見る衝動/見させるパルス
     ロザリンド・クラウス

発表日:平成13年10月17日
担当者:市川・久保・古田

近代化する視覚
 
〈要約〉

  モダニズムは視覚に見える所のみが重要とされ、追求され、見えない不可視な所は排除されていった。しかし、そういった見える所という可視な所よりも、見えない不可視な所にこそ追求されるべきものがあるのではないか?ということがこの論文にかかれている。そのことを謎解いていくために、リズム、ビート、パルス(オン/オフという一種の律動)の問題が提起されている。それらは視覚的空間の安定性を破壊し、その特権を奪うことを本性としている。なぜなら、視覚性を支えていると思われる形態(=形式)の統一性そのものを解体し、溶解させてしまう力がビートには備わっているからである。

  20世紀初頭のモダニズムに対抗して現れた様々な作品は、まさにこのリズムを持っていた。視覚の自律性(可視を重視する)という概念の上に視覚芸術を基礎づけようとするモダニズムの野心に、リズムが正面から意義を申し立てたのである。

  ここで焦点をあわせたビート・パルス・律動は、モダニズムの視野を脱物質化すれば、知覚の時間を瞬間へと凝縮したり、その時間性を消したりすることが出来るという視覚性を支えている形式的前提を崩すのみならず、「低級芸術」ないし「大衆文化」の本性を抜き取って、それを遊戯性の寓意にしてしまえば、いとも簡単に「高級芸術」の枠組みに入れ、その野心のために役立たせることが出来るという事に対しても、ビートは意義を唱える。このビート、パルス、律動を考えるために、現代の映画へとつながっていく光学装置が挙げられている。これらの光学装置はイリュージョンを生じさせると同時に、そのイリュージョンを作り出す仕掛けもあらわにしているのである。したがって、観客は2つの位置を同時に占めるといってよい。
第一)

イリュージョンと想像的に同一化したり、イリュージョンの世界に閉じ込められたりする位置。われわれ観客は、ステレオスコープによって立体化した幻のような川の流れを背に雄牛が牧草を食べているところや、ガチョウの郡が元気に餌をついばんでいるところを、あたかもその場にいるかのような思いで眺めるのである。

第二)

光学装置そのものを見させられるような位置。この位置は、光学装置がそこにあるということや、その装置のメカニズムによって断片が見かけのうえでだけ一つの見世物になるということをたえず思い出さずにはいられない。イリュージョンを経験すると同時に、経験を外側から見させるという二重の効果。これが、見世物に魅せられた19世紀後半の特徴である。

  モダニズムの視覚の論理を支えるのは「分離性」の概念で、モダニズムは感覚の分離を唱えてきた。それ故、モダニズムの観点においてビートは、時間的なもの、聴覚的なもの、言説的なものの領域からの不法な干渉で、いつも視覚的領域から排除されてきた。

 エルンスト、デュシャン、ジャコメッティの作品は、そのビートがモダニズムの「分離性」を侵犯し、ビートやパルスが視覚と構造的に区別されるのではなく、視覚に内在していることを把握していた。ビートは本性からして形象的(形象の秩序に属すもの)なのである。。

  形象の秩序に関して、イメージという「見られる」秩序、ゲシュタルトという「可視的だが見られない」秩序の下にマトリクスという「不可視なもの」が存在している。マトリクスは無意識の一部であり、パルスという形式を持つが、このパルスには、オンの後に必ずオフがくる反復法則に従うパルスではなく、常に循環が断ち切られる脅威が付きまとっている。この断絶は絶対的な断絶であり、終わりなき非連続性であり、死である。「子供が叩かれる」の快感と消滅とが交互にビートを刻むこのリズムを反復強迫へ変換するのは、快感原則の下で稼働している死の欲動である。マトリクスは断絶の回帰を形象化する形式なのである。こうしたリズムに結びついた快楽の下にある無意識の地と、快楽が機械的複製によって媒介されることに同時に注目していたからこそ、大衆文化の媒体に、エルンスト、デュシャン、ジャコメッティ、ピカソなどの芸術家たちは関心を寄せたのである。

 その中の一人、ピカソの『草上の朝食』(p.101)は、微妙なバリエーションを保ち、ページを順番通りに次々とめくっていくと、パラパラ漫画を目の当たりにしている感じである。こうしたバリエーションの構図は、肉体的に貫かれて受身になるために、想像力が屈服し、快楽に身を委ね、すすんで囚われの身となって描かれ、その結果彼の製作するものはパルスの機能をますます帯びていき、機械的に反復されるもの、エロティックに演じられるものがピカソを罠に陥れたのである 。
 


〈考察〉◆◇

  無装飾主義といわれるモダニズムは視覚性を重視していった。つまり、リズム、ビート、パルスというものは必要とされなかった。しかし、20世紀初頭から、これらの必要とされなかったリズム、ビート、パルスがモダニズムに意義を申し立てるようになった。それは、モダニズムは不必要なリズム、ビート、パルスを排除することによって、視覚性を高め、「高級芸術」になった。しかし、そういったモダニズムが必要としないリズム、ビート、パルスが重要性を持ち、「低級芸術」、「大衆文化」ではなく「高級芸術」になることが出来ると考える人々が現れたからである。このように意義を唱える芸術家たちは、その作品がほとんどエロティックなものである。ジャコメッティの彫刻『吊るされた球』は露骨に性器を思わせてしまう。こうした作品を見ていると、人間の幻想や無意識のうちでの欲望は常にエロティックなものであるように思えてくる。

  以下はリオタールによるマトリクスについての記述である。

「マトリクスは無意識に属しており、抑圧の背後で不可視的に作動する一次過程の形式である。そのため、防衛を経て形成された現想だけが、可視的なものの領域に浮上しうる。したがってマトリクスは、幻想がもたらす形象化にもとづいてしか、推測したり、再構成することが出来ない。」

  それに対してモダニズムは、ほかのあらゆる感覚を排除して視覚的なもののみを分離し、自己充足と自律性を追求した。このマトリクスとモダニズムの関係はフロイトの無意識と意識の関係に例えることができる。フロイトはこころを意識・前意識・無意識という3つに区分し、無意識は前意識を通って意識に浮上してこようとするが、その際に必ず検閲をうけ、抑圧されたものが無意識に溜めらるため、意識の側から無意識を知ることは出来ないという。見ることが出来る意識の部分だけで完結させようとするモダニズムに対し、表層だけにとどまらず、意識を通してそれを構成した見えない無意識の領域まで見ようとする見方(視覚の可能性)をここでは提起しているのではないだろうか。


疑問〉
  • ロザリンド・クラウスはピカソやデュシャン、ジャコメッティの作品やフロイトの「子供が叩かれる」を例に出したとき、いつもそれらはエロティックな方向に結びつけられているのはなぜか?人間の幻想や無意識のうちでの欲望は常にエロティックなものなのか?

  • ビート、パルス、リズムの違いは何か?ロザリンド・クラウスはどのようにこの三つの言葉を使い分けているのだろうか?

  • p.88・6〜にあるように、ビートないしパルスが視覚の奥底で動いていて、視覚と区別されないのだとすれば、モダニズムが本当に視覚のみを分離させることは不可能なのではないか?


〈用語解説〉
  • リズム
    音の強弱などの、周期的な繰り返しによって表される秩序。律動。調子。節奏。

  • パルス:
    きわめて短い間に流れる電流や電波。また、その繰り返し。Pulse=脈拍。

  • 律動周期的に繰り返される運動。リズム(にのって動くこと)。

  • ゲシュタルト Gestalt(ドイツ)
    ゲシュタルト心理学の基本概念。全体を、部分の寄せ集めとしてでなく、ひとまとまりとしてとらえた、対象の姿。形態。

  • マトリクス matrix:
    (発生・成長・生成の)母体、基盤。(ラテン語mater+-ix=子宮→母胎)


近代化する視覚
ジョナサン・クレーリー

〈要約〉

  視覚はこれまで歴史的に区分され、伝統の連続性を強調するやりかたで論じられてきたが、このような支配的な歴史観によって見落とされてきた非連続性の重要さをここでは強調したい。カメラ・オブスクーラいかに当時の支配的なパラダイムと重なり合って、見るもの(観察者*)の立場や可能性をイデオロギー的に規定していたかを、認識しなければならないからである。カメラ・オブスクーラは認識論においても、科学的な位置付けにおいても、何が知覚における「真理」なのかを映し出す装置と考えられていた。人間の視覚にはらまれた不確実さを排除することで世界に対する絶対確実な視点を与え、その視点から世界を体系的に説き表そうとするデカルトの探究に、カメラ・オブスクーラはぴったり合っている。そこでは都合の悪い両眼視差は軽視された。カメラ・オブスクーラの観察者*は、名目上は自由で自律的な個人だが、実はあらかじめ与えられた真理といわれるものに従属していて、外部から切り離された私的な単独主体でしかないのだ。

  19世紀前半、これまでのパラダイムは崩れ去り、人間的視覚という全く異なったモデルに取って代わられた。視覚をめぐる言説と実践の中に、「人間の身体」が含まれるようになったのだ。ゲーテの『色彩論』では、視覚における中心は身体になり、生理学的身体に基づく主観的視覚というモデルが記され、生産力を持った新しい観察者が見出された。観察者の身体は視覚的経験を生み出す様々な力を持っているので、神経経験は観察主体の外にあるいかなる対象にも対応していない。視覚は生理学的プロセスと外的刺激とが絡み合って混合しているのである。

  かつて、実在しない錯覚であると片づけられていた網膜残像などの経験は、19世紀前半には視覚を成立させる実定性になった。そして、視覚を生産する身体を特権化することによって、カメラ・オブスクーラが前提としていた内部と外部との区別が崩壊し始め、知覚と対象とが直接的に対応するという考えは揺らぎ、自律的な視覚のモデルが成立したのである。

  19世紀に生まれた生理学の中で、眼や視覚のプロセスについての新しい知識に基づく新しい認識論的な考察が展開された。生理学は、知が身体(特に両眼)の肉体的・解剖学的な構造と機能によって条件付けられているのを発見し、組織や機能に応じて身体を次々に分割・断片化していった。感覚の分離が科学的に理論化され、古典的な観察者との間に決定的な切断が生じ、見る行為とは必然的な関係のない視覚を持った観察者という概念が生まれたのだ。

  ヨハネス・ミュラーの「特殊神経エネルギー論」は、同じ原因(例:電気)であっても、それがたどる神経によって全く異なる感覚を生み出すと考えられる一方で、ある決められた感覚神経においては多様な原因が同一の感覚を生じさせることを示した。感覚は規則正しい立法的な機能ではなく、意図的な管理や攪乱を受け入れてしまう。この理論では内的感覚と外的感覚の区別が抹消され、古典観察者やカメラ・オブスクーラが以前持っていた「内部」の意味が失われた。

  19世紀初頭にカメラ・オブスクーラが崩壊した理由はカメラ・オブスクーラにおける内側/ 外側の明確な区分や、知覚と対象の同一視などが新時代の要請に適合しなくなったからである。そして、身体の新しい使用法や、動的で交換可能な記号や映像の普及にあわせて、より動的で有用な生産的観察者が、言説や実践において必要とされるようになった。

  モダニズムの芸術表現や新しい支配形態が可能になったのは視覚を真正な対象から切り離し、身体において構成されるものと見なしたからである。

〈考察〉
視覚の変容にともなう観察者の立場の変化

  用語解説にもあるように、観察者は純粋に客観的ではあり得ず、常にその見る対象とある部分では同じ状況のなかに組み込まれながらも、対象を相対化して観る(見る)。そうすると、観察者という存在自体が比喩的で曖昧なものであり、対象をもって初めて自己の観察者としての存在が成立するのであって、主体という立場までもが不確実であると気付く。カメラ・オブスクーラは閉じられた空間のなかで観察者に確実な位置付けを与えることで、外の世界を知る方法となった。しかし、そのような観察者の視点には二面性がある。先に述べたように、自由で自律的な視覚を得たようで、実はその視覚は閉じられた世界の中で決められたルールに従属させられているのだ。このように19世紀以降の視覚には主体も対象も無くなって差異しかなく、そうすると主体/対象、現象/認識、さらにはほかの五感との対立もとりはらって、そういった様々な条件も含みこんだうえでそれらの結果ないしは結晶として視覚現象をとらえていくしかないのではないだろうか。ポストモダン的視覚というものがあったとしたらそういった、視覚の枠組さえも越えた視覚のようなものであり得るのではないだろうか。(例えば音風景といわれる、サウンドスケープという考え方など。)

視覚論に関するポストモダン的状況

  「近代化する視覚」ということは、視覚自身が近代化したということよりはむしろ、視覚に対する新しい捉え方がうまれ、それまでの考えが再編されたということだろう。
  ジョナサン・クレーリーはこの論文において、これまでの視覚に関する見方に対し疑問を呈し、彼なりの新しい考えを明らかにしたのだが、今までのモデルを否定しているのではなく、新たな可能性を付け加えた。新しい考えや違った角度からの視点は重要で、視覚に関しても、ある意味排他的であったモダニズムのように一つの論にしぼり込むのではなく、いろいろな考えを共存させようとしているところは、多様性を認めるポストモダン的な姿勢だといえるだろう。



〈疑問〉
  • 現代において権力装置なるものが存在するとしたら、それはコンピュータといえないだろうか。だとしたら、コンピュータがわたしたちにもたらす支配力またはイデオロギー的効果は主に視覚によるものだろうか。視覚優位の時代と言われているが、映画や写真が登場した頃のほうが視覚の影響力は大きかったのでは無いだろうか。

  • 19世紀前半からの身体を含んだ視覚あるいは観察者と、それ以前の身体と切り離された視覚や観察者は対立した関係にあるのだろうか?両者が共存することはありえないのだろうか。


〈用語解説〉
  • モナド論(文中では「モナド的視点」):
    ライプニッツの哲学の根本原理。世界は形も広がりもなく分割できない無数の単純な実態モナド(単子)からなり、それは神の予定調和によって統一されていると説く。

  • 観察者:
    クレーリーが観察者observerという語を用いるのは、動詞observeとそのラテン語源observareの両義性を利用して、「見る者」という意味に「(習慣・規則などを)守る者」という意味をかさねるためである。これは、「見る者」が、歴史的、文化的な条件から独立自存した存在ではなく、それと分かちがたく絡み合っているという彼の立場から要請されている。

  • パラダイム
    科学上の問題などについてある時代のものの見方、考え方を支配する認識の枠組み。

  • カメラ・オブスクーラ
    小孔またはレンズのついた暗箱。写真発明以来、画家などが写生に用いた。(前回のレジュメからの引用)

  • ヨハネス・ミュラー Johannes Mueller:
    ドイツにおける近代実験生理学の父。視覚理論家でもある。