◇◆要約◆◇
ポストモダニズムをめぐる議論において視覚におけるセクシュアリティの問題 を考えていきたい。 モダニズムという時代は、"全体性"というある一定の枠がもうけられており、
画一的な時代だったと言うことができるだろう。 一方、ポストモダニズムはこれが崩壊してしまった、 何でもありの時代といえる。このようなポストモダニズムの全体性の否定を
めぐる議論の多くは、心的な比喩を用いている。 ジェイムソンは前者を神経症、後者を精神分裂症とパラノイア患者と例えて、 フロイト時代の神経症的な社会イメージと、ポストモダニズムとをはっきりと
わけている。神経症の症状としては、自我の歪みということが挙げられるが、 これは欲動が超自我に抑圧されることで引き起こされる。 精神分析では、この抑圧装置を"父の機能"とした。この父の機能には
エディプスコンプレックスなどの性的な意味が込められているのだが、 モダニズムは、そのような抑圧装置の働く、禁欲的な時代でもあったと
いえるであろう。また一方、ポストモダンにおける主体は、 自我の変形ではなく、崩壊を意味する精神分裂症的なものであるうえに、 性的な偏倚な執着を示すパラノイア患者的でもある。
ラカン派の精神分析ではモダニズムにおける父の機能と心的メカニズムは 密接な関係を持っていた。しかし、ポストモダンをひとつの崩壊として論じる
ジェイムソンは、この両者を明確に切り離すことによって、 つまり父のメタファーを排除することによって抑圧がとかれ、 心的メカニズムが崩壊することによってポストモダンの状況をなぞらえている
のである。
しかし、彼はひとつ大きな問題が生じることを見落としている。 性的な意味を帯びた父のメタファーを排除するということは、 心的メカニズムが崩壊するのを意味するのと同時に、
性の問題が表面から消えてしまうことも意味する。 そしてこれは彼が女性アーティストを排除することにつながるのである。 だが、それよりもここで問題にしたいことは、表象の概念そのものである。
なぜなら、その概念には、直接的な視覚が可能だった時代、 つまりカメラオブスクーラの時代と言い換えても良い純粋な視覚の時代に対する
ノスタルジーがともなっているように思われるからである。 このように、心的なものが社会的なもののメタファーとして使われると、 逆説的なことに、心的なものと性的なものがともに無垢化されてしまうのである。
これは、さらに大きな問題へとつながる。 それは、精神分析の位置についてである。 精神分析は他の文化的・政治的活動に応用されているのか、
メタファーとして使われているのか、などさまざまな立場があるだろう。 だが視覚的イメージに関して言えば、それに関連した立場があるように思われる。
それは、イメージの同一性が分裂し、イメージと対象とが必然的に 対応しなくなるような表象をめぐるラディカルな実践を見出す立場である。
この実践が、どのような政治的意味を持つかというと、 そこでは知覚の支配がイデオロギー上の、イデオロギーそのものの神話として 退けられ、却下されるということである。
だが、いまだ象徴的にコード化されていない、この性をはらむ表象の領域は、 自我だけでなく欲動までもが分裂する場に他ならない。 ラカンが視覚的なものの一般的特徴とみなす、
性的な要素がすべてそこで問題になる。視覚を論じる際に、 精神分析が使われると、そこから重要な性という要素がイメージから 消え始めてしまうのである。ジェイムソンは視覚を精神病で例えているが、
その他の議論では神経症、つまりモダニズム的な視点にとどまってしまっているのである。
ここでピカソの「スケッチブック」を思い出してもらいたい。 そこには多様な反復の中から、男性の性器や男女の性交のイメージが 浮かび上がってくる。
これらは、少しでも機会を与えられれば、芸術の中にセクシュアリティ という問題が顕著に現れてしまうという例である。 したがって、欲望といった概念は、両側からかこいこまれているように思える。
欲望といった概念は、両側からかこいこまれているように思える。 つまり、欲望が利用すると同時に部分的に抑圧する心的経済によって。
そして他方では、欲望が身体化と脱身体化とを企てるさいに、 型にはまった性的な比喩をはりつけるべく、常に待ち構えている性差の構造
によってである。 そこでもうひとつ、精神分析と文化的政治学において考えるべき問題がある。 それはイデオロギーの問題である。かつて、イデオロギーは心地よい
"呼びかけ"としてみなされてきたのだが、 それが抑圧的なものへと移行しつつある。 今日、イデオロギーは恐怖と暴力の縁で働きもすれば、
ますます規定されていく性の規範とともに働きもする。 したがって、今日のイデオロギーは、以前の議論では見落とされていた、 無意識を利用しているように思われる。何でもありになった時、
イデオロギーはのさばらしになっている性的なものを利用して、 無意識のうちに支配するのである。 これまで自我と無意識、 これら二つの立場は歴史的には対立関係にあるとされてきた。
しかし、自我であれ、無意識であれ、どちらかひとつが欠けてしまっても、 それを物象化することは不可能である。両者が存在して初めて、
それ自身の存在も保証されるのである。 したがって、無意識に対立する自我がなければ 無意識を思考することもできないので、無意識の理想化もありえない。
こうした対立関係を考える機会を与えてくれたのは〈文化的同一性〉 をめぐるイベントであった。 それは、政治的アヴァンギャルド映画をテーマとしたものであった。
ここで注目したいことは、人種的・性的な同一性と相違の問題が、 映画という視覚的表象を使って論じられていたということである。 人種的・性的といったマイナスとみなされてきた同一化を、
政治的映画は利用しなければならない。 そういった問題抜きでは、政治的映画はつくることができないのである。 自分はこういう人間だと自分自身を確立する上でも、
同一性を考えなければならない。 このようにモダニズムの神経症時代の精神分析的な視覚イメージを一部で 用いてしまっていることで、性的なもの、欲望といった無意識のやっかいな
心的側面を問題にしなかったり、同一性と無意識を対立させたりして考える ポストモダニズム論に疑問を投げかけたいというわけである。
◇◆考察・疑問◆◇
父のメタファーと心的メカニズム
モダニズム → "父のメタファー"+"心的メカニズム"
ポストモダニズム → "父のメタファー"// "心的メカニズム"
モダニズムでは、超自我によってリビドーが抑圧されていたため、 自我の歪みというものがあったにせよ、少なくとも、 自我そのものは崩壊までには至っていなかった。
このことから、主体そのものの存在は神経症患者と例えられたとしても、 ぎりぎりのところで存在はしていたこととなる。 ポストモダニズムにおいては、主体は精神分裂病者さらには性的な問題と
関係の深いパラノイア患者としてなぞらえられている。 父のメタファーを排除することにより、心的メカニズムが崩壊する。 そして、その排除は、性的な問題を隠してしまうことにもつながるのである。
→主体の核となる自我が崩壊してしまっているポストモダンにおいて、 そもそも主体というものは存在し得るのか。
あるいは、モダニズムとは違ったカタチで存在するとしたら、 それはどのようなものか。
表象の概念
われわれが、視覚的にあるものを取り入れ、 それを自分の経験として蓄積するとき、 そこにはさまざまなスクリーンがかかっているのである。
それは、今までにしてきた経験や、文化背景、年齢や性別といったものである。 そして、今度は何かを表象しようとした場合、 やはりスクリーンを通して表にでていくこととなる。
とすると、同じ主体が吸収し、表象したものでも、 入ったものと出て行ったものとの間でも差異が生まれることになる。 それでも、われわれはカメラオブスクーラの時代、すなわち、
視覚を通して外界で起きている事が内面に直接的に伝わるような時代に対して 懐旧の念をいだいているのである。
→カメラオブスクーラの時代においては、例えば、 ヒーローという表象があった場合、 誰もが同じ人を思い描くということが起こりえたのだが、
今日においても、少数のカテゴリーでかんがえれば、 このような現象と似たようなことが起こりうるのではないだろうか。 たとえば、ユングの集合的無意識などをつかって、
これを説明することはできないだろうか。
◇◆用語解説◆◇
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パラノイア(paranoia):
体系立った妄想を抱く精神病。 妄想の主体は血統・発明・宗教・訴え・恋愛・嫉妬・心気・迫害などで
40歳以上の男性に多いとされる。分裂病のような人格の崩れはない。 偏執病へんしゆうびよう。妄想症。
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メタファー:隠喩:隠喩法の略。また、隠喩法による表現。暗喩。
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ノスタルジー(nostalgieフランス):故郷をなつかしみ恋しがること。
また、懐旧の念。郷愁。ノスタルジー。
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逆説的: 逆説を用いて説明するさま。
普通とは逆の方向から真実を述べるさま。
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コード(code):規定。準則。
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ステレオタイプ(stereotype):紋切型。常套的な形式。
また、型にはまった画一的なイメージ。
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イデオロギー(Ideologieドイツ):
@トラシーらを空論家として非難したナポレオンの侮蔑的用法をうけて、
マルクスが用いた語。歴史的・社会的に制約され偏った観念形態の意。 レーニンは、ブルジョアジーのイデオロギーに対抗するために、
マルクス主義をプロレタリアートのイデオロギーと考えたが、 その場合は肯定的な意味も持つ。
Aフランクフルト学派の批判理論では、虚偽意識として批判の対象とされる。
B転じて、単に思想傾向、政治や社会に対する考え方の意味にも使われる。
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構成主義(Constructivism,
Konstruktivizm):
ロシア革命前から1920年代にかけてソ連で展開した芸術運動。 V・タトリンが鉄板や木片によるレリーフを「構成」と呼んだのが発端で、
これは彫刻の歴史上初の完全な抽象彫刻であること、 量塊ではなく空間を表現した彫刻であることなどの点において革命的であった。
が、17年のロシア革命の実現とともに政治化し、教義――擬似性の否定、 社会的有用性、素材開発――が確立され、 これらの非再現的表現、機械・工業的表現に基づく幾何学的イメージから、
彼らがブルジョワ文化の象徴としての「絵画」を否定し、 工業化・大衆化によるユートピアの建設を目指していたことが窺える。
共産党中央委員会による抽象美術の否定、社会主義リアリズムの台頭により、 ロシア国内での構成主義は終結を余儀なくされた。
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フランスの小市民階級の神話 <バルト>:
『他者であることの拒否、異なったものの否定、同一性の幸福、 似た者への評価がふくまれる』
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フォークランド戦争:
1982年4月、かねてからイギリス領フォークランドに 対する"正当な領有権"を主張していたアルゼンチンが、ついに島を武力により占領。アメリカや国連事務総長の調停は失敗に終り、
時の政権:サッチャー内閣はこの占領に対し、 遠征艦隊を派遣し同島を武力で奪還。戦いは英国の圧倒的勝利。
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フェティシズム(fetishism):
持ち運びのできる手ごろな石、木片、 貝殻、人間の毛髪などにマナ的な呪力が備わっていると信じて、
お守りとして常に身につけているような信仰形態。 また、マルキシズムでは、資本主義社会において貨幣の価値が人間を 奴隷にするような状態のことを、物神崇拝(フェティシズム)とよんでいる。
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弁証法(dialectic):
西田の絶対矛盾の自己同一という弁証法、 サルトルの現象学的な意識の弁証法、アドルノの否定的弁証法などがある。
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リオタール(Jean‐Francois
Lyotard) :
フランスの哲学者。 ポスト構造主義の思想家。主体や進歩主義といった近代の理念を批判する ポスト‐モダンの立場を提唱。著「ポスト‐モダンの条件」など。(1924〜1998)
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ジェイムソン:
『ポストモダニズム−あるいは後期資本主義の文化理論
(Postmodernism, or, the Cultural Logic of Late Capitalism)』を書き、
戦前のアメリカ資本主義を、大量生産/大量消費/大量雇用を旨とする フォーディズムとの並行関係でとらえ、第二次大戦を分水嶺として、
それ以降の発展を以前とは異なるものとして後付け、 それをもうひとつの論点であるポストモダニズムの問題へと接続しようとする。
その手続きは文化理解などによって進められている。
◇◆映画に関して◆◇
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- イボンヌ・レイナー:
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NYでモダンダンスを学び、
のち映画を撮るようになる。 『MURDER and murder』 (96) 50歳中頃までレズビアンとして生きてきた女と、
60歳に達する頃に初めて女性と関係を持った女を描くなど、 6本の映画を監督している。
『MURDER
and murder』
イボンヌ・レイナーについて
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ピーター・ジダル
紹介
作品紹介
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ポール・ギルロイ:社会学の教授。黒人文化とその周辺について研究している。DJでもある。
著書について
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映画のドキュメンタリー性の変遷
「新しい主観性」 マイケル・レノフ 高橋直翻訳
※最後の方にゲイやレズビアンのアイデンティティを探求するドキュメンタリー 映画についての短い記述あり。サンコファ・フィルム・ビディオ集団の作品
などがあります。
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