〈要約〉
コンセプチュアルアートとは、スタイルや媒体といった型によって定義されるアートではなく、アートとは何かを問うアートである。 それゆえコンセプチュアルアートは、唯一で、収集可能な、市場価値のあるものであるというこれまでの芸術品のあり方に疑いをかける。
その芸術性は、受け手が注意力を持って、精神面で作品に参加する事によってのみ存在する。 提言、写真、記録、図表、地図、映画とビデオ、芸術家自身の体など、様々な形態をとる。
20世紀の芸術は敬服されるべきものとみなされてきたが、 コンセプチュアルアートはその芸術を問いなおす事で、文化や社会自体の既成価値観を問いなおしてきた。
近年美術館が保存し、守ってきた排物愛や宗教的な聖なる対象物を、コンセプチュアルアートは進んで排除してきた。 また、当時多くの作品が制作されたが美術館向きの作品は少なく、非物質性が浸透したことによって、70年代の形態的な芸術傾向にも影響した。
意味と主題への感心を際優先する超現実主義から発展して、言葉に重心が置かれるようになっていった。
コンセプチュアルアートという用語が使われ始める前からそれは存在したといわれ、最初の明確な出現は、フランスのMarcel Duchamp の"レディ・メイド"(原−コンセプチュアルアート)だとみなされる。
彼は、思想としての芸術を重視し、芸術はいかなるものからもつくり得ると考えていた。 ただサインつきの仰向けの便器である"噴水"と名付けられた作品によって、人々はただ彫刻や絵画だとみなしていたアートとは一体なんなのかと考えさせられるようになった。
ふつう芸術作品を最初に提示された主題にしたがって受けとめがちだが、レディ・メイドは、主題を提示しない。 それ自身がアートになりうるか、またはもしそうだとしたらアートとは何かという問いであり、既成の概念を捨てて作品をそれそのものとして見ようとする試みでもある。
コンセプチュアルアートは1960年代に最も発展したが、コンセプチュアルアートが、これまでのアートの伝統を問いただすアートである性格上、言葉は唯一でなく、収集不可能で、市場価値がない言葉の形態をとるものが多かった。
また、言葉に近い性質の写真も多用された。 言葉と思想が芸術の真髄であり、視覚的体験や感覚の喜びは二義的で、本質的ではないとされていたためだ。
スタイルや媒体に因らないコンセプチュアルアートだが、一般的に4つの形式がある。
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レディ・メイド…既製品を用いることで芸術品の独自性と手作りの必要性を否定した。
例:Duchampの"Fountain"
A 介在…思わぬ状況や背景に作品をおくことで、その状況や背景に眼を向かせる。
例:Felix Gonzalaz-Torresのthe billboard project
24枚を誰でも見れる場所に設置したという状況がこの作品の原理の重要な部分をなす。
見る人それぞれがにそこに見出すものがこの作品の意図するものである。
B 記録の提供…記事、地図、グラフや写真の証拠によって表される。
例:Joseph Kosuthの"One and Three Chairs"
写真と辞書のコピーと普通の椅子それぞれには何の影響力も持たない。同語反復によって、アートの意味をも追求するのを導いていく。
C 言葉…言語の形で表される。
例:Bruce Naumanの"100の生と死"
たくさんの対になった言葉の羅列は、似ているようだが徐々に意味を異にしてきて、受け手を困惑させる。
媒体に用いられているネオンの音が神経に響き、受け手の状況をつくっている。
しかし、分類すると言うことは、定義を持たないコンセプチュアルアートと矛盾する。 コンセプチュアルアートには一般的な定義はあり得ないが、議論されてきた多くのひとつに、技術やセンスよりアイデアが最重要であるという意味で、
Kosuthのいう最も純正なコンセプチュアルアートの定義は、アイデアはアートを作るマシーンになるということだ。つまり、主体と目的の逆転が起こり、作品は目的ではなくなり、アイデアの媒体でしかなくなった。
それはアートと言う概念の基礎を問うことであるとしたのに対し、作品の方法の純正/不純性、 また正しい/正しくないの区別について議論された。
アートとは何かを問うことがコンセプチュアルアートの起点ならば、 アートとは何かを問うことがアートであるという、終わりなき自己−批判の再帰する問いに行きつく。
コンセプチュアルアートは、ひたすら媒体を追求したそれまでのモダニストの概念への反動のなかで起こった。 社会制度の変化によって、それまで信じ、基づいて生きてきたものをもはや信じられなくなったのだった。
Jhorn Lenonnの詩にみられるように、コンセプチュアルアートは否定と疑いを超えて、 想像と提案へと移行していく社会への態度の経過である。
絵画のような純粋に見たままのアートを強調したモダニズムと逆に、 言葉の役割や視覚を通した経験や理解を強調した。コンセプチュアルアートは、日常と、
理論的熟考の両方に関わる。そこに何が象徴されているかを問うだけでなく、アートについて、 境遇について、見ている人自身について問い、見る人の感心をその人自身に向ける。
コンセプチュアルアートは、様式でも時代区分でもなく、批判精神に基づいた慣習だと言えると同時に、 逆説的なことに、慣習というものの限りない見解でもある。
作品を決める観客の責任において、何を信じるか決めなければならない。
〈疑問〉
なぜこの論文では決して分類不可能なコンセプチュアルアートを4つに分類するのか。
なぜとくにNewYorkで発展したのか。その必然性と、コンセプチュアルアートを生み出した原動力は何か。
〈考察〉
抽象表現主義から、アートはどんどん思想的なもの、精神的に体験するものへと変化してきているが、
そういったアートから受ける感動と、単純に視覚的に美しいと感じるアートから受ける 感動の基準は別のところにあるのではないだろうか。
(詩から受ける感動と、風景を見て受ける感動の違いのように。)
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