〈要約〉
〈ハンス・ハーケの作品〉
ドイツ帝国議会の建物 |
ハーケの作品 |
言語 |
Dem Deutschen Volke
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Der Bevolkerung |
独 |
to the german people
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to the population |
英 |
ドイツ民族へ |
住民へ |
日 |
Volkは由緒正しいドイツ語で民族を基礎として考えられるもの。 ドイツ国民であるにはドイツ民族でなくてはならないという排除の論理がそこにはたらいている。
population、住民と言ったときにはそこに"民族"という概念は含まれていないが、 ドイツ語のこれに相当する言葉(Bevolkerung)にはVolkという言葉が入ってくる。
つまり、民族という概念が住民という言葉の中に表されている。
作品を通して、ハンス・ハーケは血とか民族がドイツの国民を成すという ドイツ人観を批判している。ハーケはドイツ人の定義の仕方に疑問を投げかけている。
〈アートと政治〉
アートはアイデンティティの問題に関わるものであり、 友/敵という対立の次元としての政治的なものになりうる。 多くの芸術家、批評家はpolitical
artという言葉を避ける。 political artは強力に政治的武器であるからである。 しかしpolitical artとnon-political
artの区別は不可能。 美の実践であるすべての形式のアートは政治的次元を持っているのである。
〈シャンタル・ムフのpoliticsとthe political〉
ムフはpoliticsとthe politicalをはっきり区別している。 これはヘゲモニーの考えに結びつくものである。
〈自由主義と民主主義〉
多くの自由民主主義者は自由と平等は共になくてはならないと信じている。
〈the people(民族)とpopulation(住民)〉
humanity(人間性)は政治的方法で使われていても、政治的概念ではない。 描写的な社会学的概念である。そして"住民"はそれと同じ方法の中で使われる。
"民族"を"住民"に置き換えることは問題を孕んでいる。
民主的な市民とは民族であると政治的に確認された人であり、単に住民であるのとは違う。 人は生まれながらにして住民であるが、民族になるには政治的に民主的な市民だと
確認されなければならない。 ドイツでは"住民"と"民族"の完全な識別は不可能である。 民族は市民の共同体であり、市民(the citizen)の要素を持つのである。
〈どこで線を引くか?〉
住民や民族にどのように線を引くのか? 「移民」問題は常にその線を破壊する。 まずは人権(Human rights)と市民権(citizen
ship)の違いを明確にする必要がある。
〈cosmopolitan democracy とcosmopolitan citizenship〉
キーナンの問い>>>非政治制度の中で公平に線を引くことは可能なのか?
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自由発想の中でいえば、市民(demos)でなくても市民権は持てる。
cosmopolitan citizenshipが発達していけば、いつかは簡単にどこにおいても行使されない権利を 持った市民(the
citizen)になれる。
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市民権はcosmopolitanになりうるためにも国民国家(the
nation-state)とつながっている必要はない。
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humanityは市民(demos)ではない。humanityを持つために
cosmopolitan citizenshipの重要な点は「あなたは"人"であり、あなたは"市民"である」 ということである。
〈demosが国際的なものでないのは?〉
シュミットの考え
→政治的統一なくして国家は存在し得ない。政治的統一のためには市民によって共有された 共通実体の存在が必要不可欠。
demosとは……一定の政治原理に対する同意によって限定される市民。
〈市域という枠の中で〉
少数派の共同体にしても、政治性の問題にしても、territorialityというものを根本的に考えていく必要がある。
〈民主主義・資本主義に関して〉
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過激な民主主義的な生産と理論によって役割を演じることが前提条件として重要。
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民主主義の可能性は、資本主義の進歩や秩序を乱したことで混乱をまねいている。
→弾圧(oppression)と敵意(antagonism)が表面化する可能性がある。
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敵意の基礎は資本主義の発展に関連している弾圧によって形作られていた。
このため資本主義の発展は結局敵意としてしか現れなかった。
→増加する社会生活の商品化
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根本的な民主主義の大量生産は敵意の新しい形を考慮し、
階級社会否定の点で排他的に明確に述べられることはもはやない。
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左翼の生産を考え直そうとした。(敵意の新しい形は資本主義と関係がある)
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人が完全に自由民主的政体を壊す必要だった考えをまた批判
→ 「完全に壊す」という意味での革命の伝統的な考えを捨てる必要性
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過激な民主主義の問題は、過激・自由な民主主義の点から理解されるべきであった。
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「アンチ資本主義」のムーブメントの中で面白い発展はglobalization(世界化) のプロセスの抵抗に由来している
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資本主義は私たちを規制化した消費者へと変化させようとして、 同時にそれに対してのstruggles(もがき)の発展も見てきた
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資本主義が批評を中和する商品へと変化する事ができる安定化がある。
→ 商品化に基づく敵意にとって、ほかの敵意のある再商品化を越えられる。 それは梱包材料によって中立できる能力である。
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過激なムーブメントを作る上で[enemy]と[adversary]の定義が必要
→ 定義された敵がいるので新しい政治の形が現れた
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我々が今日目撃している世界化の種類は代わりのあるものではなく、 多くの国でのナショナリストの思っている世界化に抵抗できるとは思ってはいない
Schmittはマルクス主義を拒絶するためではく、 階級の次元の対立に関しての洞察を見るためのものとして活用した。
→「The Political」は宗教・道徳・芸術を含む
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民主主義モデル:対立多元化(審議の民主主義のように代わりのあるものではなく、集合的な民主主義モデル)
→民主主義はその興味の交渉の中に巻き込まれ、集合的な相違への道を満たしてくれる。 第二次世界大戦後、本当に支配的な民主主義の確立
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私たちは多くの異なった領域に適当である対立のダイナミックさがあることを理解しなくてはならない
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近年は、自由主義的に焦点をあて作品を作っているが、それもまた自由主義を批判する重要性がある
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多元性は民主主義的な伝統に由来しない(全体主義である)
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集合的な同一化としての「Political」の特異性は理解すべきである
→欲望・愛・すべてのものに関係がある
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公的領域の理解は再びわたしたちがantagonismsとagonismを論議するのにつながる antagonisms:enemyとfriendの間のもがき と agonism:敵の考え の区別。
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agonisticの公的領域のform(形式)は民主主義のための否定的、 もしくは脅しとして見られるべきではない。逆に民主主義を生き残らせ、
右翼から守ることは「アンチ民主主義」のなかのpassion(情熱)を 流動することを可能にしたのである。
Lefortの定義の論議について、 理性的な方法で理解するのではなく、情熱の流動、またはindentificationの集合的form(形式)
で理解すべきである。
〈考察〉
重要なポイントとして、4つの点が挙げられるだろう。
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the politicalとpolitics
ムフによると、政治には2つの意味での政治がある。
the political(政治的なもの)としてのそれと、politics(政治学・政治)としてのそれである。 the
politicalはantagonismの次元であって、friend/enemyの区別(線引き)である。
この線引きが政治であるならば、ある種の排除の存在は政治抜きには語れないのである。 自由主義を好まないシュミットも、政治を2つに分類しているようだが、
the politicalのなかで2つに分けているようである。
彼は政治をpaticular aspect(the economic ,the moralと対立するようなもの)と determinationに分けている。一方、politicsはthe
ensemble of discourses and practices である。これはアイデンティティの問題に通じてくるものであり、2番目のポイントである。
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アイデンティティについて
identification and form of identity
are constitutedなのである。 政治的統一が国家という存在であって、政治的統一の為には共有されたものが必要であり、
それがドイツの場合はドイツ国民=ドイツ民族と結びついてしまった。 政治哲学において市民権を持っていない人を国民とすることは、
国民の再定義を必要とするのである。
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区別
人は何かにつけ区別をしてしまうが、 区別はinclusion(包含)かexclusion(除外)のどちらかになる。
これは先のfriendとenemyの区別にも当てはまることである。 どこで線を引くか?引いたときにはもう二分されることは決定的なことで、
その時点で差異がでてくる。ただ、世界的規模で考えていくことにより、 国家の立場にとらわれないものになるだろう。一元的なものの見方でなくて、
「市民」と限定するのはなく、広げてみると、根本的には「人間」であるのだから。
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political art
politicalなアートを行うハーケの作品が登場するが、 political
artとnon-political artを区別したり、どっちだと議論することは意味がない。 なぜなら、すべてのアートは政治的次元を持っているからである。
そのほかに、作品に対しての敵意は資本主義の発達に関連している弾圧によって形作られていた ので、資本主義の発展は敵意としてしか現れなかった。
さらに、資本主義が止まらないとはムフは思っていないが、 現時点ではそれに取って代わるものがないので、どのように資本主義を追いかけ、
対抗するモノを生産するか、そして資本主義の規則をどのくらいもつものかが問題となっている。
資本主義のヘゲモニー性はほとんど疑う余地もなかったが、 だんだんとそれに対抗する抵抗が生じてきた。そして、enemyとfriendの定義ができあがってきた。
加えて経済から独立した世界化の現象を理解できないので、経済の次元を再吸収しなくてはいけない。 (マルクス主義へのチャージ)。我々の立場はポストマルキシズムだが、この場合もまた、
ポストマルキシズムにくくられてしまう。
すべての作品には政治的意味が含まれているのである。
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