べる。私たちが普段「学習した」と言う場合それはどういうことが起こった時であるのかについて考察し、ここでは学習が前半部分と後半部分の二つから成り立っているものであると定める。その上で予習、授業、復習は学習においてどのような関係にあるのかを考える。予習には学習を成立させるための一つの役割があり、同じように授業と復習にもそれぞれの役割がある。その三つの役割が全て機能した時に初めて学習習慣が成立したと言える。

第二章ではステップ型学習について述べる。第一章で定義した「学習」の中で、その前半部分である新しいことを学ぶということについて焦点を当てた学習をここでは「ステップ型学習」と名付ける。そしてステップ型学習にはどのような特徴があり、メリットとデメリットについて触れる。また日本の学校教育において学習指導の基本となる学習指導要領が段階的な教え方を基準として作られており、ステップ型学習の特徴と近いと言える。

第三章ではサイクル型学習について述べる。第二章で扱わなかった学習の後半部分に焦点を当てた自分の身に付ける学習を「サイクル型学習」と名付ける。ここでは教育者陰山英男先生の実践した百ます計算などを例にあげて、ステップ型の学びとサイクル型の学びはどのように違うのかを説明する。またステップ型学習と同様にサイクル型学習にもメリットとデメリットは存在することについて触れる。ステップ型学習中心の日本の学校教育ではサイクル型学習はあまり活躍の場を見つけることは出来ない。

第四章ではステップ型学習とサイクル型学習を組み合わせ、それをどのように学習習慣として成り立たせるかを論じる。第二章と第三章で説明したそれぞれの学習の形は組み合わせることでお互いを補強し合う関係になっている。また一章で説明した学習習慣の考察を元に、ステップ型学習を予習で行い、復習を含むサイクル型学習を授業で行うことでより効率的な学習習慣を提案する。学習を実際に行うのは生徒たちであるので、新しい学習習慣を実現するために生徒たちに必要なことも述べる。

以上が本論文の概要である。

第一章 予習、授業、復習という学習習慣

はじめにで述べたように中高生の間できちんとした学習習慣が身に付いていない可能性がある。学習習慣のモデルと言えば一般的に予習、授業、復習という一連の流れに沿って学習することが思い浮かぶ。本章ではその学習習慣について考察していきたい。

第一節 「学習」とはどういう行為か

学習習慣について考えていく前にまず「学習」という行為自体がどういうものなのかについて整理をしておく必要がある。

周りの者よりも「学習が遅れている」という状況を例に考えてみたい。生徒たちは学校に毎日通い、授業を受けて新しいことを学ぶ。その日に行う授業が以前の授業内容を前提として行われるものだった場合に、クラスの周りの者が授業の内容を理解しているのに自分だけ理解できなかったのであれば、自分は周りの者よりも「学習が遅れている」と言うことができる。言葉を変えれば、ある時点で一定の学習内容を周りの者は理解しているのに自分だけが理解していないということである。

このような場合、試験を受けさせることで学習内容を理解しているかどうかを確かめることができる。当然、教えた内容を理解している者は問題に正解するが、理解していない者は間違えてしまう。実際に定期テストで同じ問題に正解する者としない者が出てくる。

すべての生徒が授業を受けているにも関わらずこのような差が生まれるということは、教えた内容がある生徒の中には残っているが、ある生徒の中には残っていないという状況が起こっているからだと言える。とはいえその授業を受けた記憶そのものがなくなるわけではない。言うなれば新しい学習内容と出会ったという記憶を持っているだけで、その学習内容を自分に定着させ扱えるまでには至っていないということなのである。

つまり「学習」という行為が完了するまでに大きく分けて前半部分と後半部分の二つが存在することが分かる。ここではその新しい学習内容と出会うまでを「学習の前半部分」、出会ってから学習内容を修得するまでを「学習の後半部分」として話を進める。

次に前半部分と後半部分のそれぞれの特徴について考えていきたい。学習の前半部分の特徴は新しい学習内容をいつ知るのかということに重点があるように思われる。クラスの全員が同じ時間に同じ授業を受けているのだとした場合、全ての生徒に新しい学習内容を知る機会は十分にあると言える。

一方、学習の後半部分の特徴は学習内容をいかに自分の中に消化するのか、またそれにはどのくらいの時間がかかるのかということが重要であるように思われる。同じ学習内容を与えられたとしても、その内容の理解の仕方や理解するまでの時間は人それぞれである。そのため学力の差が生まれるのだとすれば後半部分で生まれていると言える。

もちろん学習という行為は全て授業中に行われるものではないし、授業中に学習が完了してしまう生徒は稀である。当然、授業中に修得できなかった学習内容は授業時間以外に修得しなければならない。授業時間以外の学習には予習と復習の二つがある。そこで次節では学習が行われる時間帯を広げて予習、授業、復習の流れに照らし合わせて考えていく。

第二節 予習、授業、復習の相関性

学習習慣の基本的なモデルというと、予習、授業、復習がきっちりと成り立っているということが頭に浮かぶ。本節ではこの三つの相関関係について考察していく。第一節で述べた学習の前半部分と後半部分がこの学習習慣の流れに沿うことで効率的に学習が完成される構造になっていることを分析する。

第一節では授業における学習について述べたが、授業時間以外での学習は当然学校が決めている授業時間というものに拘束されないため、自分の好きな時間に行うことができる。したがって授業が終わった後の休み時間に行なってもよいし、学校が終わって家に帰って行ってもよい。ただし塾に通って講師の指導のもと行なっている際は、実質自分の学習の手助けをしてくれる人が側にいるということに変わりがないので除外して考える。学習する時間帯も場所も個人により様々であり、かつ自分一人で学習と向き合う学校の授業時間以外の学習をここでは「自主学習」と呼ぶことにする。

自主学習には大きく分けて予習と復習の二つの種類がある。 まず「復習」について考えてみたい。復習とは授業時間内に学習内容を理解できなかった時に、授業後自分自身で修得を目指すものである。つまり学習の後半部分の授業で終わらなかった部分の続きを行うということである。また理解したと思った部分でも、もう一度授業で習ったことを反復しておさらいする意味合いもある。

一方「予習」というものは次に行う授業のために、その授業で扱う学習内容を予め学習しておくということである。予習をすることで授業中に理解する効率を上げることができると考えられる。授業で先生に習う場合と比べて、自分なりに内容を理解していきながら進めることになる。

予習、復習どちらにおいても共通していることは授業をサポートするための学習であるという事である。つまりメインは授業であり、その前後に予習と復習のサブを置いているのである。これを裏返せば、授業のみでは学習を完了することができないために予習と復習が存在しているとも考えられる。

確かに「授業」について考えてみると、自主学習と異なり授業には時間制限というものがある。授業中にほとんど学習内容を理解できなかったとしても、チャイムが鳴れば授業は終わってしまう。そう考えるといくら教師が付いているとはいえ学習の前半部分と後半部分を凝縮して授業内に納めることは非常に難しい。よって授業のみでは学習は成立しづらいのである。

以上より予習、授業、復習の相関関係をまとめると、学習の前半部分を授業の前に予習として行い予め内容を先取りし、その上で授業を受け理解を深め、それでも理解しきれなかった学習の後半部分を復習として行うのである。この流れがきちんと成立した時に良い学習習慣が生まれることは明確である。

しかしここで一つ疑問が生じる。予習、授業、復習の中で一番学習が進むのはもちろんメインの授業である。だが最終的に学習が完了するポイントは復習のサブの部分なのである。この事実こそ学習が遅れる生徒が出てきてしまう最大の原因なのではないか。時間のかかる学習の後半部分を一人で進めるのではなく、教師の指導を受けることができる授業時間で行う方が確実に学習を完了することができるのは明白である。はじめにで紹介した中学生の約七割と高校生の約八割が「上手な勉強の仕方がわからない」と答えているデータもここに原因があると考えられる。

実はこうした事態が起こっている理由として、日本の学校教育の考え方が知識の習得させることよりも知識と出会わせることを優先しているためであるということがあげられる。つまり本来学習は前半部分と後半部分から成り立つものであるが、それを日本では前半部分に特化させた教え方をしているのである。これを本論文では「ステップ型学習」と定義し、逆に後半部分に特化させた学習を「サイクル型学習」と定義する。第二章ではそのステップ型学習について説明する。

第二章 ステップ型学習

本章ではステップ型学習について論ずる。ステップ型学習とは、段階的に新しいこと知ったり、何かの目標に向かって進んだりするような学習方法である。基本的に今よりも次の段階に行く事を前提としている。イメージとしては一歩一歩前に歩みを進めるような、一段一段階段を登るような学習である。このタイプの学びの形は今の日本の学校教育で主に行われているものであり、もはや深く説明する必要が無いほどに我々の無意識の中に染み付いているものであると言える。

第一節 新しいことを知るためのステップ学習

「前回の授業でやったことをちゃんと理解していないと今回の授業の範囲はわかりませんよ」とよく教師が言うように、前回の授業は今回の授業のために、今回の授業は次回の授業のためにあるとされる。特に数学と英語は積み重ねの教科であると言われるが、その二つに限らずともどの教科であれ一回の授業がその回だけで終るということは少ない。

教員が毎回の授業を作っていく際には年間授業計画というものが存在し、教えるべき内容をどのような授業の形に変えて、どのような順番で行なっていくのかを事前に練っているものである。もし計画を練る時にテキスト等に沿って行うのであれば、テキストは生徒たちが理解しやすいように順序良く丁寧に問題や解説を載せてある場合が多いので、授業はより計画的で段階的なものへと仕上がっていく。日本の学校教育においてこういった授業づくりは基本であり、ほとんどの授業はこのような作り方をしていると考えられる。よってそれに伴い生徒たちも自然に計画的で段階的な学びを進めていくことになる。

ステップ型学習には二つの特徴がある。 一つ目は今の段階の次には一つ上の段階が存在し、その段階をクリアすることでまた一つ上の段階に行けるということである。例えば数学で言えば一次方程式を学ぶことで二次方程式を学ぶことができ、古典で言えば単語の意味を覚えることで文章を読むことができる。化学で言えば原子や分子の構造を知ることで化学反応を理解できる。どれも現段階をクリアすることなく次の段階には行けないという構造になっている。我々にとってこの構造はもはや無意識の内に前提として考えてしまっていることでもある。

これは何も教科という枠に限った話ではなく、学年という枠で見ても同じことが言える。中学二年生で学ぶべき内容をクリアしなければ中学三年生に進級することはできないし、中学三年生で学ぶべき内容をクリアしなければ、卒業して高校生になることはできない。

視野を広げて学校を離れ日常生活のレベルで見てみてもこの学習方法は活用されている。小さい子どもが自転車に乗るときは、まず補助輪付きの自転車に乗れるようになってからでなければ難しいと普通は考える。テレビゲームの構成も最初からいきなり強い敵が出てきたり、高い操作性を問われるような設定になっているものはほとんどない。

次に二つ目の特徴はステップ型の学びの小さなステップを上っていった最終段階には大きな目標があり、そこに到達することが最終目標となっていることである。例えば英語を初めて勉強しようという時に、ほとんどの場合スタート時に定めている最終目標は英語でそつなく会話ができるようになることであったり、洋画を吹き替えなし字幕なしで見ることができるようになることであったりする。上手な絵を描けるようになりたいと思った時は、その時に見たような絵というのが最終目標として掲げられている。

また最終目標を掲げるということは同時にすぐにその段階に到達することはできないということを自分自身の中で感じているとも言える。そのために英語の勉強であれば単語帳を買って覚え始めたり、絵の勉強であればデッサンの仕方を勉強し始めたりする。

このようにステップの先にどんな段階が待っているのかを、現段階との距離が遠くてもそれを目標や夢として想定し、そこに到達するために目の前の小さなステップをクリアすることが必要であると考えるのである。

第二節 ステップ型学習のメリットとデメリット

第一節ではステップ型の学びの二つの特徴について紹介した。第二節ではステップ型学習の特徴ゆえのメリットやデメリットについて触れていきたい。

ステップ型学習には三つのメリットがある。 一つは最終目標へ向かうために必要な段階を逆算して設定していける点にある。ある目標に到達するまでに必要な事柄は何かを見つけ出しそれを手順よく並べることで、無駄のないゴールまでの計画を立てることができる。したがって次に何をすればいいのかということを迷う必要がなく、とても効率的に学びを進めることができる。

二つ目は一つ次の段階が事前に設定されていることで今行なっていることと次に行うことのつながりがイメージしやすいことである。小さなステップの段階と段階との間の距離をより近く設定すればするほど、ステップアップしている実感も掴みやすくなり、各段階をクリアしていくたび毎の達成感も着実に積み重なっていくと言える。大きな目線で見ればゴールに行き着くことが最終目標であり、小さな目線で見ればそこに向かうための次のステップが小さな目標であるため、自分が一歩ずつ歩みを進めるのを実感できることは、学ぶ側からすればステップアップするためのやる気に繋がる。

三つ目のメリットは、ステップ型学習は学習者である本人でなくとも別の人が有効なステップを組み上げることも可能である点である。例えば、ある子どもに将来なりたいと思っている職業があったとする。その職業に就くためにどんなことが必要なのかをまだ十分に知らない場合、それを知っている人や実際にその職業に就いている人が先生としてその子どもが成長するために必要なステップを組んであげることは非常に大きな学習効果を持つ。子どもが掲げた目標に近い位置にいる人ほどそれまでのステップでどのようなものが必要なのかを知っている場合が多いため、そういった人が組んだステップは、その子どもが一人で組んだステップよりも効率的なものである可能性がある。

自分以外の人にステップを組んでもらった場合、ステップを歩む子どもは組み上がったステップが自分自身に適切なものだと信じることも重要な要素の一つである。自分自身が組んだステップに自信が持てないが他の人が組んだステップの方がより信じられるという時はそちらの方が良い場合もある。

一方、ステップ型学習のデメリットは二つある。 一つは定めた目標が高すぎることで現段階と最終目標との間に果てしない距離感を感じてしまい、ある時その事実に打ちのめされてしまうということである。たとえ最終目標までのプランニングが適切で次のステップがすぐそこにあったとしてもゴールに到達するまでに長い時間がかかる場合、少なからず途中であきらめてしまったりやる気が落ちてしまったりすることがあり得る。言うなれば、フルマラソンぐらいの長い距離を走ろうとして、当初は走り切ろうと心に決めてそのための練習を行なってきたが、走り切るには気力も体力も経験もまだまだ目標には届かないことに気づいて、途中で断念しそうになってしまう様なものである。

また目標との距離感というデメリットに関連してもう一つ大きなデメリットが存在する。それは学習を重ねることで確実に何かが積みあがっていくことは間違いないことだとしても、学習したことが確実に修得までされたかどうかは判断しにくいということである。新しいことを吸収し自分の中に得るところまでいかなければ学習が完了したとは言えない。自分では学習したつもりでいても実際には修得するところまで至っておらず、気づいたら自分は周りよりも低い段階にいたという事がありえるのだ。落ちこぼれてしまう生徒たちというのはこのパターンである。

メリットのところで、ステップ型の学びはステップをクリアすることで着実なステップアップを見込めると述べたが、それは裏を返せばクリアできなかったときはそのステップで停滞してしまうということである。

しかし日本の学校教育ではある一つのステップを定め、それを基準として全ての子どもたちにそのステップを歩ませるという画一的な教育方法をとっている。これによって当然そのステップについていけない生徒が現れる。次節ではステップ型学習のデメリットによって落ちこぼれかねない生徒たちについて述べる。

第三節 デメリットの影響を受ける生徒

ステップアップには必ず個人差がある。しかしその個人差を無視してすべての子どもたちに一定のステップを上らせた場合、子どもによっては教わった内容をすぐに習得して次のステップへと進む子もいるだろうが、ステップが自分に合うものではなかった場合は習得に時間がかかってしまう子も当然出てくる。

もしこのステップアップに個人差がないのだとしたら、今の日本の学校教育で問題となっているような周りの学習レベルについていけない落ちこぼれる子どもが出てくるはずがない。落ちこぼれてしまう子というのは先生から教わったことを習得する前に授業が先に進んでしまい、なかなか追いつけないでいる子に他ならない。追いつこうと必死に努力しているけれども追いつくことができずに落ちこぼれてしまう子どもには、その子どもに合ったステップを組んであげる事で事態は変わる可能性がある。

しかし逆に、2009年にベネッセ教育研究開発センターの行った第二回子ども生活実態基本調査の報告書によると「他にやりたいことがあってもがまんして勉強する(注4)」という質問項目に対し「とてもそう」「まぁそう」と答えた生徒の割合はなんと中学生3,917名(12校)のうち27.0%、高校生6,319名(13校)のうち高校生で23.5%しかいないことも事実である。

この数字を見ると自ら学校の勉強を放棄している学校の勉強を疎かにしたままでいる可能性のある生徒が非常に多いことがわかる。中学校の勉強は決して簡単なものばかりではない。それを行なっていないとなれば、教わったことをしっかり習得しているとは考えにくい。そうすると彼らはいつ周りについて行けなくなって落ちこぼれてしまうかわからない状態なのである。勉強のモチベーションが維持されることは学習効率にとても大きな影響を与える。勉強したいという気持ちが湧かなければ、自然となぜ自分が勉強しなくてはいけないのかという疑問が生まれて来てもおかしくはない。

では彼らは勉強する理由をどのように考えているのだろうか。同じ調査で、勉強への取り組みに対し「中学生のうちは勉強しないといけないと思うから (注5)」という質問項目に同じように答えた中学生は75.0%、高校生は77.0%となっている。また「自分がつきたい仕事につくのに必要だから」という質問項目に対しては中学生の66.4%、高校生の76.1%が同じように答えている。更に「いい高校や大学に入りたいから (注6)」という質問項目に対しては小学生の57.1%、中学生の65.8%、高校生の69.5%が同じように答えている。

彼らは自分なりに自分の将来を見つめているのかもしれない。しかしはじめにで紹介したように「どうしてこんなことを勉強しなくてはいけないのかと思う」という質問項目に対しても中高生の約半数以上の生徒が同じように回答していることも事実である。

つまりこの統計結果をステップ型の学びの視点から見てみると、今やっている勉強が将来何らかの形で役に立つかもしれないということを薄々感じてはいるが、それがどのように自分の将来と繋がっているのかということに実感を掴めていない。とはいえ進学はしたいので受験のための勉強をしておこうという推測ができる。

この状況を変えるために学校教育を変える必要がある。そのための様々なアプローチ方法が考えられうるだろうが、現在の学校現場は非常に複雑に組み上がっており決して簡単変えられるような状況ではない。日本の現在の学校教育はどこかを変えようとすれば、必ずそのしわ寄せがどこかにやってくる様に組み上がってしまっているのである。

ステップ型学習は新しい知識を知ることに特化した学習方法である。第三章ではステップ型学習に対をなすサイクル型学習について説明する。ステップ型学習のデメリットを埋めるのはこのサイクル型学習なのである。

第三章 サイクル型学習

 第二章ではステップ型学習について述べた。ステップ型学習のデメリットを補う何かがない限り、日本の落ちこぼれてしまう生徒はなくならない。本章ではステップ型の学びに対応するサイクル型学習についてステップ型学習と比較しながら説明する。サイクル型学習を一言で表すならば、一度学習したことを使い続けることで更に深くその学習に関わっていくことである。ステップ型学習の様に何かを目標に掲げてそこに向かい進んでいくのではなく、その場で繰り返し学習し直していくことである。この形の学習は現在の日本の学校教育ではあまり馴染みのないものである。

第一節 知ったことを身につけるためのサイクル学習

サイクル型の学びは私たちには馴染みがないものであるため、実際の例を挙げながら説明していきたい。

1989年に兵庫県朝来町立山口小学校教諭に就任した陰山英男先生が行った「百ます計算」と呼ばれる教育実践がある。これは縦横に10個ずつ並んだ一桁の数字をそれぞれ見比べて、10×10=100個のますに足し算引き算掛け算を行なっていき、計算が終わるまでにどのくらいかかったのかのタイムを記録するというものである。この計算指導を、間を大きく空けることなく定期的に解かせることで陰山学級の子どもたちは計算能力が全国平均よりもかなり上位に行くことが出来たのである。陰山先生の著書である『本当の学力をつける本』には、子どもたちに繰り返し百ます計算をやらせることで徐々にタイムが早くなっていき、その度に子どもたちは笑顔で自信を付けていったと書かれている。

この学びの形はステップ型の学びの形とは違い、一桁の百マスの計算をクリアすることが出来たからといって次は二桁の百ます計算をやるというわけではない。かといって計算が終わった後にタイムを記録するが、そのタイムがどんどん早くなることを目標としているわけでもない。つまりできることをただ繰り返すということに意味があるのである。この実践例こそサイクル型の学びの一つのモデルだと言うことができる。今までの日本の学校教育に欠けていた学習の形を導入した結果として、確かな成果が上げた一例として重要な実践である。

サイクル型学習には二つの特徴がある。 一つ目の特徴は出会った知識を修得することに非常に重点が置かれていることである。修得が完了するまでには時間がかかることから、修得には0%~100%までの度合いが存在することがわかる。サイクル型学習はその修得度合を100%に近づけるための学習方法である。

ステップ型の学びが「学び」のなかの新しいことを次々に経験することに焦点を当てた形であるとすれば、それに対応するサイクル型学習とは自分が経験したことを確実に自分のものとして得ることに焦点が当てられている形のである。教師側が新たに何かを教えるという要素は少なく、子どもにとってはすでに自分の中にあるもので学びに向き合う様になっている。新しいことに触れてそれがなんとなく自分のものになってきたかどうかというところで、十回中五回は当たるけれども五回は外れるような修得しかけの状態に一番効果的な学びであると言える。そしてそれをいずれ百発百中にすることがサイクル型の学びの最大の目的である。

百ます計算を見ればわかるが、この指導は非常に基礎的な問題を繰り返す形になっている。ステップ型学習を行う学校教育で最初に学ぶ基礎の部分は、一旦ステップが進んでしまえばわざわざもう一度前の段階に戻ってその内容を確認するということは少ない。しかしサイクル型の学びはそういった過去のステップで扱った内容も今の学びの対象としている。つまり過ぎたことを一生過ぎたこととせず、過去に行ったことと今行なっていることを等距離に置いて同時に学ぶのである。

ステップ型の学びが階段を登るような、もしくは一直線上に登っていくような図で表すことができるとすれば、サイクルはぐるぐると円を描くように回る様な図で表す事ができる。その線上が学ぶべきことであるとすれば、ステップ型の学びは自分の目標に向かい学びのスタートとゴールがあり一方通行の性質が強いのに対し、サイクル型学習は同じ所を始まりも終わりもなく繰り返し歩み続けることが目的である。繰り返し歩いた分だけ同じ道を歩いた経験は増えていき、その分その道に詳しくなる。そしてそれが学びの修得に繋がっていくのである。

二つ目の特徴として、サイクル型学習には「学び直し」があるということがあげられる。サイクル型学習も「学習」であることには変わらず、新しいことに触れたり経験したりすることが全くないというわけではない。

人は何か新しいことを学ぶときに、最初に学んだ時の形のままずっとその通り覚えていくとは限らない。ある時ふと気づいてより自分にあった覚えやすい覚え方を見つければ、その方法で改めて同じ事柄を学び直すことがある。学んだ内容についての見方が変わってより良い新しい見方に変わる時、これを「学び直し」という。

これが起こる時というのは、その本人にとってはある意味で発見的要素が強い。発見はそう簡単に次から次へと起こることではないので、学び直しが起こるまでにはある程度の時間がかかる。サイクル型学習はこの学び直しが起こるためには適切な学びの形であると言える。

学校で先生から教わる内容というものは、それ自体はどこの誰にとっても共通なものであるが、先生という人を媒体とした瞬間に、その内容はすでにその先生にとって扱いやすいように加工された形になってしまっていることが多い。そして子どもはそれを学ぶときに先生の加工済みの情報をまるごと最初は受け取ってしまう。子どもによってその情報が扱いづらく、それが転じて苦手教科になってしまったり勉強嫌いになってしまったりする可能性がある。学校の先生から教わるよりも塾の先生の教え方のほうがわかりやすいというような、人によってわかりやすいとかわかりにくいということが起こり得るのはそういうことである。

だがこういった状況になってしまうことを決して悪いことだと言っているわけではない。教える側がすべての子どもたち一人ひとりに合った加工状態を見つけ出してその方法で教えることは不可能であるといって良い。どんな形に加工されていたとしても、重要なのはその教育内容自体を子どもが自分に身につけることである。もし先生から教わった形が自分に合ったものでなければ、逆にその子ども自身が自分に合った形に教わった内容を再加工し直すことが一番良い方法だろう。それを無理なく実現するツールこそサイクル型学習なのである。

第二節 サイクル型学習のメリットとデメリット

ステップ型学習がそれ自体の特徴によって様々なメリットとデメリットを持っていたのと同じように、サイクル型の学びにもその特徴ゆえのメリットとデメリットが存在する。サイクル型学習を実際に授業で行なっていく上で気をつけなければならないポイントである。第二節ではその部分に関して述べていきたい。

サイクル型学習のメリットは二つある。 一つは学んだことを何回も何回も使うために、一度学んだこと忘れにくいということにある。第一章でも述べたようにステップ型学習ではステップアップしていくとそれまでのステップでやってきたことは修得していることが前提となっているが、実際には最初の頃のステップと現段階までのステップに距離ができ始めると最初の頃のステップで行なっていたようなことは忘れてしまってくることがある。これを「初歩的ミス」と呼んだりするが、あまりにも初歩的ミスが多すぎると初歩が抜けているということでまた初歩からのやり直しをしなくてはならないという苦い結論に至る。だがサイクル型の学びはステップを上がることを目標としているわけではなく同じ場所に留まり学んだことを使い続けることを目的としている。そうすることで一度学んだことを忘れないように自分に留めておくのである。

もう一つのメリットはサイクル型学習は基本的に一度出来たことの繰り返しであるために学ぶ者にとって新しい事柄に対して必要以上に頭を回す労力を必要としないということである。つまり出来ることをやるのであって、まだやったことも出来たこともないことをやるというわけではない。これは学ぶ際にある意味での余裕をつくりだすということである。

人間の頭の構造や人の心理というものは今までになかった新しい事柄に直面した時にそれをストレスだと感じることがある。それは学びにおいても同じことが言える。立て続けに新しい教育内容を次から次へと教えていては、人の頭はそれを処理しきれなくてオーバーヒートし、フリーズするのである。学校の勉強を試験直前まで何も対策をしていなくて一夜漬けをしたがほとんど頭に入らず、テストで全く刃が立たなかったという話は今の昔も変わらずあるのかもしれないが、それと同じことである。

ここで注意してもらいたいのは、決して出来る事を繰り返すということが学ぶことを怠けているわけではないということである。学ぶという作業には大抵大きな労力を必要とするものである。そうでなければ中高生は皆テストまでは遊び倒して、前日に一夜漬けで全てを頭に入れ毎回百点満点を出していることだろう。学んだことを100%使うためには十分に修得がなされていなければ出来ない。100%の修得にはそれなりの時間がかかる。しかしそれはステップ型学習では次のステップに行くために必要な条件であった。そのためにある程度できるという状態を完璧にできるという状態にまで引き上げなければならないのである。だが子ども自身が「これはもう完璧にできる」という自覚を持ち、そして実際にその内容を身につけていると思える状態に至るまでには間違いなく成功と失敗の連続が起こると言ってよい。失敗にめげずサイクル型の学びを続けるにはどうすればよいのだろうか。

上で紹介した著書の中で陰山先生は「注意しなければいけないのは、他の子と自分を比べさせないことです。大切なのは昨日の自分より良くなっていることです。そういう評価でみんなが自信をつけることを目指すのです。」(注7)と述べている。百ます計算には百問の計算があり百問の解答があるわけだが、そこで満点を取ることが重要なのではない。子どもがふとした瞬間にいつもより早く出来たり間違いが少なかったりした時に「いつもよりできた」と思うことが重要なのである。そしてそれこそが百ます計算のねらいであり言わばゴールだと言える。その繰り返しによっていつの間にか一つも間違えることなく、かついつもよりも速いタイムで出来るようになっているのであろうが、それはゴールではなくサイクル型の学びの途中経過にすぎない。ゴールは無限にやってくるのである。

ここまでサイクル型の学びのメリットについて説明してきたが、もちろんデメリットも存在する。サイクル型の学びは既存のものにより深く関わっていく様な学びであるために、サイクルの外に目を向けない限りは新しい事に触れる機会が非常に狭められてしまうことだ。言い換えれば、すでに自分が知っていることの中ではその消化率は眼を見張るものがあるが、同時に自分が見たことも聞いたこともない新しい世界の存在を知らないまま今の自分に充足して完結してしまう可能性が考えられる。自分の中を見る目を養う一方で自分の外を見る目を養わなければならない。そこでサイクル型学習にも偏らずステップ型学習にも偏らないで、二つの学習を両立することが必要なのである。

第四章 二つの学習の両立

第二章と第三章ではステップ型学習とサイクル型学習について詳しく解説してきた。この二つの学びはお互いに対応関係にあり、お互いのメリットはお互いのデメリットを補完するような関係にあるのである。つまり学びがどちらかの形に偏ってしまっていては常に何か欠けている状態になってしまう。より良い学びの形を作るにはこの二つの学びをバランスよく使い分けることが必要であると言える。本章ではこれらを組み合わせることによってどのような効果が得られるのかについて述べていきたい。

第一節 二つの学習の組み合わせ

ステップ型学習とサイクル型学習は同時に行うことで効率的な学習の形となる。それぞれのデメリットの隙をそれぞれの形の学びが埋めることで、隙のない学びを実現することができると考える。ステップ型とサイクル型の学びのメリットとデメリットがどういう関係になっているのかを改めて確認してみたい。

ステップ型学習のデメリットは最終目標と現段階との間に果てしない距離感を感じてしまいそれに打ちのめされてしまう可能性があるということ、そしてステップをクリアできなかった時はその段階で停滞することになってしまうということだ。また修得を確実に自分のものにしていない場合はステップを戻ってやり直さなければならないということだった。

一方、サイクル型学習のメリットは確実に修得することを目的として繰り返し同じ問題を解くことで一度学んだことは忘れにくいということ、できる問題を解くので大きなエネルギーを必要としないことである。そしてなにより学んだことに触れ続けることでいずれ自分に合った形に内容を学び直していくことだった。

この二つを見比べてみると、ステップ型の学びによって戻ることのなかった過去に学んだ内容を忘れてしまう事のないようにその内容に触れ続けるサイクル型の学びがそれを補っていることが分かる。

サイクル型学習のデメリットは今ある自分の中の内容を学び直すことが多くて新しい学びに触れる機会が少なく、自分の外に向く目が育ちづらいことに合った。最終目標の設定から逆算式に今の自分との間をプランニングすることができ、その設定はその本人よりも望ましい人がいればその人が適切なプランニングを行える点であった。

この二つを見比べてみると、サイクル型の学びに欠けている新しいことを学ぶという視点がステップ型の学びによる次のステップが定まっていることで現在の状況から新しい情報へ自然とリンクしていることがわかる。また、他の人の考えを経由して新しいステップが自分に無いものを運んで来てくれる可能性も考えられるという構図になっている。

あまりにもきれいに合致しているので、こんな新しい学びの形が存在するはずはないという意見があるかもしれないが、私たちは普段の生活の中でこの新しい学習の形を実践している部分もある。 それは私たちが自分の趣味に向きあう時である。どんな趣味であれ私たちは大抵趣味には定期的に触れる場合が多い。最初に趣味を初めた頃はその趣味に対する興味は大きいもののそれに関する知識は殆ど無いと言っていい。しかし自分が好きなものにはもっと知りたくなるものである。インターネットで検索をかけたり、雑誌を買って読んでみたり、とにかくいろいろな方法で情報収集をする。覚えることがたくさんあると感じた場合は徐々に覚えていこうとする。最終目標は人によって異なるが、友だちよりも自分のほうが詳しくなることであったり、長年続けていくことといった場合がある。

こういった流れはまさにステップ型の学びの小さなステップを設定するための情報集めのようなものであったりそのステップを自身で設定することである。また今日得た知識をなるべく忘れまいと頭のなかで何回も思い出して確認したり、友達に話たりすることで記憶にとどめようとする。実はそのたび毎に趣味に関する知識というものを使っていることになる。これはサイクル型学習の形とよく似ている。つまり私たちが趣味に対して学んだり使ったりする行為は実は新しい学びのスタイルの形なのである。

しかしこれを学校で実現することはなかなか難しい。その理由に学校には趣味と違って授業ごとの時間的制約があるということ、そして初期の段階での事柄への興味の温度が趣味の時ほど熱くはないということがあげられるだろう。

だが第二章で紹介した陰山先生の行った百ます計算はサイクル型の学びの形をしているものの、それだけでなくステップ型学習の要素も入っているのである。学校で行われた新しい学びのスタイルのモデルとして改めて百ます計算の例に戻ってみたい。

百ます計算がサイクル型学習の形をしていることは第二章で説明したとおりであるが、ステップ型学習の要素はなんだろうか。

それは毎回のタイムを記録するということにある。これによってサイクル型の学びの計算練習プリントから新しい学びのスタイルを作り出す魔法のプリントに変わるのである。百ます計算には面白いトリックが隠されている。百問の計算問題を解くにしても普通であれば一定の時間内にどれだけの量の計算を間違えることなく出来たかというテスト形式の使われ方をしそうであるが、逆にどれほど時間をかけても間違えても良いから一定の量の問題を解き切るという使い方をしているのである。こうすることで同じプリント一枚でも子どもたちの反応が大きく変わってくる。時間制限を設けてその中で自分の力を出し切るという様に設定すると、解答を考えている時間が多くて解く能力はあるにもかかわらずそれを出しきれないまま終わってしまい、子どもの中にはモヤモヤとした気持ちが溜まることになる。しかし自分の力を出し切ることを基準として時間は測るだけというように設定すると、子どもたちは時間の縛りを受けることなく焦らず問題に取り組み終わった後に達成感を得るのである。そしてどのくらいの時間がかかったかはちゃんと目に見える形で記録されていくので、そこで自分のステップアップを目で見ることができる。取り組み方の設定の仕方一つでここまで子どもの達成感を引き出してあげる事ができるのである。言うまでもなくステップ型学習とサイクル型学習の達成感では新しいことを自分に吸収して知識が広がっていくステップ型学習の方が達成感は大きい。こういった達成感を定期的に実感していくことで子どもたちは勉強を好きになっていき、そういう子どもたちが増えていくとその子どもたちは次第に周りに影響を与えていくのである。

第二節 予習と授業が中心の授業の構築

第一節で述べたように、ステップ型学習とサイクル型学習はお互いにメリットとデメリットを合致させることで効率的な学習を行えることが分かった。本節ではこの新しい学習の形をいかに予習、授業、復習の中に組み込むかということについて述べたい。

第一章の第二節で述べたように予習と復習を自主学習として一人で行うものだとした場合、学習が完了する最終地点が復習の段階にあることが問題であった。しかしそれが問題であったのは日本の学校教育がステップ型学習に偏りすぎているからであり、それによる弊害が復習という最終段階に回ってきていただけだったと考えられる。そうするとステップ型学習を補うサイクル型学習に導入することで問題の解決を図ることができるのではないか。

サイクル型学習は修得に重点を置く学習である。授業の段階でサイクル型学習を導入することができれば、今まで復習段階が担っていた役割をサイクル型学習が受け継ぐことができる。そうすれば復習は必ずしも行わなくても学習を完了することができる可能性が高まるといえる。

しかしサイクル型学習を授業に導入するということは、授業が始まる段階で生徒たちはその日の授業で行う学習内容に出会っていなければならない。そこで復習の役割を授業で行う分、予習の段階に授業で行う内容を移動させることはできないかと考えた。 とはいえ、決して今まで授業を受けていたような新しい学習内容を100%頭に入れて来なければならないわけではない。最低限行って来なければならないことは主に二つのことに絞ることができる。

一つは次の授業で扱う学習内容の全体像を掴んでくることである。これまでの学習内容を受けて、次はそれをもとにどのような展開をするのかを理解することとも言える。できればその回で進む範囲が全体の内、どれくらい進むのかというのを感覚としてもっておければ尚良い。

二つ目は進む範囲の中で自分がどこに「わからない」と感じたかをチェックしておくことである。これによって、授業を行うときに教師にわからない部分を質問することができる。そしてこの時にわからないと感じた部分を全てわかるようにしておくことが必要である。

授業段階ではサイクル型学習なので、その回に行う授業内容の問題を複数用意しておく必要がある。そしてその問題をできる限り多く解き、解説をすることが重要であるといえる。それによって生徒たちが予習でわからなかった部分を解決させる必要がある。

予習をさせるにあたっては、教師が予習に関する宿題を出したり、どのように予習させるかを支持しても構わないが、生徒たちが行うべき予習はなるべく生徒それぞれのやり方に任せるほうが良いと思われる。予習段階で生徒たちは初めて新しい学習内容に出会う。その時に生徒がどういった印象を自分の中に持つかを生徒自身の中に自覚させる意味合いもあるためである。

こういった感覚を養うためには、「わからない」ということをどのくらいじぶんがわかるかということが重要になってくる。

第三節 「わからない」がわかるということ

自分が自分自身についてどれほど詳しく知っているかという問いは大人であっても難しいものである。更に細かく言えば自分は自分自身のことをどこまで他の人に細かく説明することが出来るのかということである。自分の身長や体重であったり、英検や漢検で何級程度の実力を持っているというような、自分の中から取り出して数値化できるよう目に見えることであれば難しくはない。

この問いで一番難しい部分は自分にとっても他の人にとっても曖昧で手にとって見ることが出来ないような部分を説明することである。例えば英語の現在完了形が苦手なときに、なぜ自分は現在完了形が苦手であるのかをきちんと説明できるだろうか。歴史を覚えることが苦手なときに、その理由を歴史が得意な人に説明することができるだろうか。恐らく説明できないはずである。もしその内容をきっちり説明することができるのであれば、勉強でつまずくことは殆ど無いに等しいからである。

これらの問いはより抽象的に言えば、自分がわからない状態にあるという原因自体を自分自身でわかっているかという問いに他ならない。自分がわからないという状態にあるという原因自体が明確にわからないからこそ、自分はわからない状態にあるという当然の結論である。逆に自分の得意分野についても同じ事が言える。自分はなぜ数学のテストでいつも高得点を取れるのかをわかっているからこそ高得点を取れるのである。そして自分の得意教科に関しては大抵間違った箇所がなぜ間違っているのかを明確に説明できる場合が多い。

以上のことをまとめると、自分がわかっている状態にあると感じている部分に関しては実際に自分のことをよく理解できている事が多く、自分がわからない状態にあると感じている部分に関してはほとんど自分のことを理解できていないと言える。当たり前のことを述べているようであるがこれは本人の学びを成長させる上で非常に重要な部分である。これは認知心理学で「メタ認知」と呼ばれる。「メタ」というのは「一つ上の、形而上の」という意味であり、つまり「その子がどれほどメタ認知できているか」と言った場合、その子は自分自身のことをどれほど客観的に分析できているかということを指す。

生徒が一人で予習を進める際に、子ども自身のメタ認知がある程度進んでいることは非常に大きな効果を持つ。学びという行為自体を行うのはあくまで子ども自身であり、他の人ではない。常日頃自分がどのような学びを行なっているのかを自分で認識していることは、より自分の学びのスタイルにあった方法を見つけやすいということに繋がるのだ。

自分のことをまだ理解できていない場合その理由は大きく二つあげることができる。一つは自分のわからないと思う部分に対して、どの瞬間にわからないと思うかということだ。数学の方程式で言えばイコールで式が展開していく中でどの瞬間にわからないと感じるのか、国語で言えば筆者の意見のどの言葉に疑問を覚えるのかなどといったことである。わからないという気持ちにはその気持ち以外に雑多なものがたくさんくっついている場合が多い。実はわかっていることもわからないという気持ちが膨らんで、わからないという枠組みの範疇に紛れている可能性がある。そういったものを徐々に徐々にそぎ落として行き、最終的に純粋な「わからない」と思った箇所を見つけることが重要である。

もう一つの理由は、純粋な「わからない」もの自体を見つけることが出来たとしても、それが一体どういうものなのか具体的にイメージできていないということである。この場合はイメージを作り上げる上での材料が足りていない時が多い。

例えばある子どもが勉強に対してやる気が起きずその理由を考えた時、最終的に自分の将来の夢が定まっていないからだと気づいたが、別に将来にやってみたいことが無い場合などが当てはまる。普通に暮らして生活できていければそれでいいという場合でも、それを達成すべき夢だったりその目標に向かって進むに値する夢であると実感できていない可能性がある。その子どもにとって「夢」とはどういうものなのかというのをじっくりと考えさせ、より具体的にイメージできるようになるように他の人は「夢」についてどのようなイメージを持っているのかなどの情報を与えてあげることが重要である。

メタ認知することの重要性とそのための手段を述べてきたが、これを実際に行うには非常に難しいことであることは一目瞭然であるし、ましてや子ども自身に本当にそんなことができるのかという疑問は当然出てくるだろう。

しかし子どもに必要なことはメタ認知の概念の理解ではなく実際にメタ認知することである。そしてそれは意外と普段の学校生活でも起こっていることなのだ。一番わかりやすい例が小学校低学年の感想文である。「今日は~に行って楽しかったです。」というような文を書いて先生に「何が楽しかったのかも書いてね」と言われたことがある人も多いだろう。子どもはそれを聞いて楽しかったことを思い出し、それは何をした時であったのかなどを書くのである。過去の自分を振り返ってその自分がやったことを文字に表すことは紛れもなくメタ認知であると言えるだろう。

これは小学生の例であるが、こういった本人以外の人が何かの支援をすることでふと子どもが自分自身について考えだすような手法を、もっと中学や高校の授業内で扱うことで子どものメタ認知を促すことができるだろう。

おわりに

ここまでステップ学習とサイクル型学習の二つの紹介、そしてそれらを組み合わせることで新しい学学習の形が生まれること、そしてそれを実際に効率よく実践し、新しい学習習慣を確立するにはどうすればよいのかについて書いてきた。

教育学の各分野では今の学校教育の中で起こっている多くの問題について様々な角度からアプローチを試みているが、その結果として教育は変わったのか、よくなったのかと問われれば何も変わっていないと言うのが現状だろう

本論文の最初に述べたとおり、多くの中学生や高校生が今の学校教育に満足しているようには見えない。学校現場で現役の先生方はこの統計結果をより肌で感じていることだろう。毎日授業を組み立ててより面白い授業を作っていこうと日々努力しておられる先生方はたくさんいる。インターネットを経由してそれぞれの授業方法を公開しあっているページを覗けば、面白そうな授業案がいくつも載っている。しかし日本の教育界は明るいとは言いがたい。

教育学の教授のような知識を武器に教育を語る人たちも、学校現場の先生のような経験を武器に教育を語る人たちも、日本の教育をより良くしようという思いや子どもたちによりよい教育をしてあげたいという気持ちは一緒である。しかしこの両者の間には実は分厚く高い壁が存在している。教育学の立場から言えば学校現場の教育は効率でないものが多いので変わるべきだというスタンスでいるし、一方学校現場の立場から言えば教育学は単なる理想論に過ぎずそれを実現するのは不可能であるというスタンスでいる。この両者の主張は必ずしも間違っているとは言い切れない部分がある。きっとこの先もこの対立は続いていくだろうが、それによって一番困るのはその間に挟まれている子どもたちである。

子どもたちにとってはそんな対立は関係ないのである。学ぶ身である子どもたちがいるのに、教える身である大人たちがいがみ合いをしていてはきっといつまでたっても良い教育などできない。教育は学びとは違い、人が二人なくてはできない。一人は先生であり、一人は子どもである。どういった教育が一番良いかを決める権利の半分は子どもたちにもある。教える側の人間はもう少し学ぶ側と向き合う必要がある。

しかし当然そうなれば、学ぶ側の子どもたちも自分の学びだけでなく教育というものの存在について改めて考えなおす必要が出てくるだろう。その時には必ず教える側の色が強く出るステップ型と学ぶ側の色が強くでるサイクル型の二つの学びの組み合わせが重要であることは言うまでもない。そしていつかその二つの組み合わさった新しい学びのスタイルを基盤にした日本の学校教育から、素晴らしい子どもたちが巣立っていくことを祈っている。

<引用>

注1…ベネッセ教育研究開発センター、第2回子ども生活実態基本調査、2009年実施第三章 第二節 「2,勉強への取り組み」 p.107 図3-2-7から引用。

注2…同上。

注3…同上のp.111 図3-2-7から引用。

注4…同上。

注5…同上のp.107 図3-2-4から引用。

注6…同上。

注7…陰山英男著『本当の学力をつける本 学校でできること家庭でできること』p.26 l.9

注8…同上のp.77 l.15

参考URL

ベネッセ教育研究開発センター、第2回子ども生活実態基本調査、2009年実施

部科学省、平成24年度学校基本調査(確定値)について

参考文献

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