議事録

マスメディアとしての近代建築

平成14年4月17日

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〈疑問点の論議〉
〔Aグループ〕
>純粋化や概念としての建築にこだわったコルビュジェはその先に何を求めていたのか。本質を求めることは彼にとってどのような意味があったのか?

(田中)
コルビュジェにとっての純粋化とは「実際人がその空間としての建築を感じる」ということではないか。建築物を写真に写すこと自体が本来純粋ではないのか。

(市川)
純粋化することの本質とは。

(森村先生)
「少女のドローイングで線を少なくすること」は単純化、「建築写真を修整すること」は純粋化とあるが、純粋化と単純化は同じことだろうか。

(市川)
少女のドローイングも建築写真の修整も純粋化。両方とも作者にとって意味がある。

(大野)
少女の場合、少女の周りにあるイメージを取り外すための純粋化であって、写真の場合は逆に作者の意志をくっつけるための純粋化である。

(松田)
純粋化というのは本当に必要な部分だけを残すこと。つまり要らない部分を削ぎ落としてゆく作業。それは俳句に似てる。

(久保)
ものをくっつけたり、手を加えることで自分の中にある源ようなものに近づけようとした。自分のアイデアに純粋でありたいことの現われ。

(小川)
余計なものを取り払った。

>何故、芸術作品は純粋でなければならないのか?

(久保) 純粋であることに挑戦する試みがアートではないか。

(田中)
バウハウスの校長、ヴァルター・グロピウスが生徒にある授業で「一枚の紙を立たせなさい」と課題をだした。生徒たちはいろいろな趣向を凝らして紙をたたせたが、一番優秀である作品は単に紙を二つに折り曲げて立たせた、ごくシンプルであるものだった。

(久保)
先生が立てなさいと言ったのが、一番伝えたいことだったからだろう。


> コルビュジェはマスメディアの論理に批判的であったのに、どうしてマスメディアを使ったのか。

(松田)
マスメディアを多用している他の建築家、芸術家への皮肉ではないか。

(市川)
マスメディアへの挑戦?

(久保)
「マスメディアで伝えられるものは本物とは別のものだぞ」というのを逆にマスメディアを利用して大衆に伝えようとした。(別のものとして写せるぞ)

(市川)
ある程度、写真のもつ力を受け入れている。

(森村先生)
マスメディア(大衆化)に対して @批判 A引き離す B同居 することで逆に利用することをしたのではないか。

 

〔Cグループ〕
> 文章中に「写真に撮ることで、そこに写ったものを支配できる」とあるが、隣の木を眺めるためにある人が家に窓を作った。その後、その窓から見える景色が話題になり、注目される。その時にこのある人は隣の木を、まるで自分のもののように支配できてしまうのではないか?

(白石)
自分が分かるということが支配ということ。

(古田)
実際の持ち主の家としてでなく、コルビュジェが壁に描いた絵が家として有名になった。

(大野)
P.78の「セクシュアリティの陵辱」とは誰に対してだろうか?

(森村先生)
「覗く」ことでの「占領」 「フレーミングする」ことでの「占領」 壁画がコルビュジェによって見られること自体で、アイリーン・グレイはコルビュジェによって心理的に占領されている。

 

フェティッシュ
コルビュジェは大衆にとっての住宅や家庭が嫌い。精神患者とこういった家を望む人に共通点を見た。コルビュジェは大衆、マスメディアに反抗していた。

モダニズム:芸術は純粋でなければならない。大衆、ローカルチャーとは切り離さなければならない。

工業化に抵抗できないがそこと芸術を離そうとした。
デザインは大衆化を目指したが、ARTは純粋化をめざした。
建築が一番難しい。
⇒ コルビュジェは絵画出身で、建築の純粋化を目指した。建築自体は生産を免れないので、写真に撮り、修整することで純粋化を保った。

ARTは大衆の混濁を逃れなければならない。マスメディア、大衆などから 凡庸な大衆は複製品は本物に忠実な写しであると認知する。アーティストはそれだけの複製品はアートではなく、さらに何かを加えたものがアートとなる。