クレメント・グリーンバーグのモダニズムの
絵画、抽象表現主義以降を読んで

発表日:平成13年4月18日
担当者:西宮・古田(裕)・榊原・佐々木
〈要約〉
モダニズムの絵画

  モダニズムとはカント的な自己−批判の強化、激化でもあり、 それは芸術にとって、また個々の芸術のジャンルにとって、 削除し得ないように作用する本質を決定することである。 つまり、他のメディウムとは相容れない独自の領域が、そのメディウムの 本性に独自のものすべてに値し、その自己−限定がその芸術の自立の保証 となり、その芸術を確固たるものとし、 また、その質の諸基準ともなるであろうというものである。
  絵画においてその基本の規範、本質的なものすべてとなったものは、 支持体の不可避の平面性と、その視覚的経験のみの価値であった。 このことはモダニズムにおいて始まったということではなく、 過去の絵画の伝統と伝統的テーマを継承してはいるが、モダニズムによって、 さまざまな検証をとおして意識化されたのだ。

  しかしモダニズムは理論的になされた示威行動ではない。 個々の芸術家が独自にあらゆる理論と実際の芸術の実践と経験の関連性 について検証していく経験的行為のもと、 その自己−批判的性質があきらかになっていった。 つまり、自己−批判というものは全く経験的なものであって決して 理論上のことではないということだ。 このことはいままで本質的と考えられてきたもののほとんどが実は そうではないと省かれても、古い価値判断のほとんどのものはそのままの形 で残されてきたことをみてもわかるであろう。 絵画におけるモダニズムは過去の伝統から続く絵画芸術の価値の本質、 ほかでは得ることの出来ない経験を探ることで、 その価値をより確固たるものにしようとしたのである。

 


抽象表現主義以後 クレメント・グリーンバーグ

  ニューヨークの若い芸術家たちは抽象芸術を唯一の解決策と信じていたが、 しかし彼らは「閉じられた」キュビスムに固執しており、 これは少なからぬ「苦境」であった。
  そのような局面は、1940年代に入り、ハンス・ホフマンとジャクスン・ポロック によって、ペインタリ-絵画的な表現へと移行することによって打開された。 西洋芸術におけるペインタリ-絵画的なものは、ほぼ四百年も前から第一に 三次元空間のイリュージョンを高める手段として始まったので、 そのようなペインタリ-絵画的抽象は、スタイルの進展という点からみれば逆行 することになったが、それは重要な質を維持するための唯一の手段であった。

  1950年代に入ると抽象表現主義の絵画の多くは、三次元のより一貫した イリュージョンを求め、つまりそれは再現性を意味した。 それは「帰する場所なき再現性」であった。そして抽象表現主義の 最良の諸効果のいくつかは、再現性をもてあそぶことによってあげられたの である。しかしそれがマンネリ化する、ある手法の特有になってしまうのは よくない。ウィレム・デ・クーニングとフィリップ・ガストンの芸術、 そして1953年以降のクラインの芸術についてそれは起こった。 絵画の本質である平面性とペインタリ-絵画的なものとの芸術家独自の 取り組み、試行錯誤、冒険、その行為が大事なのであって、 それが安全な手法になってしまうことがよくないということである。
  再現性やイリュージョンに役立つすべては、 自分自身以外の役に立たなくされている。つまり抽象である。 また一方で抽象的、ないし装飾的なものを暗示するすべて、平面性、 露な輪郭線、オ−ルーオーヴァー、左右対称のデザインなどは再現性に 役立つものとされている。つまり抽象における相反する二つの意味の含有、 つまり矛盾が明確なものにされるほど絵画は効果的なものになる傾向がある。

  抽象表現主義は単なる絵画的抽象ではなく、 それ自体に対するどんな言葉の定義、また現象的定義からも抜きに出ており、 さまざまな「逸脱」、そして「矛盾」でさえものための余地も残していた。 分析的なキュビスムは絵画的なものと非絵画的なものとの総合、 和解を具象化していたが、それにたいして抽象表現主義はその差を超越していた。 抽象表現主義から幾分距離をとっている三人の画家達、 バーネット・ニューマン、マーク・ロスコ、クリフォード・スティールが 成功しているのは、絵画的であることを放棄してしまっているからである。 彼らはまさに色彩の優位性に的を絞ったのであり、 絵画的な手法から顔をそむけている。 そしてニューマンは色の明暗の対比ではなく、 純粋な色相のそのものの対比を通じて発揮される力があることを示した。 ニューマンとロスコは色彩によって一致団結している。 これら三人の画家によって達成された究極の効果は開放性の効果である。 この新しい開かれた性質が、近い将来の高度な絵画芸術のための唯一の 方向への道を示している、と考える。

  この三人はモダニズムの自己−批判による本質の決定という性質を新しい方向、 質の問題へと変えてしまった。 よい芸術をそれ自体として構成するものは何かという問題へ。 そしてそれは唯一構想(コンセプション)だけである。
  構想の必要条件は文化と趣味が挙げられるであろうが、 唯一趣味のみが重要である。パターン化した、得られやすいアカデミー的な 技量はもはや重要ではない。 インスピレーション、構想だけが徹底的に個人的なものに属している。 一見自分の子供でもかけそうに見える絵であろうとも、 その構想を正確につたえなければ書くことは出来ない。 個人個人の芸術家が色彩と開放性に関連した考え方を追求している かもしれないが、それは断固としてそれが他人に由来する考え方 ではないが故である。

  しかし今や、この三人をついづいすることでさえも安全な領域になってきた。 アメリカにおいてコラージュやネオ・ダダにこってきたような芸術家たちは、 彼ら以前にはキュビスト達も、抽象表現主義者たちでさえもやったことのない、 色彩の冒険をしていない。安全な趣味の支配を脱していないのである。

 
〈注〉

「閉じられた」キュビスム :
キュビスムの狙いは、リアリズムの再定義を 通して再現を再構成すること、つまり、対象の単なる外見ではなく、 その堅固な実態を示すことだが、その平面性を強く要求するあまり その意識が手法としてマンネリ化する危険にったということ。


ペインタリ-絵画的な表現
アカデミーの線の重視に対して色彩、変則、 絵具のような表現媒体のハンドリングを重視したもの。 17世紀頃のルーベンスなどらにはじまり、彼らは絵画的特性の方が 自発性と情動をよりよく表現すると考えた。 現代絵画では絵画的表現は、表現素材そのものに注意を向けさせようとする ものとし、抽象表現主義にそれがあらわれている。

抽象における相反する二つの意味の含有
色彩と形態はそれ自体で芸術的な 価値をもっているという信念に基づいて、 外部の現実世界を写しだしたり直接再現したりすることのない芸術という意と、 もう一つは、イメージを対象から象徴するものという意。


「帰する場所なき」再現性
色彩と形態に芸術的価値を求めながら、 再現性をも喚起させるようもの。




〈疑問〉
  • よい芸術をそれ自体として構成するものは、唯一コンセプションだと していることについて。―オリジナリティの問題について 唯一コンセプションだけが芸術の質を決定するものだというが、 それはずばりそういうことであろうか。
    ニューマンやロスコの絵は模倣しやすく、 彼らの手法をまねて最もらしく言い訳することが出来なくも内容に思えるが、 そういうことをしてもだれにも評価はされない。 二番煎じではなく自分の独自の芸術に対するアプローチ方法が必要なのだ。

  • 作者の意図は理解できるか?
    最初から表現したいことが作者の中で決定付けられている、 計画されていると必ずしもいえないのではないか? 何かを表現すると言うことは偶然性をはらみ、そうすると意図はそのつど 作られていくということになる。 ―作者の意図ということを語ることは我々の側では出来なくなっている。