〈要約〉
視覚はこれまで歴史的に区分され、伝統の連続性を強調するやりかたで論じられてきたが、このような支配的な歴史観によって見落とされてきた非連続性の重要さをここでは強調したい。カメラ・オブスクーラいかに当時の支配的なパラダイムと重なり合って、見るもの(観察者*)の立場や可能性をイデオロギー的に規定していたかを、認識しなければならないからである。カメラ・オブスクーラは認識論においても、科学的な位置付けにおいても、何が知覚における「真理」なのかを映し出す装置と考えられていた。人間の視覚にはらまれた不確実さを排除することで世界に対する絶対確実な視点を与え、その視点から世界を体系的に説き表そうとするデカルトの探究に、カメラ・オブスクーラはぴったり合っている。そこでは都合の悪い両眼視差は軽視された。カメラ・オブスクーラの観察者*は、名目上は自由で自律的な個人だが、実はあらかじめ与えられた真理といわれるものに従属していて、外部から切り離された私的な単独主体でしかないのだ。
19世紀前半、これまでのパラダイムは崩れ去り、人間的視覚という全く異なったモデルに取って代わられた。視覚をめぐる言説と実践の中に、「人間の身体」が含まれるようになったのだ。ゲーテの『色彩論』では、視覚における中心は身体になり、生理学的身体に基づく主観的視覚というモデルが記され、生産力を持った新しい観察者が見出された。観察者の身体は視覚的経験を生み出す様々な力を持っているので、神経経験は観察主体の外にあるいかなる対象にも対応していない。視覚は生理学的プロセスと外的刺激とが絡み合って混合しているのである。
かつて、実在しない錯覚であると片づけられていた網膜残像などの経験は、19世紀前半には視覚を成立させる実定性になった。そして、視覚を生産する身体を特権化することによって、カメラ・オブスクーラが前提としていた内部と外部との区別が崩壊し始め、知覚と対象とが直接的に対応するという考えは揺らぎ、自律的な視覚のモデルが成立したのである。
19世紀に生まれた生理学の中で、眼や視覚のプロセスについての新しい知識に基づく新しい認識論的な考察が展開された。生理学は、知が身体(特に両眼)の肉体的・解剖学的な構造と機能によって条件付けられているのを発見し、組織や機能に応じて身体を次々に分割・断片化していった。感覚の分離が科学的に理論化され、古典的な観察者との間に決定的な切断が生じ、見る行為とは必然的な関係のない視覚を持った観察者という概念が生まれたのだ。
ヨハネス・ミュラーの「特殊神経エネルギー論」は、同じ原因(例:電気)であっても、それがたどる神経によって全く異なる感覚を生み出すと考えられる一方で、ある決められた感覚神経においては多様な原因が同一の感覚を生じさせることを示した。感覚は規則正しい立法的な機能ではなく、意図的な管理や攪乱を受け入れてしまう。この理論では内的感覚と外的感覚の区別が抹消され、古典観察者やカメラ・オブスクーラが以前持っていた「内部」の意味が失われた。
19世紀初頭にカメラ・オブスクーラが崩壊した理由はカメラ・オブスクーラにおける内側/ 外側の明確な区分や、知覚と対象の同一視などが新時代の要請に適合しなくなったからである。そして、身体の新しい使用法や、動的で交換可能な記号や映像の普及にあわせて、より動的で有用な生産的観察者が、言説や実践において必要とされるようになった。
モダニズムの芸術表現や新しい支配形態が可能になったのは視覚を真正な対象から切り離し、身体において構成されるものと見なしたからである。
〈考察〉
視覚の変容にともなう観察者の立場の変化
用語解説にもあるように、観察者は純粋に客観的ではあり得ず、常にその見る対象とある部分では同じ状況のなかに組み込まれながらも、対象を相対化して観る(見る)。そうすると、観察者という存在自体が比喩的で曖昧なものであり、対象をもって初めて自己の観察者としての存在が成立するのであって、主体という立場までもが不確実であると気付く。カメラ・オブスクーラは閉じられた空間のなかで観察者に確実な位置付けを与えることで、外の世界を知る方法となった。しかし、そのような観察者の視点には二面性がある。先に述べたように、自由で自律的な視覚を得たようで、実はその視覚は閉じられた世界の中で決められたルールに従属させられているのだ。このように19世紀以降の視覚には主体も対象も無くなって差異しかなく、そうすると主体/対象、現象/認識、さらにはほかの五感との対立もとりはらって、そういった様々な条件も含みこんだうえでそれらの結果ないしは結晶として視覚現象をとらえていくしかないのではないだろうか。ポストモダン的視覚というものがあったとしたらそういった、視覚の枠組さえも越えた視覚のようなものであり得るのではないだろうか。(例えば音風景といわれる、サウンドスケープという考え方など。)
視覚論に関するポストモダン的状況
「近代化する視覚」ということは、視覚自身が近代化したということよりはむしろ、視覚に対する新しい捉え方がうまれ、それまでの考えが再編されたということだろう。
ジョナサン・クレーリーはこの論文において、これまでの視覚に関する見方に対し疑問を呈し、彼なりの新しい考えを明らかにしたのだが、今までのモデルを否定しているのではなく、新たな可能性を付け加えた。新しい考えや違った角度からの視点は重要で、視覚に関しても、ある意味排他的であったモダニズムのように一つの論にしぼり込むのではなく、いろいろな考えを共存させようとしているところは、多様性を認めるポストモダン的な姿勢だといえるだろう。
〈疑問〉
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現代において権力装置なるものが存在するとしたら、それはコンピュータといえないだろうか。だとしたら、コンピュータがわたしたちにもたらす支配力またはイデオロギー的効果は主に視覚によるものだろうか。視覚優位の時代と言われているが、映画や写真が登場した頃のほうが視覚の影響力は大きかったのでは無いだろうか。
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19世紀前半からの身体を含んだ視覚あるいは観察者と、それ以前の身体と切り離された視覚や観察者は対立した関係にあるのだろうか?両者が共存することはありえないのだろうか。
〈用語解説〉
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モナド論(文中では「モナド的視点」):
ライプニッツの哲学の根本原理。世界は形も広がりもなく分割できない無数の単純な実態モナド(単子)からなり、それは神の予定調和によって統一されていると説く。
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観察者:
クレーリーが観察者observerという語を用いるのは、動詞observeとそのラテン語源observareの両義性を利用して、「見る者」という意味に「(習慣・規則などを)守る者」という意味をかさねるためである。これは、「見る者」が、歴史的、文化的な条件から独立自存した存在ではなく、それと分かちがたく絡み合っているという彼の立場から要請されている。
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パラダイム:
科学上の問題などについてある時代のものの見方、考え方を支配する認識の枠組み。
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カメラ・オブスクーラ:
小孔またはレンズのついた暗箱。写真発明以来、画家などが写生に用いた。(前回のレジュメからの引用)
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ヨハネス・ミュラー Johannes Mueller:
ドイツにおける近代実験生理学の父。視覚理論家でもある。
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