空間の生産 〔B班〕

Part.2
発表日:平成14年5月8日
発表者:田中裕美・西宮佑騎・小川望・小山景子

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〈要約のつづき〉
◆空間の統一に着目した人々  [9章・P56〜]

  シュルレアリストは確かな論拠は無いが、自らの詩において、その詩によってヘーゲルの歴史の目的を仮定し、その結果歴史の叙情的な形而上言語だけを超越論的な物質代謝における主体と客体との幻想的な融合だけを生み出す。
  その為にシュルレアリスト達は・・・
×主体と客体との関係を言葉で変容させ、意図的に歪めて描写し、それを言葉で反復することで意味を過剰に詰めこんだが何の変化も無かった。

G・バタイユの作品において
  一方における内的経験の空間と他方における物理的自然の空間や社会空間との間の結びつきを追い求めた。
  彼は現実的なものと現実の深層にあるものと現実を超えるものとの間の道筋をたどった。
  ↓
それはニーチェがたどった道程―噴出性、回路切断性の道程

J・ラフィット
→メカノロジーの理論によって物質的現実と認識と社会空間を探求しようとした。
  J・ラフィットは空間を占拠する進化系列を作成し、自然と認識と社会の発生を図式化した。

[ラフィットの仮説]
作者によると、彼の専門性の反省的な思考は明示性と公然性を強調し、実践において包み隠された、論理性とは異質の潜在的な領域を避ける合理的、知的なもの。
But
この反省的な思惟は、この包み隠された領域を発見する思惟を拒み、それはまるで思惟の空間と社会空間においてはすべてが「互いに向かい合う関係」に還元されてしまうようだ、と述べている。

◆ヘーゲルにさかのぼろう  [10章・P59〜]

  空間の統一理論(物理的、心的、社会的)の探求はいかにして放棄されてしまったのか。このことを理解するためにはヘーゲルにまでさかのぼる必要がある。

ヘーゲル主義:

歴史的≪時間≫こそ、国家が占領し支配する≪空間≫を生み出す。
歴史が実現するもの⇒×個人における理性的存在の原型ではない
              集合体における理性的存在の原型
だから≪時間≫は、空間に固有な合理性の中で凍結され、固定される。

  歴史的産物はそれ固有の力を通して存在のなかで持続するが、歴史は消え去る。時間は何の意味も持たない。時間は反復と循環性によって支配され、不動の空間が樹立されることによって圧倒される。この不動の空間こそが実現された≪理性≫の場である。
  空間が国家に奉仕されるものへと物神化されたため、哲学などの実践的活動は時間の復権を求めるようになった。

⇒だから・・・マルクス  歴史的時間と革命の時間を再生する
        ベルグソン 心的な持続と意識の直接性を強調
        フッサール 現象の「ヘラクレイトス的」流れと≪自我≫の主観性を提起

◆ヘーゲル以後  [10章・P61、3行目〜]

  ニーチェ:空間の優位性と空間領域の問題圏を維持
  ニーチェの空間≠ヘーゲルの空間

@ニーチェの空間:
力の基体であり、範囲を限定されたものであり、モデルである。エネルギーや力が自らを確証できるのは、空間におけるその作用を通してのみである。
※エネルギー、時間、空間
Aヘーゲルの空間:
歴史的時間の産物であり、残存物である。

  ニーチェの時間≠マルクスの時間

@ニーチェの時間:循環的で反復的な生と死の時間・空間
Aマルクスの時間:
生産諸力によって前進させられ、産業・プロレタリアート・革命の合理性によって楽観的に方向づけられた歴史的規定

◆20世紀後半には何が到来したの?  [10章・P61後2行目〜]

@ 国家が世界的規模で強化。ヘーゲルの図式にしたがって、空間が優位をしめる。国家は、諸種の紛争と矛盾を廃絶する理論を強化する。
A しかし、同じ空間に別の力が沸き立つ。権力に対しての秩序転覆の暴力がそれである。だから、国家が規範を加えるごとにそれに対する反対勢力が強まり、社会領域が侵食される。差異が平穏化されることはなく、それは、打ち負かされるが、生き延びる。
c.f. 階級闘争の問題(ブルジョワジーV.S.労働者階級)

◆本書のねらい  [11章・P64〜]

  今まで認識論的な考察では、抽象空間が築かれ、それらほとんどの考察は心的空間に安住している。本書の目的はこの状況を打破することである。しかし、それは空間に関する諸コードの破壊ではない。なぜなら、そのコードは、ユークリッドと遠近法の空間の消滅という決定的なできごとによってすでに解体しているからだ。これからやらなければならないのは、そのコードがいかにして破壊されたか、またそれらのコードの効果を確かめ、 新しいコードを打ち立てることである。

◆命題 ≪(社会的)空間とは、(社会的)生産物である≫  [12章・P66〜]

  空間が固有の現実になっていて、しかも商品・貨幣・資本とおなじようなグローバルな過程として、しかもそれらとははっきりと区別された過程として固有の現実になっているのを認めるのは多くの人々にとって困難である。
@ 空間が社会諸関係を含んでいるならば、それはいかにしてなぜであろうか?
A 空間と社会諸関係とはどのような関係があるのか?
⇒社会空間の特異性を浮き彫りにする

⇒HOW?
心的空間と物理学の空間からはっきりと区別する。
@これらの社会空間が物の収集や事実の総和からなるものでもないし、いろいろな中身をつめこむ空っぽの小包からなるものでもない。
A社会空間が諸現象・物・物理学的物質性におしつけられた「形式」には還元されない。

  ≪(社会)空間とは(社会的)生産物である≫これが事実であるならなぜこの事実は隠れているのか。それは、透明の幻想と不透明(現実主義的な)の幻想が、一方を強化し、一方を隠してしまうからである。 [13章・P67〜]
  @透明の幻想
  A現実主義的な幻想


〈考察〉

1.古くアリストテレスの時代から、この「空間」の概念は多くの哲学者たちによって語られてきた。ここではヘーゲルに光をあててみることにする。彼によれば、歴史的時間こそ、国家が占領し支配する空間を生み出す。例えば、植民地などを思い起こしてくれれば、このことは容易にわかるはずである。歴史的時間によってつくられた空間は現実に存在し、その空間では多くの人々が生き、さらに物が存在する。そこに、主体が存在することで、その空間ではまた新たな時間がながれていくのである。しかし、歴史的な時間、すなわち、空間をつくりだした源はどうなるのか。それは空間に凍結され、固定される。歴史的産物である空間は固有の力を通して存在の中で、持続する。ここに、空間の優位性がある。
  しかし、ここで私の中にひとつの疑問がうかびあがった。それは、空間の中に主体(つまり、認識し、行為し、評価する我)が存在する場合、その凍結された歴史的な時間が解凍され、その空間の優位性を脅かすこともありえるのではないか、ということである。つまり、歴史は本当に消え去るのか、という疑問である。歴史的な時間が、民族問題、階級問題を含んでいる場合、主体がその過去の事実をみつめ、認識し、行動に移した場合、不動だった空間に亀裂が生じ、その領域があいまいなものになることもありえるのではないだろうか。そうなった場合、空間は不動のものだといいきれることができるのであろうか。

2.筆者の主張は「空間とは社会的生産物である」、ということだが社会活動が営まれる前の空間はどう説明できるのだろうか?この考察として、私はホイルと同じようにその空間(空虚な空間)は一種のエネルギー(物理的なものから社会的なものまで包括するエネルギー)発されたことから始まるのではないかと考えました。というのも、宇宙は長らく語られてきた様々な空間が存在する場であり、この空間は物質から発生されたエネルギーの生産物だからである。つまり空間とは社会活動を含めたエネルギー発生の生産物だといえるのではないか?


〈―各哲学者の考え―〉

ルネ・デカルト (1596〜1650)

  デカルトは物体の属性を<延長>と定義することで、自然には延長とその運動以外のものがなくなり、一様な数学的世界が成立すると説き、アリストテレス的な質的区別のある世界を打破した。彼は物体と区別された空間を認めず、無は延長を持ち得ないから、<空虚>つまりそのなかに何の実体もない空間は存在し得ないとした(註1)。

アリストテレスの空間論 

  アリストテレスは天上の世界と地上の世界を厳密に区別し、また、物体の運動を目的因と始動因によるものとした。天体が落ちて来ない原因として、天体は地上には無い第5元素よりなり、それが持つ固有の性質である円運動をするとした。その考え方から、天体の運動を論じたのが、プトレマイオスである。
  さらにアリストテレスは真空は存在し得ないとし、空虚な空間という考えを否定し、空間はあくまで<場所>であり、それは物体が占めている物体自身の境界面であり、よって<空間そのもの>は存在し得ないとした。

スピノザ 「汎神論」

  汎神論は「すべては神である」とする思想で、神を宇宙や自然と同一のものと考え、あらゆる現実は単一で神聖なものだとされていて、神は直観的に経験するものであると説く。スピノザは合理主義者であり、神と人間と物質的な世界はすべて一つの実体に含まれ、物質的なものも精神的なものも、すべて神の一部であると考えた。スピノザ以外に汎神論を唱えたの哲学者として、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルがあがる。

ニュートン主義・ニュートン力学の空間

  18世紀はじめ、ニュートンによれば空間は物質を入れる空虚な容器であり、3次元的で連続し、静止して無限であり、一様で等方的、等質なもの。そして通常の意味での宇宙空間を絶対静止空間と考え、この宇宙空間が絶対空間であると同時に、すべての相対運動の基準系となる絶対静止系であるとした。
  そもそも絶対静止空間とはどのような空間なのか。空間に突き刺さった立て札でも無い限り、物質によって、そのような空間を規定することは出来ない。そこで、ニュートンは水の運動(バケツの実験)によって、絶対静止空間を仮定出来るとした。しかし、一般相対性理論で明らかになったように、バケツを静止させて、水の回りの空間が質量によって歪められると、同じ現象が起こる可能性があることをオーストリアの物理学者で実証主義哲学の論客として有名なエルンスト・マッハ(1838〜1916)は指摘した。
  しかし、ニュートンの運動方程式によって、物質の動きが宇宙の細部まで、力学という言葉で記述出来ることが明らかになった。また、この運動の3法則から、エネルギー保存の法則、運動量保存の法則が成り立つことが、導かれた。特に、運動していない物質もポテンシャル・エネルギー(位置エネルギー)を持つこと、さらに、相対論によって、エネルギーは質量に変換されることも明らかになった。

ライプニッツ

  上記のニュートンの考え方に対してライプニッツは、空間とは互いに別々に存在する個々の物体の集合の配列の順序であって相対的なものであると主張した。

カント

  18世紀後半のカントにおいては、空間が主観的人間的な視野の性格を持ち、我々の直観の形式にほかならないと解釈した。カントはみずからの考えを次のように整理して示している。
  第一に、空間の観念は外的感覚からの抽象によって得られるのではなく、逆に外的感覚が空間の観念を前提するのだ。空間観念は外的経験のア・プリオリ(ここでは、「理性に基づき、経験から独立に」という意味)な前提である。第二に、空間の観念は一般概念ではない。それは個別(部分空間ないしそれを充たす物体)を部分として「内に」含むところの全体であり、この全体自身が個別者なのである(このことはニュートンの絶対空間があらゆる部分空間を容れる容器のように考えられたことに対応)。第三に、個別者の観念は、概念ではなく直観である。第四に、空間はライプニッツの考えたように実体間の二次的関係ではなく、またニュートンの考えたような、事物を容れる無限な容器というべきものでもなく、精神が外的に感覚されたものを同位秩序におく形式であり、主観的な、観念的なものであると主張した(註2)。

ヘーゲルの弁証法

  まず第一にヘーゲルの弁証法とは、対立する観念の間の矛盾が調停されるプロセスを歴史と捉える、一種の歴史観。つまり、矛盾する観念のペアを統合しうる高次の観念がいつか出現し、あらゆる矛盾は最終的に一つの絶対的統合へ向かうだろう、ということ。図式的には幾分トーナメント形式に似ているが、異なる点は対立/矛盾が一方の勝利によって終結するのではなく、新たな観念の出現により対立/矛盾自体が調停されること。しかしいずれにせよ、最後に残るのは唯一の観念である真理。
  第二に、ヘーゲルの弁証法とは最後から考える歴史観。要するに、最後において、あらゆるものを調停する絶対的理念を考え、その最後から現在を遡及的に考える思考のタイプである。では何によって最後、つまり未知なる未来を知るのかと言えば、これは信念以外の何者でもありません。つまり、「最後はこうなるはずだ」もしくは「最後はこうでなければならない」から考えはじめ、そうであるならば「現在とはこういうものであろう」と考える。
  第三のヘーゲルの弁証法の側面は時代精神です。第二の弁証法の側面で最後がいかなるものか、そのイメージを保証しているのは信念、しかしこれでは厳密には歴史観にはなり得ない。なぜなら信念というのは個人的レベルにおいて言われることだが、歴史観とは個人を超越する論理(もしくはその存在如何)に関することであるからです。そこでヘーゲルは、信念とは言わずに時代精神を持ち出します。つまり、時代の流れには、主観を超えたレベルにおいてある傾向=時代精神が存在し、その傾向は絶対的かつ無媒介な最後へと向かうものだ、と。この時代精神は存在自体に内在するとヘーゲルは考え、あらゆる存在はそうした傾向を持つのであって、だから時代精神の自己完成のプロセスは揺らぎ難く必然的なものだと考える。
  以上3つの側面の関係を整理すると、第一の説明はいわば教科書的なもので、それに対して、第二の説明は第一の説明の裏面であり、第三の側面は第二の側面の迂回です。

J・デリダ

  たとえばJ・デリダは、神とも同一視されるロゴス*(言葉、声、理性)を真実在とするロゴス中心主義を批判する。それは、ロゴスという本質とその外部からなる二分法を前提し、本質との一致、本質の現前を真理とする。このような前提から、階層秩序的な二項対立をはらむ言説が次々と産出される。すなわち「パロール/エクリチュール」*「内部/外部」「自己/他者」「同一性/差異」「本質/仮象」*「善/悪」「精神/身体」「人間/動物」などの優劣を強調する二分法であり、「西洋/東洋」「男/女」などといった自己中心的な差別的言説である。そうして世界は階層化される。頂点に神が座し、それとの同一化、すなわち内部化の度合いが、階層内での位置を決定する。それはつねに他者の支配的同一化を狙っている。このような形而上学的言説を、デリダは脱構築しようとする。すなわち、二項対立のうち支配的な前者が実は後者に依存していること(もちろん優劣の単なる逆転ではない)を指摘しながら、境界線が決定不可能であることを暴露するのである(Derrida 1967a)。
ポイント=現実の向こうに潜んでいる本質・真理を見抜くのは、哲学や宗教の仕事である。しかし、「真理を見抜いた人は偉い」と祭り上げてゆくと、宗教の排他性・階層性の問題も出てくる。そもそも、本質とか真理を、現実とかけ離れたものとして固定化することは可能か。優劣を含んだ二項対立は不変のものとしては成立しがたく、移り変わりやすいものであることを、デリダは指摘した。

用語解説
「ロゴス」=ギリシア語で、本来は人々の話す「ことば」の意。そこから、1)言語・意味・思想・概念・理論(言葉を通して表された理性的活動)、2)理性・理由・説明、論理、さらに3)宇宙万物の変化流転する間に存在する調和・秩序の根本原理としての理法(実体化される傾向がある)、またキリスト教では、4)「神の言」、それが形をとって現れた「子なる神」(三位一体の第二位=キリスト)。
「パロール/エクリチュール」=フランス語で「話された言葉/書かれたもの」。
「本質/仮象」=現象しているものは、その背後にある本質(あるものをあるものとして成立させる固有の性質)が、仮の姿を問って現れているとする、ギリシア以来の二分法。


〈参考文献〉

(註1)「世界の名著 デカルト」野田 又夫(中央公論社)369−381参照
(註2)「世界の名著 カント 」野田 又夫 39、54参照 41ページより