拡張された場における<眼差し>
     ノーマン・ブライソン

発表日:平成13年10月24日
担当者:田中・佐々木・松田

セクシュアリティと視覚
◇◆要約◆◇

T)この論文では一貫して「眼差し(le regard, the Gaze)」 という概念を検討することと、それとはまた全く無関係に見える「視覚論」 を取り上げている。ここではサルトル・ラカン・西谷啓治を例えに出して 主体の根本的な脱中心化を論じている。 西田・西谷の視覚論では、サルトル・ラカンは視覚の脱主体化はまだ 不完全とし、彼らのいう外側から注がれる<眼差し>を「空」、「空白」、 「空虚」という拡張された場に新たに位置づけている。

U)サルトルの考えでは公園の例に現れている。 見るものの生きられた地平の中心に収束していた力戦の全てが、 自分自身も世界の中心である他者の侵入によってその空間に吸い込まれてゆく。 他者の侵入は見るものの自己を、中心でなく接線にし、 視点ではなく消失点とし、他者の地平の上に位置する不透明なものとする。 例えばラファエロの絵画の場合では中心としての主体を無化することが 見ることの一つの条件となる。そして視野を反転させてしまうものは、 サルトルでは人称的他者なのに対し、ラカンは人称的他者の不在によるもの だとしている。
ラカン考えはの場合はいわし缶の例に現れている。 無生物の世界でもある程度、それを見ている者を絶えず見返していると ラカンは感じている。そのような見返しが生じるのは視野の中に〈シニフィアン〉が侵入してくるからである。 光線は網、すなわち社会的環境から与えられるシニフィアンのネットワークに とらえられ、文化的構築物としての視覚性が形成され、 視覚性は視覚と異なるものになる。
網膜と世界との間には、無数の記号のスクリーンが挿入されているのである。 視覚は他者の場の脇で、その場に接して繰り広げられる。 このような視覚のあり方をラカンは、〈眼差し〉のもとで見ることと論じている。

V、W)西谷の思考ではサルトルを中途半端だと批判し、 彼は主体を解体するのは「空」だと主張する。どの時点においても対象は、 実体(entity)という概念のカテゴリーを持った<形態>ないし 形相(エイドス)として固定されるような静止状態にはないので、 「空」ないし根源的な非永続性の場へと引き戻されることによって解体される。 主体も、客体との対象によって自らを実体とみなすため同様にともに砕け散る。 さらに彼は対象の現存は否定的な項によってのみ定義することが出来るといっている。 対象は弁別的な存在であり、対象の体系には「肯定的要素」がない。 個々の対象は「差延」すなわち時間の遅延によっても構成される。 西谷アフォリズムによると、実在物の現前が遅延化/差異化されるありかたを 凝縮させている。

X)サルトルにおける対象は、フレーム化装置の内部に現れるもののみが存在 するとみなされ、逆に西谷は対象がフレーム化装置から引き離され、 空虚ないし「空」という拡張された場におかれるとしている。 見られるものは視覚の外側にあるもの〈眼差し〉によって支えられ、 それに相互に浸透している。これを的確に表象しているのが「水墨画」である。 水墨画ではそのイメージに対象の残余、見る者の残した残余が感知される 必要がある。水墨画の二極的な眺めを崩してゆくのに大切なことは、 イメージの無作為(ランダムネス)の力全体へと開くことによる脱形態化 である。書道における身振りにも同じことが言える。

Y)ラカンと西谷において、サルトル批判である 「至高な主体を中心とする世界」という構図を錯覚だとみなす、 核心的なテーマの脱中心化は同じであるが、彼らのアプローチは まったく違っている。ラカンはそれを破壊的とみなし、西谷はその感覚がない。 それは<想像的なもの>の文化的構成が違うからである。 以前、視覚の真相は網膜にあるとする視覚理論であったが、 ラカンの出現で主に網膜と光によって視覚が形成されるとみなす考えに 異議を唱える考えがでてきた。そういう意味でラカンは重要であった。 つまり芸術というのを知覚の純粋さの問題として考える視点を批判し、 知覚・芸術・美術館における芸術鑑賞は内面的でなく、 社会的に作り出されているということが考えられるようになったのだ。 そして今重要なのは、視覚の政治学を見出すことである。



◇◆
考察◆◇

  主体の脱中心化として「眼差し」が大切なものとなっている。 「眼差し」とはサルトル哲学における重要な概念で、対他存在、 つまり他人に対して存在するような人間のあり方を説明するキーワードである。 フッサールやポンティでは、人は〈他人〉が自分と同じ〈意識〉を持つ主体 であることを、〈身体〉を主要な契機として了解してゆくわけだが、 サルトルでは他者の〈眼差し〉ということが大きく問題にされる。 人間は他者から見られていることを意識することによって自分が世界の中で 唯一の主体であるという感覚を失ってしまう。 なぜなら見られるという体験は自分が他人にとって〈対象〉として現れている ということの認知であるからだ。他人の視線は、 それまで〈自由〉な主体であった私の存在を奪い、 他者の〈自由〉を告げ知らせるものである。 例えば羞恥とは、他者が眼差しを向けて判断している対象であるということの 承認である。

  けれどもこのような考え方は、主体と客体の存在論の問題を 主体の内部の立場から扱ってしまう至高の閉域を根本から覆ってはいない として、同じ脱中心化でもラカンの場合は、サルトルの他者によって 「見られている」という思考ではなく、<想像的なもの>を無意識的に 「見せられている」(つまり夢が意識してではなく無意識に見せられている ように見せられている)とし、そのような脅威を含んだ他者の 〈眼差し〉による視覚のみを問題にしている。
 しかしここでは「存在」と「無」の二極対立が残ってしまう。 という点で西谷は存在と無を支えているものそれこそが「空」であると考える。 「空」それが顕在化しているのは、形ではない別の次元を超えた 「禅画」であると主張している。そこでは「存在」や「無」はまったく 無意味なもの、つまりカレーがゆでたニンジンと、炒めたたまねぎと、 ご飯といった具合に出されるのと同じだ。それには何の意味もない。

 

◇◆疑問◆◇
  • 脱中心化の場としての拡張された場である「空」の概念が、 水墨画や書道において表されているとノーマン・ブライソンは述べているが、 西洋人であるの彼の見方はやはり西洋のコンテクストの中にあってみている のではないか?
    ポロックのオートマティスムの違うというがそれはどのようなところであろうか?

  • 論文の最後に視覚の政治学が必要であること、いかに権力が社会的構成物つまり視覚性を利用するのかを分析につぐ分析 をしてゆく必要があると述べているが、 いかに分析しうるかは述べられていない。 鍵となるであろう、主体と客体の対立のない「空」の領域からの、 そのようなものに対する視覚とはどういった視覚だろうか?

 

◇◆
用語解説◆◇
  • 眼差し視線。

  • 主人と奴隷の弁証法(Dialektik von Herrn und Knecht)
    ヘーゲルが『精神現象学』のなかで展開した議論。 人間はみずからが自由で自律的な存在であろうとするが、 そのためには他者を否定するのではなく、 他者から承認されることが必要である。 そのため人間関係の中で相互承認を求める闘争が生じ、 必然的に勝者=主人と、敗者=奴隷が生み出される。奴隷は労働し、 主人は享受するが、奴隷は労働を通して自然を知り、 自己を形成することができるが、主人は消費に没頭するだけで、 労働による自己形成ができない。
    みずからの意識においては自律していると思っている主人は客観的には 自律を喪失しているのであり、逆に奴隷は自律していないという意識のもとで、 真理においては自律的なのである。 またこれは自由が本質的に最高の共同のなかでしか実現されず、 そこに至る過程が不断に逆転する契機を持った闘争であることをいう。
    このことを知らなければ、われわれは本当は奴隷でありながら、 偽りの自由にうかれた主人となる。隷従は自由の別名である。 また主人と奴隷の、あるいは〈自〉と〈他〉の相互承認による同一性、 つまり〈私〉と異なった〈他〉なるものとして現れるものは、 本当は異なった他なるものではなく、主人と奴隷、つまり<われわれ>は 本質的に同じものとする。

  • アナモルフォーゼ
    正面から見たらはっきりとは図柄の意味が わからないが、或る特定の斜めの一点から見たら正しい像がつかめるように 描かれた図のこと。

  • 形相
    @かたち。ありさま。ぎょうそう。 A「形式」と同じ Bこの個々の目にみえる事物や事象に含まれている本質。

  • 形態かたち。ゲシュタルト。

  • 偏在的:広くあちこちにいきわたっていること。

  • アナフォリズム:
    短いぴりっとした表現で人生・社会・文化等にかんする 見解をあらわしたもの。「警句」

  • 収斂縮めること。

  • 現前
    ある直観(感覚・知覚表象観念)が直接に意識に現われ出ること。
        →一切の意味の本当の源泉であるかのような根源的な直観

  • 表象:@観念として頭に思い浮かべること。 Aシンボル

  • パラノイア:
    精神病の一つ。知覚錯誤や意志、 情緒の障害は見られないが、特定の妄想を持ち続け、 常人とは異なる精神世界に住む。→誇大妄想症、被害妄想。

  • エピステーメ:
    ギリシャ語で理性や思惟によって獲得された、 真の不変なる実在に対する知識さらに技術的知識。 asa


セクシュアリティと視覚ーいくつかの疑問
ジャクリン・ローズ

◇◆要約◆◇

  ポストモダニズムをめぐる議論において視覚におけるセクシュアリティの問題 を考えていきたい。 モダニズムという時代は、"全体性"というある一定の枠がもうけられており、 画一的な時代だったと言うことができるだろう。 一方、ポストモダニズムはこれが崩壊してしまった、 何でもありの時代といえる。このようなポストモダニズムの全体性の否定を めぐる議論の多くは、心的な比喩を用いている。 ジェイムソンは前者を神経症、後者を精神分裂症とパラノイア患者と例えて、 フロイト時代の神経症的な社会イメージと、ポストモダニズムとをはっきりと わけている。神経症の症状としては、自我の歪みということが挙げられるが、 これは欲動が超自我に抑圧されることで引き起こされる。 精神分析では、この抑圧装置を"父の機能"とした。この父の機能には エディプスコンプレックスなどの性的な意味が込められているのだが、 モダニズムは、そのような抑圧装置の働く、禁欲的な時代でもあったと いえるであろう。また一方、ポストモダンにおける主体は、 自我の変形ではなく、崩壊を意味する精神分裂症的なものであるうえに、 性的な偏倚な執着を示すパラノイア患者的でもある。 ラカン派の精神分析ではモダニズムにおける父の機能と心的メカニズムは 密接な関係を持っていた。しかし、ポストモダンをひとつの崩壊として論じる ジェイムソンは、この両者を明確に切り離すことによって、 つまり父のメタファーを排除することによって抑圧がとかれ、 心的メカニズムが崩壊することによってポストモダンの状況をなぞらえている のである。

  しかし、彼はひとつ大きな問題が生じることを見落としている。 性的な意味を帯びた父のメタファーを排除するということは、 心的メカニズムが崩壊するのを意味するのと同時に、 性の問題が表面から消えてしまうことも意味する。 そしてこれは彼が女性アーティストを排除することにつながるのである。 だが、それよりもここで問題にしたいことは、表象の概念そのものである。 なぜなら、その概念には、直接的な視覚が可能だった時代、 つまりカメラオブスクーラの時代と言い換えても良い純粋な視覚の時代に対する ノスタルジーがともなっているように思われるからである。 このように、心的なものが社会的なもののメタファーとして使われると、 逆説的なことに、心的なものと性的なものがともに無垢化されてしまうのである。

  これは、さらに大きな問題へとつながる。 それは、精神分析の位置についてである。 精神分析は他の文化的・政治的活動に応用されているのか、 メタファーとして使われているのか、などさまざまな立場があるだろう。 だが視覚的イメージに関して言えば、それに関連した立場があるように思われる。 それは、イメージの同一性が分裂し、イメージと対象とが必然的に 対応しなくなるような表象をめぐるラディカルな実践を見出す立場である。 この実践が、どのような政治的意味を持つかというと、 そこでは知覚の支配がイデオロギー上の、イデオロギーそのものの神話として 退けられ、却下されるということである。 だが、いまだ象徴的にコード化されていない、この性をはらむ表象の領域は、 自我だけでなく欲動までもが分裂する場に他ならない。 ラカンが視覚的なものの一般的特徴とみなす、 性的な要素がすべてそこで問題になる。視覚を論じる際に、 精神分析が使われると、そこから重要な性という要素がイメージから 消え始めてしまうのである。ジェイムソンは視覚を精神病で例えているが、 その他の議論では神経症、つまりモダニズム的な視点にとどまってしまっているのである。

  ここでピカソの「スケッチブック」を思い出してもらいたい。 そこには多様な反復の中から、男性の性器や男女の性交のイメージが 浮かび上がってくる。 これらは、少しでも機会を与えられれば、芸術の中にセクシュアリティ という問題が顕著に現れてしまうという例である。 したがって、欲望といった概念は、両側からかこいこまれているように思える。 欲望といった概念は、両側からかこいこまれているように思える。 つまり、欲望が利用すると同時に部分的に抑圧する心的経済によって。 そして他方では、欲望が身体化と脱身体化とを企てるさいに、 型にはまった性的な比喩をはりつけるべく、常に待ち構えている性差の構造 によってである。 そこでもうひとつ、精神分析と文化的政治学において考えるべき問題がある。 それはイデオロギーの問題である。かつて、イデオロギーは心地よい "呼びかけ"としてみなされてきたのだが、 それが抑圧的なものへと移行しつつある。 今日、イデオロギーは恐怖と暴力の縁で働きもすれば、 ますます規定されていく性の規範とともに働きもする。 したがって、今日のイデオロギーは、以前の議論では見落とされていた、 無意識を利用しているように思われる。何でもありになった時、 イデオロギーはのさばらしになっている性的なものを利用して、 無意識のうちに支配するのである。 これまで自我と無意識、 これら二つの立場は歴史的には対立関係にあるとされてきた。 しかし、自我であれ、無意識であれ、どちらかひとつが欠けてしまっても、 それを物象化することは不可能である。両者が存在して初めて、 それ自身の存在も保証されるのである。 したがって、無意識に対立する自我がなければ 無意識を思考することもできないので、無意識の理想化もありえない。

  こうした対立関係を考える機会を与えてくれたのは〈文化的同一性〉 をめぐるイベントであった。 それは、政治的アヴァンギャルド映画をテーマとしたものであった。 ここで注目したいことは、人種的・性的な同一性と相違の問題が、 映画という視覚的表象を使って論じられていたということである。 人種的・性的といったマイナスとみなされてきた同一化を、 政治的映画は利用しなければならない。 そういった問題抜きでは、政治的映画はつくることができないのである。 自分はこういう人間だと自分自身を確立する上でも、 同一性を考えなければならない。 このようにモダニズムの神経症時代の精神分析的な視覚イメージを一部で 用いてしまっていることで、性的なもの、欲望といった無意識のやっかいな 心的側面を問題にしなかったり、同一性と無意識を対立させたりして考える ポストモダニズム論に疑問を投げかけたいというわけである。

 
◇◆考察・疑問◆◇

父のメタファーと心的メカニズム
 モダニズム    → "父のメタファー"+"心的メカニズム"
 ポストモダニズム → "父のメタファー"// "心的メカニズム"


  モダニズムでは、超自我によってリビドーが抑圧されていたため、 自我の歪みというものがあったにせよ、少なくとも、 自我そのものは崩壊までには至っていなかった。 このことから、主体そのものの存在は神経症患者と例えられたとしても、 ぎりぎりのところで存在はしていたこととなる。 ポストモダニズムにおいては、主体は精神分裂病者さらには性的な問題と 関係の深いパラノイア患者としてなぞらえられている。 父のメタファーを排除することにより、心的メカニズムが崩壊する。 そして、その排除は、性的な問題を隠してしまうことにもつながるのである。

→主体の核となる自我が崩壊してしまっているポストモダンにおいて、 そもそも主体というものは存在し得るのか。
あるいは、モダニズムとは違ったカタチで存在するとしたら、 それはどのようなものか。

表象の概念
 
  われわれが、視覚的にあるものを取り入れ、 それを自分の経験として蓄積するとき、 そこにはさまざまなスクリーンがかかっているのである。 それは、今までにしてきた経験や、文化背景、年齢や性別といったものである。 そして、今度は何かを表象しようとした場合、 やはりスクリーンを通して表にでていくこととなる。 とすると、同じ主体が吸収し、表象したものでも、 入ったものと出て行ったものとの間でも差異が生まれることになる。 それでも、われわれはカメラオブスクーラの時代、すなわち、 視覚を通して外界で起きている事が内面に直接的に伝わるような時代に対して 懐旧の念をいだいているのである。

→カメラオブスクーラの時代においては、例えば、 ヒーローという表象があった場合、 誰もが同じ人を思い描くということが起こりえたのだが、 今日においても、少数のカテゴリーでかんがえれば、 このような現象と似たようなことが起こりうるのではないだろうか。 たとえば、ユングの集合的無意識などをつかって、 これを説明することはできないだろうか。

 
◇◆用語解説◆◇
  • パラノイア(paranoia)
    体系立った妄想を抱く精神病。 妄想の主体は血統・発明・宗教・訴え・恋愛・嫉妬・心気・迫害などで 40歳以上の男性に多いとされる。分裂病のような人格の崩れはない。 偏執病へんしゆうびよう。妄想症。

  • メタファー隠喩:隠喩法の略。また、隠喩法による表現。暗喩。

  • ノスタルジー(nostalgieフランス)故郷をなつかしみ恋しがること。 また、懐旧の念。郷愁。ノスタルジー。

  • 逆説的逆説を用いて説明するさま。 普通とは逆の方向から真実を述べるさま。

  • コード(code)規定。準則。

  • ステレオタイプ(stereotype)紋切型。常套的な形式。 また、型にはまった画一的なイメージ。

  • イデオロギー(Ideologieドイツ)
    @トラシーらを空論家として非難したナポレオンの侮蔑的用法をうけて、 マルクスが用いた語。歴史的・社会的に制約され偏った観念形態の意。 レーニンは、ブルジョアジーのイデオロギーに対抗するために、 マルクス主義をプロレタリアートのイデオロギーと考えたが、 その場合は肯定的な意味も持つ。
    Aフランクフルト学派の批判理論では、虚偽意識として批判の対象とされる。
    B転じて、単に思想傾向、政治や社会に対する考え方の意味にも使われる。

  • 構成主義(Constructivism, Konstruktivizm)
    ロシア革命前から1920年代にかけてソ連で展開した芸術運動。 V・タトリンが鉄板や木片によるレリーフを「構成」と呼んだのが発端で、 これは彫刻の歴史上初の完全な抽象彫刻であること、 量塊ではなく空間を表現した彫刻であることなどの点において革命的であった。
    が、17年のロシア革命の実現とともに政治化し、教義――擬似性の否定、 社会的有用性、素材開発――が確立され、 これらの非再現的表現、機械・工業的表現に基づく幾何学的イメージから、 彼らがブルジョワ文化の象徴としての「絵画」を否定し、 工業化・大衆化によるユートピアの建設を目指していたことが窺える。 共産党中央委員会による抽象美術の否定、社会主義リアリズムの台頭により、 ロシア国内での構成主義は終結を余儀なくされた。

  • フランスの小市民階級の神話 <バルト>
    『他者であることの拒否、異なったものの否定、同一性の幸福、 似た者への評価がふくまれる』

  • フォークランド戦争
    1982年4月、かねてからイギリス領フォークランドに 対する"正当な領有権"を主張していたアルゼンチンが、ついに島を武力により占領。アメリカや国連事務総長の調停は失敗に終り、 時の政権:サッチャー内閣はこの占領に対し、 遠征艦隊を派遣し同島を武力で奪還。戦いは英国の圧倒的勝利。

  • フェティシズム(fetishism)
    持ち運びのできる手ごろな石、木片、 貝殻、人間の毛髪などにマナ的な呪力が備わっていると信じて、 お守りとして常に身につけているような信仰形態。 また、マルキシズムでは、資本主義社会において貨幣の価値が人間を 奴隷にするような状態のことを、物神崇拝(フェティシズム)とよんでいる。

  • 弁証法(dialectic)
    西田の絶対矛盾の自己同一という弁証法、 サルトルの現象学的な意識の弁証法、アドルノの否定的弁証法などがある。

  • リオタール(Jean‐Francois Lyotard)
    フランスの哲学者。 ポスト構造主義の思想家。主体や進歩主義といった近代の理念を批判する ポスト‐モダンの立場を提唱。著「ポスト‐モダンの条件」など。(1924〜1998)

  • ジェイムソン
    『ポストモダニズム−あるいは後期資本主義の文化理論 (Postmodernism, or, the Cultural Logic of Late Capitalism)』を書き、 戦前のアメリカ資本主義を、大量生産/大量消費/大量雇用を旨とする フォーディズムとの並行関係でとらえ、第二次大戦を分水嶺として、 それ以降の発展を以前とは異なるものとして後付け、 それをもうひとつの論点であるポストモダニズムの問題へと接続しようとする。 その手続きは文化理解などによって進められている。



◇◆
映画に関して◆◇
  • イボンヌ・レイナー:
  • NYでモダンダンスを学び、 のち映画を撮るようになる。 『MURDER and murder』 (96) 50歳中頃までレズビアンとして生きてきた女と、 60歳に達する頃に初めて女性と関係を持った女を描くなど、 6本の映画を監督している。
    『MURDER and murder』
    イボンヌ・レイナーについて


  • ピーター・ジダル
    紹介
    作品紹介


  • ポール・ギルロイ:社会学の教授。黒人文化とその周辺について研究している。DJでもある。
    著書について

  • 映画のドキュメンタリー性の変遷
    「新しい主観性」 マイケル・レノフ 高橋直翻訳

    ※最後の方にゲイやレズビアンのアイデンティティを探求するドキュメンタリー 映画についての短い記述あり。サンコファ・フィルム・ビディオ集団の作品 などがあります。