マスメディアとしての近代建築 〔C班〕

発表日:平成14年4月17日
発表者:古田祐也・佐々木麗・高橋希和
〈要約〉
機会の眼

  カメラは、カメラ・オブスクラのような「現実感覚の透明な表象」をするのではなく、自分を写す鏡ともなり、新たな現実を〈生産〉する。それは精神分析の無意識の構造に似ており、写真と無意識における空間モデルでは、内部と外部ははっきりと分けることはできない。つまり、精神分析学において、内的心理とその外的現われの関係が永久に複雑化されているように、写真でも、カメラ・オブスクラ的な「内部化した観察者」である主体と、外部世界の客体の境界が「不可逆的に曖昧にされる」のである。このことは、新たな空間感覚、事実、新たな建築の発現を示している。

写真のフェティシズム

  非規範的なル・コルビュジェの人格形成での重要な部分を占めていたのが旅であった。彼にとって旅は「他者」との遭遇であり、彼のフェティシスティックなドローイングは、「異邦人の家」を占拠するための、外的世界の「適応化」プロセスの一部であった。彼は、ドローイングという手仕事と、写真という機械を対立的にとらえていたが、しかし、彼にとって、まず写真が絵画の前にあった。写真は主体=見者に対してフェティッシュ化された対象として立つ。彼は、描くことで「異邦人の家」としての写真に入っていき、そのイメージを描き直すことで、その空間、都市、そして他者のセクシュアリティを植民地化したのである。

考察と知覚

  建築とその写真による表象は異なっている。実際には美しい建築が、写真における空間では歪曲して見えてしまうという現象、あるいその逆の現象が起こりうる。それ故、建築をそのまま表象するには写真は不適切であるという、実際の建築と、複製された建築のイメージの混乱が生じる。しかし、写真、出版物、映画という複製可能な「文化産業」であるマスメディアは、いままでの生産者と生産物という関係を転倒させる。このような「消費社会」における生産は、それ自身の再生産の論理に従って展開するのであり、そして、ル・コルビュジェはこの産業に深く関わっていた。

修復されたイメージ

  彼にとって建築とは観念の純粋な領域で解決されるべきコンセプチュアルな問題であった。ところがそれは建設されることにより現象する世界に混濁され、必然的に純粋性を失ってしまうものであった。そのため、彼は、写真における二次元の空間を利用し、修正、還元し、ふたたび観念の領域に回帰させた。写真はたんなる鏡像として建築を反映するのではなく、ページの空間に、もう一つの建築を築き上げることとなる。つまり、彼の製作過程では、建てることの概念化とその再生産は、再度交錯するのである。

たえざる編集

  ベンヤミンが語ったように「遠くの場所や有名人、ほのぼのとした時間」などといったあらゆるものを接近可能にする写真を、ル・コルビジェは例外なく、もともとの文脈から引き剥がしたり、塗ったり、ディテールを消去したり、フレームしなおしたりする。そうして、こういった修正されたイメージが再び修正され、選択され、組み合わされ、構成されるのである。写真の本質とは、ため込むよりも選択することにある。そのことは、視覚から何かを欠き落とすことを意味する。その「不完全」性が、失われた部分を引き出そうとする緊張感を生みだし、そこでは、経験と経験から来る知識が問題となる。そのような写真と同様に、窓も何にもましてフレーミングである。

眺めのいい窓

  コルビュジェの水平窓はピュリスム的な空間の表象によって、これまでの表象概念をなし崩しにする。

ペレの垂直窓:

遠近法の空間=観察者の目に全てを集中させる。窓は人間自身。

コルビュジェの水平窓:

投影図=写真・カメラ(とりわけ映画カメラ)の空間であり、焦点がない。
視線の分散。窓は典型的機械要素。 人間中心的なモデュール(標準化)。

  窓は、内部と外部、私的空間と公共空間の関係を暗に示している。コルビュジェの作品では、この関係は空間の無限性と身体の経験のあいだの対比に関係する。彼にとって、窓は、身体をフレーム化するより、機械的な代替品であったのである。

 
〈考察〉

  カメラや写真は、近代の新しい認識・知覚空間を提供した。カメラのレンズは何でも透けて通す「透明な存在」ではない。レンズのガラスは鏡ともなり、そこに映った自分は、デカルトの「我思うゆえに、我有り」の「我」には当てはまらない、いままでは知られていなかった新しい「私」の出現であった。そのようなレンズを通して写された写真が、純粋な対象の表象にはなりえない。このことは、同じくガラスでできた窓でも同様にいえる。 このような、鏡としても機能してしまうガラスのイメージは、遠近法による再現的な表象の世界から、「もの自身と、ものの現われのあいだとの切れ目の表象」へと変わったことを問題にしている。見ることと見ているものが一致しないこと、そして、その間にある「裂け目」が問題となるのである。つまり、見えているものよりも、無意識や、「透明な表象」を成り立たせない不可視なものが問題となってきたのである。 このような知覚では、主体と客体の境界の曖昧さ、ハイアートとロー・カルチャー、建設と建築の概念化、観念化の関係を切り離して考えられない。写真にとることと、ドローイングも同時に起きていることなのである。

そのような写真の作り出す空間について

  • 写真に撮り、ドローイングしてイメージを再生産することで、そこに映ったものを支配できる。

  • 写真はそれ自体は何も意味しないが、マスメディアで形成された写真は、その独自の文脈におかれる。それらは、すでに選択され、組み合わされ、構成された対象である。そのような写真マスメディアの文脈からイメージを引き剥がし、また描くことで取捨選択され、解釈され、少ない線にディテールを還元することによってイメージは再生産される。これは「始まりも終わりもない」プロセスである。このことによって、解釈者から生産者へとなり、創造的活動が営まれることとなる。

  • 水平窓を取り入れた近代建築は、その眺めがスチール映画のように見えるため、マスメディアである。脱中心化され、フレーミングで認識するという新しい知覚様式を、コルビュジェは、身体の代替品となる機械、ここでは建築そのものを身体の代替品と見立てているのであろう。

ペレ

「垂直窓」が「完全な空間の印象」を与える。
 --街路や庭、それに空といった、遠近法的な深みを受け入れるから。
 ↓
ル・コルビジェの「水平窓」に反対。
なぜなら、風景全体を眺めるのが普通であり、左右を眺められても空や庭の上下を眺めることが出来ない窓は、「人間の知覚や正しい風景の鑑賞」を妨げるものである。
=薄っぺらな投影図(ブルーノ・ライクリンが言った)

垂直窓・・・遠近法の空間(一点に視線が集中してしまい、全体が眺められない)
水平窓・・・投影図=写真の空間であり、焦点が集中しない。集中しないために全体を見渡せる。

水平窓は、例えばコルソーでの彼の両親のためのヴィラでも分かるように、カーテンが側柱のように束ねられていて、窓が4つあるように見える。
これにより、風景は、リズミックなグリッドに収められ、一連の写真や映画のスチール写真の連続のようになり、それを水平窓から眺めると理想的な眺めになる。

→水平窓を使った近代の建築は、写真やテレビなどのマスメディアと同じ要素を持っている。



〈疑問〉
  • この文章の中には、「写真に撮ることで、そこに映ったものを支配できる。」ということが書かれているが、次のような場合、次の危険がある。隣りの家の庭に植えられた立派な木を眺めるために、ある人が家を改築し、1枚の絵に見えるようにまどを作った。その後、その窓から見える眺めが世界中から注目される。そのときに、このある人は、隣りの立派な木を、まるで自分のもののように支配できてしまうのではないか?

  • ル・コルビュジェは建築の写真に手を加え編集しているが、それは許される事なのだろうか?写真家は理想の瞬間を捉えるために、シャッターチャンスを待ち続けるが、手を加えることが許されてしまうなら、パソコンでいくらでも理想の瞬間に書き換える事が出来てしまう。それは、芸術といえるのか?

  • 近代建築に取り入れられている水平窓は、視点が定まらないために全体を見渡せ、まるで、スチール映画をみているように見えるため、理想的だとル・コルビュジェは論じている。しかし、現代において窓の外は高層ビル・道路など、いくら映画のように見えても安らぐことは難しい。それならば、自分が気に入った一部分の景色だけを絵画のように見ることができる垂直窓の方が理想ではないのか?

 
〈用語解説〉

ピュリスム

純粋主義。第1次世界大戦後フランスの画家 A.オザンファンと建築家ル・コルビュジエが主張した造形の純化を意図する芸術思潮。キュビスムによる対象の解体に抗議して,対象の造形的要素を厳格な科学的規則に基づいて再構成することにより,絵画に建築的構造美を与えることを主張。また 19〜25年まで雑誌『レスプリ・ヌーボー』を発行して彼らの思潮の展開,普及に努めたが,その影響は絵画よりもむしろ建築やデザインに及んだ。

フェティシズム

呪物(=物神)崇拝」。特定の事物に対する美的な感情移入の総称。フロイトによると、それは呪物の典型はペニスであるという。女の人のペニスの喪失が、少年に不完全性に対する恐怖や驚愕を構成し、自分も去勢されるのではという恐怖を抱かせる。また、エイディプス・コンプレックスを持つ少年は、母親のファルス(ペニスの喪失状態)になろうとするが分裂してフェティッシュな感情を抱くという。人間の知覚と感覚的物質性を直接結び付けようとするその態度は、宗教的な形態をまとっているか否かの違いはあるものの、近代的な合理主義精神では十分に説明できない経験を補足しようとするといえ、同時代に発生した「美学」とも共通している。



〈参考web〉

★アイリーングレイについて  http://www.tangle.com/Eileen/nihongo/JWelcome.html

★コルビュジェの建築(ジャンヌレ邸、サヴォワ邸)
http://member.nifty.ne.jp/jun_n/3interest/Architecture/PARIS/index1.html