Beginning postmodernism
Postmodernism, film, video and televisual culture〔E班〕

発表日:平成14年5月22日
発表者:久保宏子・二宮瑠依子・白石総人

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〈要約〉
Introduction
  ジャン・ボードリアールはTVや映画はアメリカの本質や現実である、と位置付けた。さらにここ最近を「イメージの時代」とし、その中ではTVがポストモダンの媒体であるということもしばしば塗りかえられてきており、多様な形態の媒体が議論されるようになった。メディア文化そのものが、すでにポストモダン状況になってきた。
  Televisual mediaはpopular cultureに作られていて、サブカルチャーの成立とtelevisual mediaから見出だせるTV中心的スタイルのイメージや技術などの間には、共通部分が多く、特にそれはcybercultureに顕著に見られる。ビデオやTVに流れている音楽や他の形態は、毎日の生活や社会的慣習に吸収される。ここではTVやmusic videoやcybercultureの関係や問題点などを論じていく。
Television:zipping and zappig

  深層をみない」というポストモダン文化は、まさに支配的要素のあるTV文化であるともいえる。もし、TVがポストモダニズムのオリジナルな文化媒体であるなら、TVのモダニズムの時代区分を付けることは難しい。一つは、1970年後期からの新しい保守的な経済などの時代の到来とともにTVをポストモダンと位置付ける見方。一方は、TVを常に典型的なポストモダン媒体と位置付ける見方がある。
 
<J・ボードリアールとC・ノーリス>
 
  ボードリアールはthe ecstasy communicationの中で、ポストモダンの時代は現実と虚構がポストモダン文化と癒着していることが原因である、とのべている。さらに、社会は情報の中に入り込みすぎており、私たちの意識の中にも商業化されたイメージは進入してくる。
  私たちが実体にふれる前に、すでにそのもののイメージを持っていたり、情報が与えられていたりしているような状況、つまり、それは表層だけしか見ていなくて、実は深層に隠れているものをまったく知らない社会を「シミュレーション社会」としている。
また「シミュラクル」というのは、「神」のように「実在しない記号」をシミュラークルと定義し、そのシミュラクルの生成過程をシミュレーションとした。つまり、実在なき虚構といえる。
  televisual mediaは、象徴的である地位的なものを示す事で、一つに統制しようとした。映像時代の初めての戦争と言われた、あの湾岸戦争というものは、私たちにメディアによって構築されたイメージを通じて伝えたので、戦争の現実感をみせることはできなかった。つまり、戦争の表面的な部分しか私たちは受け取れなかった。シミュレーションを受けとる代わりに、メディアによって守られた戦争というものを受け取り、そのTVのごまかしは、戦争をかなりの地位的なものであるとして仕立て上げた。
C・ノーリスは、ボードリアールの見解は行き過ぎていて、危険だとした。ボードリアールの見解は、現実は外部の指示対象なしの記号とイメージによって構成されている。ノーリスの見解は、本当の現実世界の中にある認識は、論説の外に存在している、というこの二つの見解がポストモダン状況を語る上で影響をもっている。

<広告の神格化>

  ポストモダンのTVの中で神格化したものは広告ではないだろうか。J・ボードリアールは、TVCMにも見られるオリジナルなき現実感をhyperrealityとよんだ。(先程の湾岸戦争もhyperrealityである。)TVCMも商業的要素が強く、表面的なスタイルばかりを求めるようになった。製品そのものではなく、その後付け的意味や作り上げられたスタイルに価値を見出すようになった。
  M・フーコーが言うには、TVや映画の影響力というのは人々の記憶を組み替えてしまう。過去の事実ではなくて、過去の歴史を覚えておく、記憶は自己の葛藤という点で重要であり、記憶を操作できてしまうということは、そのひとが支配力・権力を握ってしまうだろう。(Cf. 湾岸戦争)

<いくつかの見解>

  • TVにおけるポストモダニズム論説者たちは、もはや私たちは現実の中には生きられない、が、イメージや表現された現実空間の中では生きることができる。けれど、イメージと現実感の間に流れる、その差異については、知覚できない、と述べている。
  • 私たちは、イメージが染み込んだ社会に生きているが、そこは現実感やイメージが崩れた、つまりシミュレーション文化の中ということである。
  • 現代の社会は視覚を純化させ、表層やスタイル優先のイメージを提示してきた。そのことは、私たちの消費行動に密接に関係している。

<J・フィクスのtelevision cultureと popular culture>

  J・フィクスはtelevision cultureのなかで、TVの力はTVによってつくられるテクストの完成度によってではなくむしろその未完成によって生み出されるのである。つまり作品として完成させ意味を確定するのは、最終的に受け手であるのだと、述べている。TVは支配的でありながらも、細分化している矛盾した媒体である。さらに、フィクスは受け手がTVに操られた人形にならずして矛盾したイメージやイデオロギーになんとかして闘っていけるような方法を分析している。
フィクスは、政治的、社会的な権力の社会統制側が生み出した、ヘゲモニーの産物である文化に対して、popular cultureは従属的立場にいる、受け手が自ら作り出した文化であるといっている。

  ポストモダン社会では、TVは社会を反映しているのではなく、社会がTVを反映している。社会はTV電子的なイメージのみせかけの連帯意識によって結びついている。TVはポストモダン文化の現実世界として機能している。もはや見世物化して商業的な要素も強く、そこで繰り広げられるものがネットワークの力として伝播していく。
メディア産業が基幹となる後期資本主義の技術的なおしつけのために、受け手は腹話術やまねきんのようなおもちゃになってしまうときに、過ぎ去ったことは、すでにイデオロギー的な影響力を潜在的にもつようになった。

VJs displace DJs : videos and MTV

  音楽ビデオやプロモーションはここ数十年間ポストモダニズムを最も魅了してきたテレビメディアのうちでも、トップに位置してきた。ピーターウォーレンは音楽ビデオをポストモダニズムの典型的な象徴だといって、次の4つの理由を明示している。

  1. テレビとビデオアートの違いをなくす。
  2. 生映像・映画・テレビといったメディア形式のジャンルの分類をなくす。
  3. 番組と広告というカテゴリーをなくす。
  4. ファッションパフォーマンスと融合している。

ウォーレンはアバンギャルド、キッチュ、ハイ・ローアートといったジャンルの純化や、アートのオリジナリティーという考え方は、音楽ビデオのような技術的に洗練された形式には全く意味がなく、もっと複数化された文化的解釈の形態が必要だといっている。

  カプランは音楽テレビチャンネルをまれにみるポストモダン文化の表現だとして、"虚構"と"現実"の境界が崩壊した一つの大きなの"幻影"だと言った。ポストモダン世界では表層が賞賛され、全てがイメージ・象徴・幻影へと省略されてしまう恐れがあるということだ。カプランはMTVのポストモダン的特長を、過去・現在・未来の区別の払拭と区別された伝統やジャンルの崩壊であり、通常のカテゴリー外に不安定な主題の配置を生み出すとした。それぞれの項目は他の項目によって無力化され一貫した関連をつくらない"記憶喪失"状態であり、見物人はイメージが定まらず次のビデオへと充足を求めるのだ。音楽ビデオを古い人間主義を信仰しようとする最後の反抗として捉えていて、ロックビデオはアメリカの現在の危機である自由主義一色になることへの反抗を象徴しうるといえる。

  一方、アンドリューグッドウィンは、模倣とはいつもビデオによって使われる"引用の形式"ではないという立場にたち、視覚の一貫性のなさから引用を6つの形態に分類した。

  1. 社会批判:多くの例がある
  2. 自己反映:音楽ビデオがそれ自信を標的にする
  3. 模倣(喜劇的):例は少ない
  4. 模倣:
  5. 販売促進:レコードと同様に映画の予告も流して売る
  6. 主従関係:特定の監督か文化形態にとって有益であるため

  ポストモダンの作品はその製作様式と美学との間の歴史的な繋がりが無いように批判されるが、グッドウィンはそれを製作状況との関係に見出し、テクストに一貫性が無いポストモダン作品ではテクストの批判の余地はないとした。そこで用いられる模倣は批判も支持もできない"空白"であるにもかかわらず、社会的、イデオロギー的に大変巧妙な手法である。さらに彼は、"ポピュラー音楽に象徴される特有の推移は音楽テレビの製作にかかっている"と述べた。"深層なし"のメディアであることによって、音楽ビデオのポストモダン分析は我々のポピュラーカルチャー現象の理解に空白を残す。ポストモダンの文学とは反対に、音楽テレビは意味構築を拒否することでは満足せず、意味がどのような権威を有するかを問うことで自らを改訂するのだ。

stop&think

@ MTVはビデオで模倣を用いることによって多くの矛盾を有するが、多国籍レコードとテレビ会社の経済的要求は、MTVによって企画された大いなる自由の精神とどのように争うのか。
A 同様に、MTVの若々しく、次世代的で、発明的で、派手な外観は大規模なそのポストモダン的スタイルは、ビジネスの保険としての策略であろうとも地球規模のマーケティングビジネスの結果である。
B 最後に、音楽ビデオと宣伝はひとつのメディアとして出現し、伝統的に主流から除外されているひとが音楽宣伝の主流へとアクセスするにはどんなアクセスの経路があるのだろうか。ひとはその作品から質の高い音楽を聞き分けることができているだろうか、もしくはただの良い  マーケティング戦略にすぎないだろうか。


Screening the image : postmodern film

  テレビの出現より以前に、映画は20世紀の社会でのイメージの構築を探究していた。映画はモダニズムより写実主義をとることで 逆説的に、相いれない正確さの現実を再構築した。人気のある主流な物語的映画では、科学技術を駆使した継ぎ目のない製作をとおして現実の幻想をつくりだしているが、その工夫をさらけ出したりフィルム上での意味構築の過程を明かすことで縫い目のない現実の幻想性を否定したのがポストモダニズムだ。 モダニズムの映画はアバンギャルドの作品を含み、意識の中心に据えることで公式のことがらを探り、さらけ出し、カメラが何をどのように象徴するのかを問いながらカメラの視線を自己に向けさせる。

  ジョンオールはポストモダンの映画の特徴を―模倣、自意識の寓話、ゲーム遊び、polyvalence―で、"新しいモダンの発明"でしかないといい、トニーウィルソンは"イメージの透明性を追究するのはモダニストだが、イメージへの事実の反映を探ることはポストモダンの美学である"と言った。フレデリックジェームソンは、モダニストの映画は、モダニストの絵画や文学や音楽のように、特有の自己や個人のアイデンティティーによって生み出される独自の不動のスタイルと独特の世界観を表現するモダニストの美学に基づくものとした。映画の世界においてその独自性は著者に属するという人もいるが、著者は監督の解釈できるようにつくったりする。ポストモダンの映画はそれを問題としない。著者−監督から切り離し、様式の純化を解放し、歴史化されていないフラットな空間である。

  ポストモダンの文化は、物理的歴史や歴史的過去を否定しする、表層を賞賛し深層を無しとする文化である。ジェームソンは、ポストモダンの映画を追憶や回想によって司られていて、それを映画の理論的枠組みを崩壊するとして、時間と歴史を取り扱えなくなった社会の病的兆候の警告だとみなした。回想映画は3つのタイプに分類できる。

  1. 過去における、過去についての映画
  2. 過去に関係する映画
  3. 現在における、過去を呼び起こす映画

  これらの映画において我々は、それが永遠に実現されない架空のものであるにもかかわらず、我々自身の過去に関する通俗なイメージとステレオタイプを介して歴史的過去を探ることになり、現実は常にテクストの外にあるという立場からジェームソンはポストモダンを批判する。
  一方、ノーマンデンジンは、人々が避けたいような人生の不吉な側面を探求することがポストモダン映画において最も重要な特徴であるとし、ポストモダンを批判しようとした。デンジンはいくつかのポストモダンの特徴をあげている。

  1. 過去と現在の境界や時間の扱いを取り去り、見る者を永遠の現在に置く
  2. 人前に出せないものの明示によって、普段わけられている公的生活と私的生活の境界に挑戦する
  3. 自由と自己表現を意味するが、魅力でも嫌悪でもある、野性的な性と暴力への導入
  4. ただの可能性ではなく、いつも現実としてある非現実と超現実

  デンジンはポストモダンの映画を、"世俗を日常の外に保つバリアを壊すために過去をほじくり再起させてあらたな価値を設定する一方で、保守的な態度をとるのは、ポストモダンの視点が実は未来を恐れているからだ。だから、過去の回想に安心を見出し脱出しようとする"のだと言う。彼はポストモダン状況とその矛盾をを批判的に追究する、逸脱したポストモダン映画を調べていきたいようだ。

stop&think

@ どういうことから、今のところ似たようなスタイルに加わるすべての映画は"ポストモダン"といわれるのか。映画は作られた時代だけによって"ポストモダン"といわれるのか。
A ジェームソンの回想はありそうもないと分析されたようだ。モダンの観客はなにを持って郷愁を感じたいのか。そこに性差はあるのか。
B バットマンを見てポストモダン的だと思ったもののリストをつくったとすると、高度にモダニズムな映画を見たときのそれとはどう類似しているだろうか。


Key characteristics of postmodern film
  1. 他ジャンル及び様式の寄せ集め的作品
    真似るということだけではなく、シーンやスタイルを暗にほのめかすようなやり方もある。
  2. 過去というもの現在に表現するスタイル
    レトロやノスタルジーの表現をしたり、他ジャンル及びシリーズの間での乗り入れもある。
  3. 自己反射性の技法
    現実社会及び世界を反映したシーンや、ストーリーを使い、フィルムを現実社会の一種の
    「鏡」として扱うような技法。
  4. highカルチャーと lowカルチャーの差異を無くした作品
    スタイル間及び、アニメと実写の合成など、技法間での融合的なものを迎合する。

Postmodern film: an example

Blade Runner (1982年、リドリー=スコット監督)

  • 同時代のカルチャーと深く関係した諸議論を最も引き起こした作品。
  • 映像における最先端の視覚効果というものを大きく利用した作品。

  多くの記事が「ブレードランナー」とPhilip K. DickのSF小説をcybercultureのはしりとして認識していた。つまり「ブレードランナー」はposthumancyborgの理論とvirtual reality技術の文化の到来であり、その一部である。
  Jamesonはモダニストの映画は、個人の作家性というものが追求された苦しみの表現であり、一つの洗練されたスタイルである、と言っている。これにとって代わるものとして、スタイルの欠如と、それ以上に、相対主義的考えというものが出てきた。つまり多様なスタイルというものを獲得したのである。このことは同様に過去というものを、寄せ集めてきなモノとしてだけではなく、現在に移行したものとして確立させた。「ブレードランナー」では、特にその都市の表現の中にノスタルジックなものを見ることができる。そこでの都市は、超近代的かつクリーンなものではなく、様々な文化や境界というものが入り混じり、レプリカが氾濫(反乱)しており、ポストモダンの結果としてのpost industrialな状況にある。又、このフィルムにおいて、現在性というもの(未来)というものは、過去(私達の生きる現在)に基づいて構成されている。唯一、モニュメント的に超近代的なジッグラッドが存在しているが、言語、ファッション、行為は入り乱れており、それらは統合され、多様さが描かれている。この様なフィルムにおいて、優位を占めている視覚的ショー性というものは、ポストモダンにおける指示対象の欠落に由来している。つまり、視覚的技術に関係した、イメージが先行しすぎている状態と言える。物語の中ではrealとunreal、originalとcopyの境界が崩壊しているのである。Baudrillardは「ショーにおける社会と言うものは、シュミレーションの社会である」と言っているが、このフィルムの中では、人間のシュミレーションとしてのcyborgと人間の境界線という、シュミレーションの考え方は成功している。物語は両者の差異を徐々に明らかにしていくが、cyborg達は実に人間的な要素を含んでおり、大きな問題として、結局何が本物の人間と言うものを定義づけるのかという疑問にたどり着く。


Televisual prosthetics and postmodern cyberbodies

  Televiaual technologyというものは20C.に大きな発達を遂げた。又、televisual cultureもmicro processorとcomputer networkingの発達により大きく変革し、新たにcyberspaceと呼ばれるものを生んだ。またvirtual realityは、人間を統制する許容性、可能性の下に、大衆化された。そして、これによりポストモダニスト達は、新たな技術とコミュニケーションの形、二つの関係性について考える必要が出てきた。
  Cyberspace技術の改革と言うものは大きく迎え入れられることとなったが、神秘的、超越的と表現されてきた。Virtual realityの民主的擁護者であるHoward Rheingoldは、新しいtechnologyとそれによってもたらされる社会と言うものに対してある主張をした。(imageとtechnocultureというポストモダンにおける新しい中心は、人間の体の能力に対する再評価というものをもたらし、)それは、Bodyは既に存在していない、肉体は人間を表してはいないということである。この議論の最先端にいたArthur&Marie Krokersは、肉体はnew technologyとpost-Enlightment哲学に取って代わられた、と意見している。この意見は、Baudrillarde, Georges Bataille, Deleuze, Guattariの(※反転させてみてください!!人間の体内を構成しているOrganism) という学説からは独立している。確かに、唯一人間だとみなされる何かをtechnologyが変える能力は、概念的に、実質的に探られた。アーティストであるStelarkは、今日technologyは身体の外にある補足物ではなく体内に完全に結びつき組織化されたものである、と主張し、人間の肉体の限界と言うものを押し上げ、Prostheticなものを生みだした。
  また、virtual realityは肉体の限界を広げるもう一つの方法であり、technologyと肉体は多様的に関係し始めた。Cyberspace, cyborg, cyberneticsはポストモダンの文化において重要な部分を占め、post human bodyに関してたくさんの思索を生んだ。つまり、post human bodyとはpower & pleasure, virtual reality & reality, sex & the consequenceなどポストモダンにおける関係性の産物の一部であり、techno bodyであり、hybrit bodyであり、cyborgであり、a body without organsであり、人間の肉体の限界性の無いものである。
  また」、一部のフェミニストにとって、cyborgは理想化された観念上のものとして、当てられた。そのような人達は、post human的なものが従来のculture gender hierarchiesに基づいた、男女間の差異にとどまらず、様々な境界線を超える、一つのシンボルとして実在するものだと感じている。加えて、フェミニストアーティストの中には、ジェンダーの構造に取り組むため、自らの肉体を変化させることによる可能性に感心を持っている人もいる。
 Technologyの進歩と関係した、新しいポストモダンの主観性に関する議論は、post industrial & information worldに関する社会学的意見によって、拍車がかけられた。理論家達はこのtechnologyが主題の再定義、主観性の再構築、文化体系の再構築を促す、と言っている。Landowはcomputer technologyを文化的大変革のおこる、新しい時代への先触れとしてとらえている。
  一連のnetworkとlinkによる、文化の再構成の特徴として3つの例を挙げる。

  @ 肉体と主観の決裂
  A 民主主義とvirtual community
  B 社会及び文化的実践と言語使用の接近

  cybercuitureやtelevisual technologyの発展というものは、ポストモダンの問題にぴったり当てはまる。未来を完全に予測することは出来ないが、それにもかかわらず、post-symbolic communicationの可能性は残され、cyberspaceは概念の変革の先端としての行為の間で揺れ動いている。


〈考察〉

<自律性を持ったものたち>

  何かを見るとき、それは既存のイメージや経験を通してしか、私たちは知覚出来ない。そのイメージというフィルターは、すでにメディアによって浸蝕されており、視覚を純化させる行為には無理がある。ますます、メディアが現実と虚構の位相を複雑にしていくことは予期できる。
  戦争を現実として捉えられなくなり、映画やアニメにみる戦争のほうが現実的、つまりhyperrealの世界にしか生きられない状況になってきている。メディアによって伝えられる戦争報道は、自分の中では歴史的出来事として消費されてしまい、戦争の現実感はますます喪失されていく。
  商品の機能や効用よりも、デザインやスタイル、イメージを重要視する消費、つまり記号を買うことが消費の中心となった。記号そのものが自律した存在になり、そこに意味を付着させ、いつのまにか、それを自己として回収していた。その作用を促したのはまさにTV/CMにおけるメディアであった。
私たちが知らないうちに、虚構はどんどん肥大化していき、意識を浸蝕し、無意識まで浸蝕し続けるであろう。そのなかで、記号やイメージは自律し、私たちの価値意識や消費行動はその方向に向かっていっているように思える。メディアが自律し、記号やイメージまでもが自律している今、私たちにとっての必要条件は、自身も自律した意識、視覚、知覚をもつことであり、それをもってしてcyber cultureや hyper culture世界を生きていかねばならい。
  多種多様の価値観が溢れている世の中において、ある種の絶対者が望まれるのは、至極当然のことなのかもしれない。
  ポストモダン状況とは、記号とイメージの連結方法があまりに多様化してしまった結果その方法が個人にゆだねられ、そこからわき起こる精神的不安な社会状況ともいえよう。

〈疑問〉
  • 社会的に構成されたスクリーンを利用した、政治的作用は今後の戦争や紛争にどのように関係していくのか?また、コミュニケーションツールとして中心的存在になりつつある、コンピュータによる操作はどのような影響が考えられるのか。
  • 映画が第7芸術として存在しているが、ポストモダン的相対主義の中で、絶対的な第8芸術と言うものが誕生するとすれば、それは一体どのようなものなのだろうか。また、それらはどのようにコンピューターテクノロジーと結びつくのだろうか。
  • ポストモダン映画といわれる映画には、固定された意味的解釈がないのが特徴ともいえるが、そのような映画が増える中、人々が共有する感想があるとしたらそれはどのようなものであろうか。